24. Rain. 

 イーシスの予想に反してなにも言わなかったアークと共に、アニエスが言っていた通り、手配されていた車に乗って、二人はアカデミア区の宿舎への帰途に着いた。

 朝は驟雨だった窓の外は、大降りの雨になっていた。
 車の窓から天を仰げば、低く雲が垂れ込めている。
 時刻はまだ早い夕方のはずだが、すっかり日が沈んだような暗さだ。

「グレンたちはもう戻ってるかな」
「さあな。予定では同じくらいだったんだろ?」
「ああ。俺たちは予定通りに進んだわけだけど」

 誰かさんのおかげでな、と、イーシスは心の中で付け加える。
 東院の二人は、どうだったのだろう。
 案外何もなかったか、あるいは、やはり同様に監視をしている組織の人間がいて、気付かないうちに問題ないように運ばれているのかもしれない。
 それは、わからない。

 車の窓から、ローカルレーンが走っていくのが見える。
 あのモノレールは、四方に網羅されていて、繋がってない場所などないのではというほど発達している。
 車で移動するよりも、早いそうだ。
 モノレールの走っていないところはバスが巡回している。
 だから、車で移動というのは、ひどく贅沢で、かつ、手間なのだという。

 暗い空に、ぴかっ、と稲光が走った。
 数秒後に重い音が響く。
 やたらとキレイに整えられている街路樹が、空気を叩くように揺れている。

「なんだか……嵐になりそうな天気だな」

 ぼそり、とアークが言った。
 行きの一度しか通っていない道など覚えてはいなくて、遠かったのか近かったのかもよくわからず、そしてこの天気に時間や距離の感覚はずれていて。
 視界の悪い窓の外に、その建物は突然現れたように見えた。

 車が曲がると、宿舎の大きな建物の前へとたどり着いていた。

「あ、あれ? あそこにいるの、サラディとグレンか?」
 建物側に座っていたアークが、薄暗いポーチを覗いて、同僚を見つけたらしい。
 確かにそんな彼らの前で、車が一台出て行ったところだ。
「ちょうど帰ってきたということか」
「そうかもしれない」
 車が止まると、運転手に礼を言って、アークが先に早足に降りる。
 フロントポーチには狭くない屋根のあるスペースがあったが、半分くらいは吹き込む雨に濡れていた。

「あー、やっぱりアークたちだ。そうじゃないかなって思ったんだよね」
 雨に濡れないぎりぎりのところに立って、二人を待っていたのは同僚の二人。
 半日ぶりに仲間と顔をあわせる。
「ああ、今着いたのか? 今日の予定は問題なくすんだのか?」
 深い意味があるのかないのか、アークがたずねている。
 イーシスも車から降り、そのドアを閉めると、車はすぐに発進した。
 車がいなくなっただけで、急に風当たりが強くなって、一瞬でスーツに雨模様が刻まれる。
 慌てて身を翻す。
 三人の仲間が待っている、濡れない場所に向かって。
 歩き出そうとした、いや、一歩踏み出した、そのとき。

 背後で空が明るく煌めいた。
 影が出来るほどに雷が光り、そして。

(…………?)

 外から、この雨の中から、人の声がしたような、気がした。
 足を進めながら、ちら、と振り返るが、そこには闇と、雨と、風と。
 ざわめきが。

 いや。


「――駄目だ! くそっ! ……カーロッサ!」


 声がした。
 怒鳴り声が。
 そして反応したのは……アークだった。
 声に反応して顔を上げたあとの二人とは明らかに違う顔をして。
 アークは、雨の中に、飛び出してきた。

「おい?」
「……アニー!?」

 そして、その名を、口走った。
 なぜ、ここであいつの名が出てくるんだ?
 イーシスはわけがわからず、けれどすっかり濡れてしまった自分の方へと走ってくるアークもまた、あっという間に全身が濡れてしまうが、やつは気にしたふうもなく。
 暗闇に目を走らせ、何かを、探す仕草をした。
 何か?
 今こいつは、彼女の名前を呼んだ。
 それは……どういう意味だ?

 アークが、何を感じて戻ってきたのかは、わからないけれど。
 つられるように振り返って、そして。

 どん……っ、と。

 自分に覆いかぶさる衝撃に、視界が暗転した。
「アニー! ……イーシスっ!」
 アークの声がした。
 遠くから、サラディとグレンの声もした。
 けれど、それらはほとんど掻き消された。


 響き渡った、銃声によって。


「アニー! アニー!!」
 半狂乱の声がする。
 これは、アークだ。
 いつも冷静沈着な彼からは、聞いたこともないような声だが、間違いなくアークだ。
 なぜなら、あいつの名をこんなふうに呼ぶのは、おそらく、世界中探してもアークだけだからだ。
 それにしても、なぜ……アニエスなんだ?
 イーシスは、ぼんやりと目を開けた。
「……イーシス! 大丈夫か、おまえ!」
 自分の名を呼んだのは、アークではない、グレンの声だった。

「う……あ?」

 意識すると、全身がぐっしょりと濡れた感じで不快になった。
 自分はどうやらへたり込んでいるらしいが、なぜだ?
 濡れたタイルに滑って転んだだろうか?

 見上げるように顔を上げると、見下ろしてくるグレンとサラディの顔があって、その向こうから雨が顔をたたきつけてくる。
 そしてアークが。
 イーシスではなく。

(……?)

 そのときやっと、イーシスはそれに気付いた。
 自分にのしかかっているあまり重くはない重みに。

「アニー……っ?」

 アークが真っ青な顔をして震えるように手を伸ばす。
 その先にイーシスは視線を転じて。
 
 自分の上に倒れている彼女を、見つけた。

「……アニエス?」

 つい先ほど別れたばかりの、グレーのスーツ姿で。
 イーシスの上に乗っている彼女の名を呼んだ。
 けれど、あの昏い、深い、蒼い瞳はイーシスも、アークをも映しはせず。
 半ば倒れていた自らの身体を起き上がらせると、乗っている彼女の身体がずる、と動いた。
 意識がないのか、そのまま滑り落ちそうになるのを、両手で抱える。
 そうしてまわしたイーシスの手が、彼女の背中でぬるりと滑った。
「……?」
 痛いほど叩きつける雨に、誰も動かない。
 全身に雨が染み込むほど降りしきるが、イーシスの身体が冷えていったのは、そんな雨のせいではなった。
 雨ではない。
 濡れた手を、アニエスの背中の向こうの自らの手を見つめた。

 その手は、どろりとした、血に染まっていた。

「ア……」
 アークの言葉が凍り付いているのは、このせいだ。
 妙に冷静に、でも、なにがなんだかわからないイーシスは、雨の中でほとんど温もりを感じさせないアニエスの身体を抱き寄せた。
 彼女の背中から、大量の血が流れて、雨と一緒に周囲を朱色に染めていた。

「……医療部を呼んでくる!」

 この場合もっともなことにようやく気付いたのは、アークでも、イーシスでもなく、グレンだった。
 追いかけようとしたサラディを、おまえはここに残れ、あいつら役に立ちそうにない、と言い捨て、グレンは一人建物の中へと駆けていく。

「アニエス……」
 彼女の身体を引き寄せるように抱きしめると、わずかに鼓動と体温が感じられた。
「イー、シ……」
 そして。
 耳元で、息の音のような声がした。
 はっとして腕を緩める。
「アニエス!?」
「イー……、怪我は……?」
 かすれるような声がした。
 目は伏せたままだが、自分が触れ合っている相手がイーシスだとわかっているらしい。
「怪我は……な、ない! 俺は! おまえ……!」
「なら、いい」
 確認すると、まるで安心したかのように、アニエスは力を抜いた。
 ずる、と崩れそうだったので、イーシスは慌ててふたたび抱き寄せた。

 視界の隅で、アークが揺らいだ。
 見ると、サラディがその腕を引いているところだった。
「アーク、屋根の下へ入れよ。おまえ、アニーちゃん見てたら、どんどん悪いほうへ行きそうだ」
 そういわれているアークは、顔面蒼白で、とてもじゃないが冷静な判断なんて期待できそうにない。
 なのに、アークは頑として動かない。
「アーク! 見ろよ、彼女、自力じゃ動けなさそうじゃん! おまえの前から消えたりしないから!」
 ぎくり、とアークがこわばる。
 そう、いつもアニエスはアークの前から消えてばかりだ。
 けれどアークが恐れているのは、そんなことなのだろうか?

「俺は……」
 アークが呟いた。
 けれど、その先は続かなかった。
 アークの視線はただひたすら、イーシスの腕の中で瞳を閉じているアニエスに注がれていた。
 そこにどんな感情があるのか。
 イーシスにわかるはずもなかった。

 ただ、イーシスは。
 今はただ。
 そんなアークのことよりも。

 抱きしめる。
 それにはなんの反応も返ってこない。
 すっかり濡れそぼった、黒い長い髪に、顔を埋める。
 
 今はただ。
 アニエスを抱きしめていることで、精一杯だった。