「……どうした? そんな顔をして」
時間通りにその部屋にたどり着いたアニエスは、そこに立ちすくむ二人の顔を見て、思わずそんなふうに声をかけてしまった。
「あ、ああ、アニー」
アークはアニエスの顔を見て、あからさまにほっとした顔をして微笑んだ。
「来てくれたのか」
「迎えに来ると言った筈だが?」
アークの隣には面白くなさそうな顔のイーシスがいる。
その彼らのそばには。
「用が済んだら速やかに退室願いますが」
ここの教育指導員が、アニエスに負けない無表情で冷たく言い放った。
「ああ、世話になった」
アニエスは、こちらも相変わらずの無表情で、機械的に言うと、困惑気味の二人の前でくるりと身を翻した。
何も言わずに歩き出す。
けれど、すぐに二人が後ろを追いかけてくるのはわかった。
アークは、隣には並んでこなかった。
身分証をゲートに通して、エレベータに向かう。
アニエスは後ろをわずかも気にせず歩く。
エレベータに乗り込むときになってやっとアークが隣に立った。
「アニー」
扉が閉まって、閉じられた空間に三人だけになってからアークが口を開く。
「……なあに」
「君は俺たちが見学してきたあれを……その、知っているのか?」
第三者が聞いたらきっと意味のわからないであろうことを、アークは躊躇いがちに訊ねてきた。
それに対して、アニエスは無造作にこくんと頷いた。
「ええ、知っているわ。もちろん」
そして。
やっとアークを振り返って。
にやり、と笑った。
アークがびくりと驚きと狼狽を表す。
その後ろでイーシスもじっとアニエスを見つめる。
アニエスは、その作ったような表情で、二人に向かって薄ら笑った。
「あれが教育現場だ。どうだ、役に立っただろう?」
二人の様子を面白がるような、からかうような、そんな響きを内包して、アニエスは嘘っぽく笑う。
アークが奇妙な顔をする。
その理由は……多分、アニエスの態度のせいだろう。
だからといってアニエスはなにも改めはしない。
アニエスは、アークの知っているむかしのアニーではもう、ないのだから。
「ちょっと……あれは、やりすぎじゃないのか?」
アークがおそるおそる口を開く。
アニエスは笑みの形を変えない。
「そうか? だがそれがここの力だ。力の根底だ。そして今のところ、それは果たされている。問題ない」
く、と笑うと、アニエスは視線を逸らした。
アークがさらになにか言おうとしたところで、エレベータはとまり、ドアが開いた。
二人にはなにも告げず、アニエスはさっさとエレベータを降りる。
そこは複数のエレベータが昇降するエレベータホールで、アニエスはすぐさまいくつか離れた別のエレベータに乗り込んだ。
追いかけてくる二人が少し疑問を呈する。
乗り込んで、ドアが閉まる前に外を振り返るしぐさをしたイーシスが、違うのか、とぼそりと呟いた。
そしてちら、とアニエスを見る。
その視線に気付いて、アニエスはイーシスに目をむけ、小さく頷いた。
次にアニエスが降り立ったのは、あの、初めの受付があるフロアだった。
持っていた茶封筒をアークに押し付ける。
「……うん?」
「わたしの仕事はこれで終わり。あとはあそこに戻って。そうすれば帰りの車が手配されていると思うから」
「終わり?」
思わず封筒を受け取って、それから顔を上げたアークの前で、アニエスは。
「……って! アニー!」
アークが叫んだのは、たった今までその隣に立っていたはずの幼馴染みが、既にエレベータに舞い戻っていたからだ。
しまったといわんばかりの顔が、閉まる隙間から見送る。
そんなアークから目を逸らして、アニエスは一人になったエレベータで、行き先のフロアの数字を押そうとして。
「…………っ!?」
アニエスが消えた時のアークの表情に比べて、ちっとも驚いた顔などしてはいなかったけれど。
アニエスはアークのそれよりもずっとずっと、驚いていた。
エレベータの扉がぴしゃりと閉まった。
「……押せよ。動かないだろ」
アニエスは驚いた。
気付かなかった。
アークしか、見ていなかったから。
そこには、イーシスが立っていた。
急いでドアが開くためのボタンを押そうと手を伸ばしたが、それより先にイーシスの手が、適当にコントロールパネルを叩いた。
偶然当たったボタンが反応する。
ゆっくりと、二人を乗せた空間が動き出す。
「イーシス」
「手続きなんてあいつひとりでも出来る」
「わたしが言っているのは、そんなことではない」
「じゃあなんだ」
静かに迫ってくるイーシスに、アニエスはちら、と視線をそらす。
ランプのついている行き先の階を確認して、ほんのごくわずかに眉をひそめ、止まりそうになっているエレベータの、さらに先のフロアのボタンを押した。
なんだ、とイーシスが疑問を感じたであろう瞬間にエレベータは止まり、扉が開く。
と、すぐに外から人が乗り込んできた。
イーシスには予想外だったのか、一瞬驚いた顔をして、それからいそいそとアニエスのほうへと近寄ってくる。
このフロアを利用する社員が多いことくらい、アニエスは知っていた。
そしてここから乗ってくる彼らの主な行き先がどこかも、アニエスは知っていた。
再び動き出したエレベータは、けれどすぐに次の階で止まる。
アニエスがボタンを押したフロアだ。
こちらを観察していたイーシスも、すぐに意図を察して、二人は満員のエレベータから抜け出した。
アニエスは、振り返らずに歩いた。
イーシスが追いかけてくる。
ここは、七階。
フロアはほぼ前面ガラス張りで、窓の外は、相変わらず雨だった。
「おい、アニエス」
「わたしの仕事は終わった。なぜ、ついてくる?」
あの、ガラス張りのカフェテラスには、誰もいなかった。
流れているはずの音楽も、雨の音で聞こえない。
「おまえの仕事とはなんだ?」
「二人を案内することだったのだが、なにか不満か?」
「それは今だけのことだろう!」
イーシスが後ろからアニエスの肩を掴んだ。
少し乱暴に振り向かされる。
アニエスは、抵抗もせずに、振り向いた。
「それ以外の、何を知りたい」
アニエスには、あの作った表情はなかった。
そして、ほかの表情もなかった。
ただ、無表情だった。
イーシスは掴んだ肩を、一度緩めてもう一度掴みなおした。
そんなことをされなくとも、逃げ出しはしないんだが、と思ったが、何度も逃げ出してきたのは自分のほうか、とも、思う。
「おまえの仕事とはなんだ? 行政府の関係なのか?」
「聞いてどうするんだ」
アニエスは静かに問い返した。
どうしてそんなにイーシスが、自分のことを気にするのかわからなかった。
けれどイーシスには、癇に障った……らしい。
「俺が知りたいから聞いている! おまえはそれに答えればいいだろう!」
怒鳴られた。
掴まれた肩が痛い、と思ったけれど、口にも顔にも、出さなかった。
ただ、正面からの睨むような視線のほうが、アニエスには痛かった。
アニエスは目を逸らした。
俯いて、目を逸らして、そして、ぽつりと返事をした。
「すまない」
イーシスが、息を呑むのがわかった。
けれど、アニエスにはそれ以上上手く言う方法が見つからず、唇は引き結ばれたまま続きを紡ぐことはなかった。
何も言わないアニエスに、イーシスは少ししてから息を吐き出す。
「……それでは、意味がわからない」
「そうだが。でも」
再び口を噤む。
雨音は絶えず響いていて、大きな音ではないのに、その場を支配していた。
「アニエス。顔を上げろ」
言われて、アニエスはゆっくりと視線を上げる。
「言えないのか。言ってはならないのか? それとも言いたくないのか?」
イーシスはそんなアニエスを覗き込んでくる。
アニエスはイーシスを見上げて、ああこの人は、とその目を見返した。
青い目をしている。
それは自分も同じだ。
アークも同じだ。
けれど、皆色が違う。
ああ、この人は。
アークとは、違うんだな、と。
そんなことを思った。
「言えないわけではない。いつか知ることもあるだろう」
アニエスは、静かに口を開いた。
イーシスが納得するかはわからないけれど、今言える答えを返そう。
「言いたくないわけではない。でも」
イーシスの瞳は、儚いような青い色をしている。
アニエスの、深い深い黒に近い青とはまるで反対の色をしている。
「あなたたちが知らなくていいことなら、知らないほうがいいんだ」
イーシスのその青い瞳が少し、細められた。
「俺がおまえのことを知りたいと言っているのに、おまえはそれを知らなくていいことだと言うのか」
アニエスは、困惑の色をした微笑を浮かべた。
そのわずかな表情を、イーシスはじっと探るように見つめてくる。
「知らなくても、変わらないだろう?」
アニエスは暗い暗い闇に近いところに立っていて、
イーシスは、光の下を歩いている。
そう、思う。
「だからきっと、知ったところで変わらない」
アニエスの言うことがわかったのかわからなかったのか、イーシスはじっとアニエスを見つめたまま、何も言わなかった。
ふい、と、アニエスは視線を逸らした。
「行くがいい。アークが……心配する」
「はん? あいつが何を心配するって?」
その口調に、アニエスは苦笑した。けれど、それがイーシスに伝わっただろうか。
「アークが心配するのは、多分……わたしのことだ。イーシスが帰ってこなかったら、どうしたんだろうって、思うのはきっとあなたのことじゃなくてわたしのこと」
あの人は、そんな人だ。
アニエスはアークのことをよく知っている。
幼馴染みだからだけじゃない。
アークのことを、ずっと、見ていたから。
とても賢くて、いつも冷静で、そして……優しい人なのだ。
イーシスがむっとした顔でアニエスから手を離した。
どうやら彼も、同意見らしい。
「ひとつだけ答えろ。はぐらかすなよ」
イーシスが強い口調で言ったので、アニエスは彼を見返した。
「おまえは……おまえたちは、行政府の関係者なのか?」
どうやら、イーシスはアニエスたちの組織がなんなのか、父からは何も伝えられていないらしい。
かといって、確かになにかの組織が存在していることだけはわかるから、なおさら、気になるのかもしれない。
「……違う。わたしたちは、行政府ではない」
だから、アニエスはきっぱりと言った。
イーシスは、イーシス・ハージェなのだ。
知らないほうがいいと言いながら、それでも彼が、ロス・クライムと無関係でいられるとは、思えなかった。
そして、ほかの組織からも、無視される存在ではなかった。
「行政府ではないのか」
そうだろうと予測していたような響きだ。
「ああ、違う。わたしたちは……行政府を監視しているんだ」
イーシスが、一瞬何を言われたかわからなかったという表情をして、そして、それから、目を瞠った。
「そして、イーシス・ハージェ。あなたはわたしたちから見て、行政府の一部だ」
アニエスの追い討ちの台詞に、イーシスは。
「つまり俺は、おまえの監視対象だということか」
すべてではないけれど、アニエスの言う言葉の意味を理解した。
個人ではなく、組織の一部として。
あなたは監視対象だと、そう告げられた人の心境とは如何なものか。
そんなものは……アニエスにはわからない。
「あなたが欲しがっていた答えだ。満足したら行くがいい」
アニエスはわざとではなく、ただいつもどおりの口調で告げた。
そしてイーシスの行動など気にしないで、自らは背を向けた。
その場を支配しているのはただ、雨の音だけだった。