25. Wounded. 

 アニエスは、行政府の関係者なら持っているはずの身分証を持っておらず、
 かわりにアークがポケットから見つけ出した身分証らしきものには、個人データが入っておらず、
 医療部の面々は、彼女の扱いに困っていた。

 けれど、正規に派遣されてきている新人四人のうち、三人が口をそろえて、知り合いだというので、追い返しも出来ずにいた。
 ましてや彼女は、銃弾を受けていた。
 担当医がくるまで、医療部で出来ることといえば止血と、検査だが、肝心の検査が一向に出来ずにいた。

 彼女の知り合いだという三人は、まもなく医療部の検査室に通される。

「検査が、できない? なぜだ?」
 救護士の言葉にイーシスが険しく聞き返す。
 アークは不安げに、おそらくアニエスが寝かされているのだろう、カーテンのほうを見やった。
「アーク」
 ぼそっとサラディが友人にささやいた。
「俺、外に出てるわ」
「え?」
「アニーちゃんのこと、知ってるわけじゃないし。グレンと一緒に部屋にいる」
 居心地が悪かったらしいサラディは言うなり、じゃ、と医療室から出て行った。
 イーシスはちら、とそれを見たがなにも言わなかった。
「すべての装置がエラーになるんだよ」
「装置が、エラーになる……?」
 意味がわからずイーシスとアークは顔を見合わせる。
「それに先生も来ないし」
「来ない……って。医師は常駐していると聞いているが?」
「そうなんだが」
 歯切れの悪い相手に、不安と苛立ちが募る。
 しきりにアークが気にしているカーテンの向こうに、イーシスも目を向けた。
「ああ、入ってもいいよ」
 そんな二人に気付いて、カーテンを指し示される。
 顔を見合わせた二人だが、躊躇ったのは一瞬で、アークがさっさと歩き出すのにイーシスも従った。

 二人は今、スーツではなく、私服を着用していた。
 医療部から担架が来ても、イーシスはなぜかアニエスを放す気になれず、それでも無理やり引き剥がされて、同様にアニエスから離れようとしなかったアークと、二人まとめて放り出された。
 落ち着くようにと、シャワールームに押し込まれ、出来るだけラフな格好にしろと、同期の二人に世話を焼かれた。
 だから今は、建物に不似合いなくらいの軽装だった。

 カーテンをくぐると……そこに、アニエスが横たえられていた。

 アークは早足にベッドを回り込み、顔を覗き込む。
 どうやら検査用らしい、白い一枚布の服を着せられている。
 が、検査はできないという。
 どういう意味だ?

「あ、はい!」

 二人がいなくなったさきほどの部屋から声がする。
 会話の相手の声は聞こえないから、通信だろう。
「え……しかし。はい、でも……」
 なにか不都合があるのだろうか。
 いや、検査も出来ず、医師も来ないなど、充分不都合なのだが。
 アニエスは静かに眠っていて、苦しそうな様子はないが、なにぶん素人なので状況はよくわからない。
「わかりました、ハージェ殿」
「え?」
 会話が終わったようだ。
 しかし、ハージェと言ったか?
 それはつまり……イーシスの父のことか?
 だが、本国ではないこの場所で、なぜ?

 そしてすぐに、ドアの開く音がした。
 慌しく人が動く気配と話し声がして、そして、看護士らしき人々が、カーテンに仕切られたこの場所へと入ってきた。
 さすがのアークも、アニエスの傍から離れる。
 治療なりなんなりはじめるのなら、自分たちはここから出て行くべきだろうと、イーシスが行くぞと合図したとき、飄々とした足取りの男が入ってきた。
 白衣を身にまとっているから、医師だろうか。

「ほう? イーシス・ハージェにアーク・サリオンか」

 そして二人を見て、にやり、と笑った。
 ぎょっとした。
 その笑みは、アニエスがときどき浮かべる笑みに、似ていると思った。
 そして、笑みを浮かべた顔には、大きな傷跡が走っていた。

「こいつと知り合いと言ったそうだが、本当かね」
 医師だろう男は、面白そうに二人を眺めてたずねてくる。
 イーシスは……思わず、怒鳴った。
「それがどうした! さっさとそいつを診ろっ!」
 そしてさっさとその場から歩き出す。
 いつもなら咎めるアークがなにもいわずについてくる。
「やれやれ」
 わざとらしく大きな声で呟かれた男の声を、二人は揃って無視した。



 待つこと数十分。
 二人はどこにも移動せずに、けれど苛々とそこで待っていた。
 イーシスは、一緒にいるアークにときどき目をやったが、廊下の椅子に座ったアークは、じっと俯いて、組んだ自らの手をじっと見つめたままほとんど動かなかった。
 看護士がふら、と出てきたとき、そこにいた二人に軽く驚いた様子を見せた。
 まさかずっとそこにいるとは思われていなかったらしい。
 それから、苦笑気味に、入っていいですよ、と言われた。
 言われるとすぐに、アークが早足に部屋に入って行き、イーシスは追いかける形になった。
 部屋には数人の看護士がいたが、あの顔に傷のある医師はいなかった。
 ここのほかに出入り口があるとは知らず、けれどそんなことはどうでもいい。
 先刻目にしたのと同様に、白い長袖の服を着せられ横たわる彼女のものへと近づく。

「アニー……アニエス」

 その目が開いていないことも、充分承知だろうが、アークは枕元に屈みこむと思わずといった感じで呼びかけた。
 それでもアニエスは、睫毛の一本だって動かなかった。
 白い顔は、いつもと変わらず、まるで無表情だ。

 用の済んだ看護士たちは、やがていなくなっていく。
 誰も何も言いもしない。
 なんだかとても奇妙な場所だと思った。
 眠るアニエスと、それにぴたりと寄り添っているアークと、そしてイーシスだけが残された。
 イーシスは部屋の隅にある丸椅子を勝手に拝借する。
 アークとは反対側のベッド脇に陣取る。
 つまりは入り口側で、アークは奥ということになる。

「……妙だな」

 しばらくして、イーシスはつい、ぽつりと呟いた。
 アークが、アニエスから目を離してイーシスを見た。
「……何が?」
 こちらもぽつりと呟いた声が、静まり返った部屋に妙に響いた。
 そう、妙なのだ。
 イーシスはちら、とアークを横目で見て、それから、部屋の中をぐるりと見回した。
「おかしいとは思わないか」
「おかしい?」
 彼女のことしか見えていない、考えられないアークにはぴんとこなかったようだが、この場所は奇妙だ。
「医療機関なんてあまり行ったことはないんだが」
 イーシスは手をあごに当て、考えながら言葉を紡ぐ。
「銃弾に撃たれたこいつが、軽傷だと思うか?」
「え?」
 驚いた様子のアークが、イーシスからアニエスに視線を落とし、それからまた、イーシスを見返した。
「あれだけ血を流して、意識がないような状態なのに」
 イーシスはアニエスを見た。
 眠っているように見えるが、それだけだ。
 あの出来事を目撃していなかったら、彼女はどうかしたのか、と尋ねただろう。
 怪我をした様子など見受けられない。
 顔色がいいとはいえないが、言ってしまえばそれは……いつものことだ。
「銃弾はどうした? 手術をしたか? 輸血は必要なかったのか?
 偶然軽傷ですんだとして、そんな状態の患者を、医師も看護士もほっとくのか?」
 待たされた数十分なんて、健康な人間が検査をするのにもかかる時間だ。
 言われて、アークは周囲を見回した。
 誰もいないことに、このとき気付いたのかもしれない。
 アークには、アニエスしか見えていなかったのだろう。

「……あのとき、銃声は二発、だったよな」

 アークが急に考える顔をしたと思ったら、そんなことを言った。
「は?」
 イーシスは驚いた。
 むしろ……イーシスはそのときのことをあまり覚えていない。
「いや、わからん」
「……一応聞いてみるけど、おまえは、どこも、平気だったんだろうな」
「聞くの、遅いだろ。平気だ」
 自分は銃弾なんて受けていない。
 背中から、撃たれて、アニエスがいなかったら、それらは自分に当たっていたことになるが。
 そう思うと、ちょっとぞっとしない話だ。
 だから、ますます奇妙だ。
 こいつが飛び出して、イーシスに覆いかかってかわりに銃弾を受けた。
 そんなやつが、軽傷で済むのか?

「…………ん」

 そのとき、その、わずかに空気を揺らす音が聞こえて。
 イーシスとアークは音がしそうな勢いで彼女を見た。
 睫毛が揺れている。
「アニー!」
 アークがベッドにかじりついて彼女を覗き込む。
 イーシスも思わず身を乗り出した、その前で。

 アニエスは、ゆっくり瞼を持ち上げた。

 おそらく彼女が最初に目にしたのはアークの顔だろう。
 わずかに彷徨った眸が、すぐにアークのほうを向く。
「……アーク」
「アニエス」
 目が合って、力の抜けたようなアークは……倒れこむように横たわる彼女を抱きしめた。
 ぎょっとしたのはイーシスだけで、ぼんやりとしているアニエスは拒絶など示しもせず、視線がアークを追いかけ、そして、再び目を閉じてすぐ隣にあったアークの黒髪に自らの頭を寄り添わせた。
 イーシスは……目を逸らした。
 自分は、知っていたはずだ。
 このふたりが、兄妹のように、あるいはそれ以上に、互いを特別に思っているということを。
 アークが動く気配がしたので、イーシスが視線を戻すと。

 アニエスと目が合った。

 アークが見下ろす先で、アニエスは自分を、イーシスを見ていた。
 虚ろな表情がじっとこちらを見ている。
 イーシスはどきりとして、それから慌てて彼女に応えた。
「アニエス」
 名を呼ぶと、わずかに双眸が揺らいだので聞こえているらしいのだが、アニエスから応えはない。
 いや。
「……イー……」
 名を、呼ぼうとしたのはわかった。
 唇の形が、わずかにイーシスの名を刻む。
 ただ、声にならないだけだ。
 イーシスは、アークではないが、彼女を抱きしめたくなって、でも出来るはずもなくて、軽く首を振った。
 ちら、とアークに目をやってから、それからゆっくり彼女に向かって手を伸ばした。
 アニエスの視線がそれを辿る。
 アークはなにも言わなかった。
 イーシスは、伸ばした手を、躊躇ってから、彼女の額に乗せた。
 すると。
 アニエスが、微笑んだ。
 思わず緩んだその表情に、驚いて目を瞠ったのはイーシスだけではなった。
 アークのやつが、目を丸くしている。
「……も……すこ、し……」
 アニエスの声が、言葉を紡ぐ。
 もう少し?
 なんだというのだろう。
 イーシスとアークは顔を見合わせる。
「もう少し、なに?」
「馬鹿。苦しんでるやつに先を促すな。喋らなくていいぞ、アニエス」
 アニエスを覗き込んでいるアークに、イーシスが文句を言う。
 そのやりとりを聞いてか、アニエスがもう一度、かすかに笑った。
「……大、丈、夫」
 そして目を伏せた。
 そのとき。

 入り口のドアが、開く音がした。
「おい、カーロッサ。目ぇ覚めたか?」
 そして馴れ馴れしく部屋に入ってきたのは、医師とは違う、イーシスの見たことのない男だった。