26. Mirror. 

「おい、カーロッサ。目ぇ覚めたか?」

 遠慮なくずかずかと入り込んできたのは自分たちより少し年上の男だった。
 ここが病室だということを知っているのか、と言いたくなるような態度だった。
「と、ああん?」
 そしてベッドの両脇を固めている二人を見て、わざとらしくおどけた顔をしてみせる。

 ふと、イーシスは気付いた。

 この男が着ているスーツは、アニエスがいつも着ているのと同じだ、と。
 ということは、アニエスの仲間なのか……?
 その手には大きめの荷物を下げていたが、やや乱暴にアニエスの眠るベッドの足元に乗せた。
「おいおい、なんだよ。二人もはべらせて、お姫様かぁ?」
 馬鹿にしたように言う。
 その態度にむっとしたのは、イーシスだけではなかったと思う。
 けれど、イーシスやアークが口を開く前に、返事を返したのは、ほかでもない、アニエスだった。

「くだらんな。そういうあなたは何をしに来た」

 はっきりと、いつもと変わらない口調で喋るアニエスに、イーシスは男のことなどどうでもよくなって振り向いた。
 が、ベッドに横たわるアニエスは相変わらず目を閉じたままだ。
「言ってくれるな。おまえこそ動けもしないくせに」
 まるで、すべて知っているとでも言うように、男は鼻で笑って言い放つ。
「どきな、ハージェ」
 そして遠慮なく近寄ってくると、有無を言わさずイーシスを押しのけた。
 何をする気だ、と警戒したが、男はアニエスではなく、イーシスの奥にあった機械に手を伸ばした。
 こいつは医療部の関係者なのだろうか?
「体内部の機能を上げるぞ。……どうだ?」
「良好」
 アニエスは目を閉じたまま動きもせずに、ただ、単調に返事を返した。
 けれど、イーシスの目から見ると、何が起こっているのかわからない。
「脚部」
「良好」
「腕部」
「良好」
 男はなにやら装置のスイッチを一つずつ押していく。
 アニエスがそれに短く答える。
「頭部」
 そして。
「……良好だ」
 最後に答えると、アニエスはゆっくりと瞳を開いた。
 さっきまでとは違い、その視点はちゃんとものを捉えている。
 その証拠に、わずかに天井を見つめていた後、眼球がさっと動いて、スーツの男を見た。
「作業遂行、感謝する」
「どういたしまして。ついでに運び屋もやらされちまったよ」
「……世話になる」
 何の話かわからない。
 が、アニエスは会話が終わったのか、いきなり、むくりとベッドに身体を起こした。
 あまりに自然に起き上がったので、イーシスはその不自然さに気付かなかった。
「あ、アニー! 駄目じゃないか、まだ寝てなきゃ!」
 アークが慌ててそんな彼女を抑えなかったら、さっさとアニエスはベッドから降りていただろう。
 そんな……馬鹿な。
 ついさっきまで、意識なく眠っていたやつが。
「いや、アーク、大丈夫だ」
「駄目だ」
 立ち上がろうとするアニエスを、アークが作った恐い顔をして彼女の両肩を押さえ込む。
 イーシスもまったく同意見で、彼女がこれ以上抵抗しようものなら、自分も手を出すぞ、と内心思っていたが、アークにはめっきり弱いアニエスは、その幼馴染みの顔を見返して、諦めたようにおとなしくなった。

「く……はははっ! なんだそりゃ!」
 それを見ていたスーツの男が、馬鹿にしたように笑った。
 随分とおかしなものを見た、という感じだ。
 むっとしてイーシスは、自分の隣にいる男を睨みつける。
「なんだ、知り合いなのかと思ったら、そうでもないのか」
 わけのわからないことを言う。
 こいつには、アニエスとアークの絆が見えないというのだろうか。
「そういうことは、ない」
 そしてアニエスも、どういう意味だかわからないことを言う。
 が、困惑しているイーシスとアークにかまいもしないで、アニエスは男に手を突き出した。
「運び屋をしてくれたのだろう? わたしの、パスをくれ」
「ああ。おい、ハージェ。あれ、とってやれ」
 男がくいっと顎で示したのは、ベッドの足元に置かれたこの男が持ってきた荷物だ。
 どうやら、アニエスの荷物、ということらしい。
 使われるのは癪だが、男の動作に、アニエスの目が一瞬イーシスを向き、そして荷物に向いたので、自分で取ると言い出さないうちに、イーシスは荷物を引き寄せた。
 荷物はなにやらいろいろ入っているらしく、大きさのわりには重くはないが、だが、軽いばかりでもなかった。
「ありがとう」
 荷物を渡してやるとさっとその中に手を入れて、いつも彼女が使っていたパソコンと、それから半透明のケースをひとつ取り出す。
 まるで入っているものが何か、知っているようだ。
 ケースを開くと、身分証明書のようなカードがあって、アニエスはそれを自分の左胸に当てた。
 スーツの胸ポケットがある位置だ。
 すると。
 ぴっ、という電子音がした。
 カードと、一体何が反応したのかわからず、イーシスは眉をひそめる。
 アニエスは今、医療用の一枚布の服をまとっているだけのはずなのに。
 今、なにをやったんだ?

「よし、完了。あとは自分でやれるな?」
「ああ、大丈夫だ。世話になったな、ミラー」

 アニエスが、男の名を呼んだ。
 すると男が、ふん、と鼻で笑った。
「なんだ、気付いたのか」
「あなたとは一度、話しただろう?」
「ふーん? キャラ変えてたつもりなんだけどねえ?」
「それも気付いている」

 アニエスが無表情に告げると、男は……アニエスがミラーと呼んだ男からは、すーっと表情が消えていった。
 それが、アニエスと似ていると思って、なぜかぞっとした。
 こいつらは、皆、同じ……なのか?

「それならついでに聞いておこう」
 無表情になった男は、まるで別人のようなトーンで喋った。
「おまえはあの時、何発受けた?」
 それが。
 銃弾のことだと気付いて、イーシスは男を振り仰いだ。
「二発だ」
 そして答えたアニエスを、すぐに振り返った。
 その表情はいつもの少しも変わらない。
「どちらもハージェを狙っていたのか?」
「そうだと思う。発砲の時点で、サリオンらは射程内にいなかった」
 ぎょっとした顔の二人の前で、ミラーはふーんと軽く相槌をしてから踵を返した。
 イーシスの脇を通り抜けて、あっさりと部屋を出て行こうとする。
「て、おい!」
 思わずとっさに呼び止めたが、ミラーという男は気にしたふうもなく、ひらりと手を振って部屋を出て行った。
 行ってしまった。

 部屋に沈黙が降りる。

 が、アニエスが、残された荷物の袋に手を入れてごそごそし始めて、沈黙は破られた。
「あ、アニー?」
「なあに」
 アニエスは何でもないように答える。
 そして袋の中から、いつも着ていたあのダークグレーのスーツの上着を引っ張り出した。
「えーと。それ、何が入ってるんだ」
 どうでもいいことではあるのだが、イーシスも少しだけ気になる。
「別に。あとは着替えだけよ。と、言うことだから、少し出て行っててくれるとありがたいのだけど」
 アニエスの台詞に、アークは驚いた顔をして、それから少し頬を染めた。
「あ、ああ」
 そして慌てて身を翻すかと思いきや、ずいっとベッドのほうに身を乗り出した。
 アニエスがなんだろうと見返すその顔に、頬に。
 アークは唇を押し付けた。
 アニエスは……ニ三度瞬きしただけだった。
 いや、アークが離れてから、少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、外にいるよ。あとで呼んで?」
「ええ」
 頷くアニエスの傍から離れると、イーシスを促して、先に部屋を出る。
 すぐ行く、と答えたイーシスは、けれど言葉に反して丸椅子にどかりと座りなおした。
 無言でアニエスを見詰める。
 それを見返してきたアニエスは、無表情を少し、曇らせた。

「それは、どういう意味かしら」
「残念ながら、俺はアークほど盲目じゃない」
 腕を組んで睨みつけるように。
「盲目?」
「あいつは、おまえのことになると、周りが見えていない」
「……。アークは……やさしいから」
 言ってアニエスは目を逸らした。
 けれどイーシスは逸らさない。
「ふん? そのやさしい幼馴染みを、おまえはそうやって裏切るのか」
 アニエスの視線は、揺れなかった。
 動揺も、傷ついた素振りもない。
 それが……真実だからだ。

「アークと俺が出て行ったら、おまえはここからいなくなるつもりなのだろう?」

 それは、微笑んでアークに告げた言葉とは裏腹だ。
 けれどイーシスは誤魔化されなかった。
 アニエスのことなんて、知らないことばかりだから、だからこそ、おかしいと思ったのだ。
 イーシスは腕を解き腰を浮かせると、片膝をベッドに乗り上げてアニエスに迫った。
 そして片手を彼女の背中に回す。
 さすがにアニエスも、びくりと身体をこわばらせた。

「おまえ、怪我はいいのか?」
 気になっていたのだ。
 どうして、こいつはこんなに普通の顔をしている?
 撃たれたのは、数時間と前ではないのに。
 覗きこんだイーシスの前で、アニエスは少し、微笑んだ。
「ああ、それは大丈夫だ。嘘じゃない」
「……なぜ?」
 そっと彼女の背中を撫でる。
 身を縮めるのは怖いのか、それとも単にくすぐったいのか。どちらにも見える。
「……わたしたちは、大丈夫なんだ。それに背中には、これを入れていた」
 アニエスがこれと言ったのは、携帯用のパソコン端末だ。
 薄っぺらいそれを、背中に、入れていた?
「だが、血が……!」
「見たのか?」
「見た、というか、この手で触れた」
 あのときの感触を思い出して、今触れているアニエスを、抱き寄せたくなる。
 ここにいるアニエスは、あの雨の中とは違って、確かに体温を感じさせた。
「そうか……。あのときは、驚かせてすまなかったな」
「そうじゃないだろ!」
 イーシスは、我慢できなくなって両手でアニエスを引き寄せた。
 けれどアニエスは抵抗する素振りはなかった。

「どうしてあのとき飛び出してきた? それもおまえの仕事だというのか!?」

 アニエスは、自分をかばったのだ。
 それは、なぜだ?
 自分が狙われることより、そちらが気になった。
 これではまるで、自分が標的になると、わかっていたようではないか。
「仕事……それはそうだけど。身を挺して守れとは、言われていない」
「では、なぜ!」
「……わたしのやったことが不満なのか?」
 腕の中のアニエスが、見上げるような仕草をしたので、イーシスも彼女の顔を見下ろした。
「おまえのやったことがじゃない。その結果が不満なんだ」
「……。すまない。わたしの手が甘かったんだ」
「は?」
 意味がわからずアニエスを見下ろす。
 アニエスはイーシスを見返して、けれどすぐに視線を落とした。
「ひどい雨と風と、それに雷で。よく、わからなくて」
 確かにあのとき、周囲の状況などわからないような天候だった。
「あの場所で、あなたたちを見ている者がいるというのは気付いたのだけど。それが狙撃手とわかったのは、本当に発砲の直前だったんだ」
「……」
「さっきのミラーもいたのだけど。しかも、わたしとミラーが見つけていた人物は別だった。だから余計に情報が混乱した。あそこにいたのが、あなた一人でなくて、アークもいたら、わたしはふたりを守れたかどうか自信がない」
「それは……守れるのは一人だけという意味か?」
「いや。まあ、身を挺して守るのなら二人同時は無理だな。ではなくて。
 わたしが監視していた狙撃手の銃砲が、あなたに向いていた。
 だから、だけど、止める手立ては間に合いそうになくて、それで飛び出した。
 そうしたら、わたしの気付いていなかったもう一人の狙撃手もあなたを狙っていた。
 だから偶然わたしは二発の銃弾を受けて、標的だったあなたはひとりだったから怪我をすることもなかった」
 偶然。
 そんなもので、彼女は片付けるのか。
 そんな言葉で。
「助けてくれたことには礼を言う。だが、なぜ飛び出すようなことをしたんだ」
 なぜそこまでしたのだろう。
 これがアークならまだわかるが、自分を。
「……わからない。だた、稲光に浮かび上がった狙撃手を見て、駄目だと思って。
 そうしたらもう、わたしは……」
 言い終わる前にイーシスはアニエスを再び抱き寄せた。
 抱きしめた。
「大丈夫なんだな、もう?」
「ええ」
 アニエスははっきりと答えた。
 彼女は何者なんだ、と思わずにはいられなかった。
 この手を離してはいけない、と、そう思った。