アニエスは、行政府の関係者なら持っているはずの身分証を持っておらず、
かわりにアークがポケットから見つけ出した身分証らしきものには、個人データが入っておらず、
医療部の面々は、彼女の扱いに困っていた。
けれど、正規に派遣されてきている新人四人のうち、三人が口をそろえて、知り合いだというので、追い返しも出来ずにいた。
ましてや彼女は、銃弾を受けていた。
担当医がくるまで、医療部で出来ることといえば止血と、検査だが、肝心の検査が一向に出来ずにいた。
彼女の知り合いだという三人は、まもなく医療部の検査室に通される。
「検査が、できない? なぜだ?」
救護士の言葉にイーシスが険しく聞き返す。
アークは不安げに、おそらくアニエスが寝かされているのだろう、カーテンのほうを見やった。
「アーク」
ぼそっとサラディが友人にささやいた。
「俺、外に出てるわ」
「え?」
「アニーちゃんのこと、知ってるわけじゃないし。グレンと一緒に部屋にいる」
居心地が悪かったらしいサラディは言うなり、じゃ、と医療室から出て行った。
イーシスはちら、とそれを見たがなにも言わなかった。
「すべての装置がエラーになるんだよ」
「装置が、エラーになる……?」
意味がわからずイーシスとアークは顔を見合わせる。
「それに先生も来ないし」
「来ない……って。医師は常駐していると聞いているが?」
「そうなんだが」
歯切れの悪い相手に、不安と苛立ちが募る。
しきりにアークが気にしているカーテンの向こうに、イーシスも目を向けた。
「ああ、入ってもいいよ」
そんな二人に気付いて、カーテンを指し示される。
顔を見合わせた二人だが、躊躇ったのは一瞬で、アークがさっさと歩き出すのにイーシスも従った。
二人は今、スーツではなく、私服を着用していた。
医療部から担架が来ても、イーシスはなぜかアニエスを放す気になれず、それでも無理やり引き剥がされて、同様にアニエスから離れようとしなかったアークと、二人まとめて放り出された。
落ち着くようにと、シャワールームに押し込まれ、出来るだけラフな格好にしろと、同期の二人に世話を焼かれた。
だから今は、建物に不似合いなくらいの軽装だった。
カーテンをくぐると……そこに、アニエスが横たえられていた。
アークは早足にベッドを回り込み、顔を覗き込む。
どうやら検査用らしい、白い一枚布の服を着せられている。
が、検査はできないという。
どういう意味だ?
「あ、はい!」
二人がいなくなったさきほどの部屋から声がする。
会話の相手の声は聞こえないから、通信だろう。
「え……しかし。はい、でも……」
なにか不都合があるのだろうか。
いや、検査も出来ず、医師も来ないなど、充分不都合なのだが。
アニエスは静かに眠っていて、苦しそうな様子はないが、なにぶん素人なので状況はよくわからない。
「わかりました、ハージェ殿」
「え?」
会話が終わったようだ。
しかし、ハージェと言ったか?
それはつまり……イーシスの父のことか?
だが、本国ではないこの場所で、なぜ?
そしてすぐに、ドアの開く音がした。
慌しく人が動く気配と話し声がして、そして、看護士らしき人々が、カーテンに仕切られたこの場所へと入ってきた。
さすがのアークも、アニエスの傍から離れる。
治療なりなんなりはじめるのなら、自分たちはここから出て行くべきだろうと、イーシスが行くぞと合図したとき、飄々とした足取りの男が入ってきた。
白衣を身にまとっているから、医師だろうか。
「ほう? イーシス・ハージェにアーク・サリオンか」
そして二人を見て、にやり、と笑った。
ぎょっとした。
その笑みは、アニエスがときどき浮かべる笑みに、似ていると思った。
そして、笑みを浮かべた顔には、大きな傷跡が走っていた。
「こいつと知り合いと言ったそうだが、本当かね」
医師だろう男は、面白そうに二人を眺めてたずねてくる。
イーシスは……思わず、怒鳴った。
「それがどうした! さっさとそいつを診ろっ!」
そしてさっさとその場から歩き出す。
いつもなら咎めるアークがなにもいわずについてくる。
「やれやれ」
わざとらしく大きな声で呟かれた男の声を、二人は揃って無視した。
待つこと数十分。
二人はどこにも移動せずに、けれど苛々とそこで待っていた。
イーシスは、一緒にいるアークにときどき目をやったが、廊下の椅子に座ったアークは、じっと俯いて、組んだ自らの手をじっと見つめたままほとんど動かなかった。
看護士がふら、と出てきたとき、そこにいた二人に軽く驚いた様子を見せた。
まさかずっとそこにいるとは思われていなかったらしい。
それから、苦笑気味に、入っていいですよ、と言われた。
言われるとすぐに、アークが早足に部屋に入って行き、イーシスは追いかける形になった。
部屋には数人の看護士がいたが、あの顔に傷のある医師はいなかった。
ここのほかに出入り口があるとは知らず、けれどそんなことはどうでもいい。
先刻目にしたのと同様に、白い長袖の服を着せられ横たわる彼女のものへと近づく。
「アニー……アニエス」
その目が開いていないことも、充分承知だろうが、アークは枕元に屈みこむと思わずといった感じで呼びかけた。
それでもアニエスは、睫毛の一本だって動かなかった。
白い顔は、いつもと変わらず、まるで無表情だ。
用の済んだ看護士たちは、やがていなくなっていく。
誰も何も言いもしない。
なんだかとても奇妙な場所だと思った。
眠るアニエスと、それにぴたりと寄り添っているアークと、そしてイーシスだけが残された。
イーシスは部屋の隅にある丸椅子を勝手に拝借する。
アークとは反対側のベッド脇に陣取る。
つまりは入り口側で、アークは奥ということになる。
「……妙だな」
しばらくして、イーシスはつい、ぽつりと呟いた。
アークが、アニエスから目を離してイーシスを見た。
「……何が?」
こちらもぽつりと呟いた声が、静まり返った部屋に妙に響いた。
そう、妙なのだ。
イーシスはちら、とアークを横目で見て、それから、部屋の中をぐるりと見回した。
「おかしいとは思わないか」
「おかしい?」
彼女のことしか見えていない、考えられないアークにはぴんとこなかったようだが、この場所は奇妙だ。
「医療機関なんてあまり行ったことはないんだが」
イーシスは手をあごに当て、考えながら言葉を紡ぐ。
「銃弾に撃たれたこいつが、軽傷だと思うか?」
「え?」
驚いた様子のアークが、イーシスからアニエスに視線を落とし、それからまた、イーシスを見返した。
「あれだけ血を流して、意識がないような状態なのに」
イーシスはアニエスを見た。
眠っているように見えるが、それだけだ。
あの出来事を目撃していなかったら、彼女はどうかしたのか、と尋ねただろう。
怪我をした様子など見受けられない。
顔色がいいとはいえないが、言ってしまえばそれは……いつものことだ。
「銃弾はどうした? 手術をしたか? 輸血は必要なかったのか?
偶然軽傷ですんだとして、そんな状態の患者を、医師も看護士もほっとくのか?」
待たされた数十分なんて、健康な人間が検査をするのにもかかる時間だ。
言われて、アークは周囲を見回した。
誰もいないことに、このとき気付いたのかもしれない。
アークには、アニエスしか見えていなかったのだろう。
「……あのとき、銃声は二発、だったよな」
アークが急に考える顔をしたと思ったら、そんなことを言った。
「は?」
イーシスは驚いた。
むしろ……イーシスはそのときのことをあまり覚えていない。
「いや、わからん」
「……一応聞いてみるけど、おまえは、どこも、平気だったんだろうな」
「聞くの、遅いだろ。平気だ」
自分は銃弾なんて受けていない。
背中から、撃たれて、アニエスがいなかったら、それらは自分に当たっていたことになるが。
そう思うと、ちょっとぞっとしない話だ。
だから、ますます奇妙だ。
こいつが飛び出して、イーシスに覆いかかってかわりに銃弾を受けた。
そんなやつが、軽傷で済むのか?
「…………ん」
そのとき、その、わずかに空気を揺らす音が聞こえて。
イーシスとアークは音がしそうな勢いで彼女を見た。
睫毛が揺れている。
「アニー!」
アークがベッドにかじりついて彼女を覗き込む。
イーシスも思わず身を乗り出した、その前で。
アニエスは、ゆっくり瞼を持ち上げた。
おそらく彼女が最初に目にしたのはアークの顔だろう。
わずかに彷徨った眸が、すぐにアークのほうを向く。
「……アーク」
「アニエス」
目が合って、力の抜けたようなアークは……倒れこむように横たわる彼女を抱きしめた。
ぎょっとしたのはイーシスだけで、ぼんやりとしているアニエスは拒絶など示しもせず、視線がアークを追いかけ、そして、再び目を閉じてすぐ隣にあったアークの黒髪に自らの頭を寄り添わせた。
イーシスは……目を逸らした。
自分は、知っていたはずだ。
このふたりが、兄妹のように、あるいはそれ以上に、互いを特別に思っているということを。
アークが動く気配がしたので、イーシスが視線を戻すと。
アニエスと目が合った。
アークが見下ろす先で、アニエスは自分を、イーシスを見ていた。
虚ろな表情がじっとこちらを見ている。
イーシスはどきりとして、それから慌てて彼女に応えた。
「アニエス」
名を呼ぶと、わずかに双眸が揺らいだので聞こえているらしいのだが、アニエスから応えはない。
いや。
「……イー……」
名を、呼ぼうとしたのはわかった。
唇の形が、わずかにイーシスの名を刻む。
ただ、声にならないだけだ。
イーシスは、アークではないが、彼女を抱きしめたくなって、でも出来るはずもなくて、軽く首を振った。
ちら、とアークに目をやってから、それからゆっくり彼女に向かって手を伸ばした。
アニエスの視線がそれを辿る。
アークはなにも言わなかった。
イーシスは、伸ばした手を、躊躇ってから、彼女の額に乗せた。
すると。
アニエスが、微笑んだ。
思わず緩んだその表情に、驚いて目を瞠ったのはイーシスだけではなった。
アークのやつが、目を丸くしている。
「……も……すこ、し……」
アニエスの声が、言葉を紡ぐ。
もう少し?
なんだというのだろう。
イーシスとアークは顔を見合わせる。
「もう少し、なに?」
「馬鹿。苦しんでるやつに先を促すな。喋らなくていいぞ、アニエス」
アニエスを覗き込んでいるアークに、イーシスが文句を言う。
そのやりとりを聞いてか、アニエスがもう一度、かすかに笑った。
「……大、丈、夫」
そして目を伏せた。
そのとき。
入り口のドアが、開く音がした。
「おい、カーロッサ。目ぇ覚めたか?」
そして馴れ馴れしく部屋に入ってきたのは、医師とは違う、イーシスの見たことのない男だった。