23. Task. 

「……どうした? そんな顔をして」

 時間通りにその部屋にたどり着いたアニエスは、そこに立ちすくむ二人の顔を見て、思わずそんなふうに声をかけてしまった。

「あ、ああ、アニー」
 アークはアニエスの顔を見て、あからさまにほっとした顔をして微笑んだ。
「来てくれたのか」
「迎えに来ると言った筈だが?」
 アークの隣には面白くなさそうな顔のイーシスがいる。
 その彼らのそばには。

「用が済んだら速やかに退室願いますが」
 ここの教育指導員が、アニエスに負けない無表情で冷たく言い放った。
「ああ、世話になった」
 アニエスは、こちらも相変わらずの無表情で、機械的に言うと、困惑気味の二人の前でくるりと身を翻した。
 何も言わずに歩き出す。
 けれど、すぐに二人が後ろを追いかけてくるのはわかった。

 アークは、隣には並んでこなかった。

 身分証をゲートに通して、エレベータに向かう。
 アニエスは後ろをわずかも気にせず歩く。
 エレベータに乗り込むときになってやっとアークが隣に立った。
「アニー」
 扉が閉まって、閉じられた空間に三人だけになってからアークが口を開く。
「……なあに」
「君は俺たちが見学してきたあれを……その、知っているのか?」
 第三者が聞いたらきっと意味のわからないであろうことを、アークは躊躇いがちに訊ねてきた。
 それに対して、アニエスは無造作にこくんと頷いた。
「ええ、知っているわ。もちろん」

 そして。
 やっとアークを振り返って。
 にやり、と笑った。

 アークがびくりと驚きと狼狽を表す。
 その後ろでイーシスもじっとアニエスを見つめる。
 アニエスは、その作ったような表情で、二人に向かって薄ら笑った。

「あれが教育現場だ。どうだ、役に立っただろう?」

 二人の様子を面白がるような、からかうような、そんな響きを内包して、アニエスは嘘っぽく笑う。
 アークが奇妙な顔をする。
 その理由は……多分、アニエスの態度のせいだろう。
 だからといってアニエスはなにも改めはしない。
 アニエスは、アークの知っているむかしのアニーではもう、ないのだから。
「ちょっと……あれは、やりすぎじゃないのか?」
 アークがおそるおそる口を開く。
 アニエスは笑みの形を変えない。
「そうか? だがそれがここの力だ。力の根底だ。そして今のところ、それは果たされている。問題ない」
 く、と笑うと、アニエスは視線を逸らした。
 アークがさらになにか言おうとしたところで、エレベータはとまり、ドアが開いた。

 二人にはなにも告げず、アニエスはさっさとエレベータを降りる。
 そこは複数のエレベータが昇降するエレベータホールで、アニエスはすぐさまいくつか離れた別のエレベータに乗り込んだ。
 追いかけてくる二人が少し疑問を呈する。
 乗り込んで、ドアが閉まる前に外を振り返るしぐさをしたイーシスが、違うのか、とぼそりと呟いた。
 そしてちら、とアニエスを見る。
 その視線に気付いて、アニエスはイーシスに目をむけ、小さく頷いた。

 次にアニエスが降り立ったのは、あの、初めの受付があるフロアだった。
 持っていた茶封筒をアークに押し付ける。
「……うん?」
「わたしの仕事はこれで終わり。あとはあそこに戻って。そうすれば帰りの車が手配されていると思うから」
「終わり?」
 思わず封筒を受け取って、それから顔を上げたアークの前で、アニエスは。

「……って! アニー!」

 アークが叫んだのは、たった今までその隣に立っていたはずの幼馴染みが、既にエレベータに舞い戻っていたからだ。
 しまったといわんばかりの顔が、閉まる隙間から見送る。
 そんなアークから目を逸らして、アニエスは一人になったエレベータで、行き先のフロアの数字を押そうとして。

「…………っ!?」

 アニエスが消えた時のアークの表情に比べて、ちっとも驚いた顔などしてはいなかったけれど。
 アニエスはアークのそれよりもずっとずっと、驚いていた。
 エレベータの扉がぴしゃりと閉まった。

「……押せよ。動かないだろ」

 アニエスは驚いた。
 気付かなかった。
 アークしか、見ていなかったから。
 そこには、イーシスが立っていた。
 急いでドアが開くためのボタンを押そうと手を伸ばしたが、それより先にイーシスの手が、適当にコントロールパネルを叩いた。
 偶然当たったボタンが反応する。
 ゆっくりと、二人を乗せた空間が動き出す。

「イーシス」
「手続きなんてあいつひとりでも出来る」
「わたしが言っているのは、そんなことではない」
「じゃあなんだ」

 静かに迫ってくるイーシスに、アニエスはちら、と視線をそらす。
 ランプのついている行き先の階を確認して、ほんのごくわずかに眉をひそめ、止まりそうになっているエレベータの、さらに先のフロアのボタンを押した。
 なんだ、とイーシスが疑問を感じたであろう瞬間にエレベータは止まり、扉が開く。
 と、すぐに外から人が乗り込んできた。
 イーシスには予想外だったのか、一瞬驚いた顔をして、それからいそいそとアニエスのほうへと近寄ってくる。
 このフロアを利用する社員が多いことくらい、アニエスは知っていた。
 そしてここから乗ってくる彼らの主な行き先がどこかも、アニエスは知っていた。
 再び動き出したエレベータは、けれどすぐに次の階で止まる。
 アニエスがボタンを押したフロアだ。
 こちらを観察していたイーシスも、すぐに意図を察して、二人は満員のエレベータから抜け出した。

 アニエスは、振り返らずに歩いた。

 イーシスが追いかけてくる。
 ここは、七階。
 フロアはほぼ前面ガラス張りで、窓の外は、相変わらず雨だった。

「おい、アニエス」
「わたしの仕事は終わった。なぜ、ついてくる?」
 あの、ガラス張りのカフェテラスには、誰もいなかった。
 流れているはずの音楽も、雨の音で聞こえない。
「おまえの仕事とはなんだ?」
「二人を案内することだったのだが、なにか不満か?」
「それは今だけのことだろう!」
 イーシスが後ろからアニエスの肩を掴んだ。
 少し乱暴に振り向かされる。
 アニエスは、抵抗もせずに、振り向いた。

「それ以外の、何を知りたい」

 アニエスには、あの作った表情はなかった。
 そして、ほかの表情もなかった。
 ただ、無表情だった。

 イーシスは掴んだ肩を、一度緩めてもう一度掴みなおした。
 そんなことをされなくとも、逃げ出しはしないんだが、と思ったが、何度も逃げ出してきたのは自分のほうか、とも、思う。
「おまえの仕事とはなんだ? 行政府の関係なのか?」
「聞いてどうするんだ」
 アニエスは静かに問い返した。
 どうしてそんなにイーシスが、自分のことを気にするのかわからなかった。
 けれどイーシスには、癇に障った……らしい。
「俺が知りたいから聞いている! おまえはそれに答えればいいだろう!」
 怒鳴られた。
 掴まれた肩が痛い、と思ったけれど、口にも顔にも、出さなかった。
 ただ、正面からの睨むような視線のほうが、アニエスには痛かった。
 アニエスは目を逸らした。
 俯いて、目を逸らして、そして、ぽつりと返事をした。

「すまない」

 イーシスが、息を呑むのがわかった。
 けれど、アニエスにはそれ以上上手く言う方法が見つからず、唇は引き結ばれたまま続きを紡ぐことはなかった。
 何も言わないアニエスに、イーシスは少ししてから息を吐き出す。
「……それでは、意味がわからない」
「そうだが。でも」
 再び口を噤む。
 雨音は絶えず響いていて、大きな音ではないのに、その場を支配していた。
「アニエス。顔を上げろ」
 言われて、アニエスはゆっくりと視線を上げる。
「言えないのか。言ってはならないのか? それとも言いたくないのか?」
 イーシスはそんなアニエスを覗き込んでくる。
 アニエスはイーシスを見上げて、ああこの人は、とその目を見返した。
 青い目をしている。
 それは自分も同じだ。
 アークも同じだ。
 けれど、皆色が違う。
 ああ、この人は。

 アークとは、違うんだな、と。

 そんなことを思った。

「言えないわけではない。いつか知ることもあるだろう」
 アニエスは、静かに口を開いた。
 イーシスが納得するかはわからないけれど、今言える答えを返そう。
「言いたくないわけではない。でも」
 イーシスの瞳は、儚いような青い色をしている。
 アニエスの、深い深い黒に近い青とはまるで反対の色をしている。
「あなたたちが知らなくていいことなら、知らないほうがいいんだ」
 イーシスのその青い瞳が少し、細められた。
「俺がおまえのことを知りたいと言っているのに、おまえはそれを知らなくていいことだと言うのか」
 アニエスは、困惑の色をした微笑を浮かべた。
 そのわずかな表情を、イーシスはじっと探るように見つめてくる。
「知らなくても、変わらないだろう?」
 アニエスは暗い暗い闇に近いところに立っていて、
 イーシスは、光の下を歩いている。
 そう、思う。
「だからきっと、知ったところで変わらない」
 アニエスの言うことがわかったのかわからなかったのか、イーシスはじっとアニエスを見つめたまま、何も言わなかった。

 ふい、と、アニエスは視線を逸らした。
「行くがいい。アークが……心配する」
「はん? あいつが何を心配するって?」
 その口調に、アニエスは苦笑した。けれど、それがイーシスに伝わっただろうか。
「アークが心配するのは、多分……わたしのことだ。イーシスが帰ってこなかったら、どうしたんだろうって、思うのはきっとあなたのことじゃなくてわたしのこと」

 あの人は、そんな人だ。
 アニエスはアークのことをよく知っている。
 幼馴染みだからだけじゃない。
 アークのことを、ずっと、見ていたから。
 とても賢くて、いつも冷静で、そして……優しい人なのだ。

 イーシスがむっとした顔でアニエスから手を離した。
 どうやら彼も、同意見らしい。
「ひとつだけ答えろ。はぐらかすなよ」
 イーシスが強い口調で言ったので、アニエスは彼を見返した。
「おまえは……おまえたちは、行政府の関係者なのか?」
 どうやら、イーシスはアニエスたちの組織がなんなのか、父からは何も伝えられていないらしい。
 かといって、確かになにかの組織が存在していることだけはわかるから、なおさら、気になるのかもしれない。
「……違う。わたしたちは、行政府ではない」
 だから、アニエスはきっぱりと言った。
 イーシスは、イーシス・ハージェなのだ。
 知らないほうがいいと言いながら、それでも彼が、ロス・クライムと無関係でいられるとは、思えなかった。
 そして、ほかの組織からも、無視される存在ではなかった。

「行政府ではないのか」
 そうだろうと予測していたような響きだ。
「ああ、違う。わたしたちは……行政府を監視しているんだ」

 イーシスが、一瞬何を言われたかわからなかったという表情をして、そして、それから、目を瞠った。
「そして、イーシス・ハージェ。あなたはわたしたちから見て、行政府の一部だ」
 アニエスの追い討ちの台詞に、イーシスは。

「つまり俺は、おまえの監視対象だということか」

 すべてではないけれど、アニエスの言う言葉の意味を理解した。
 個人ではなく、組織の一部として。
 あなたは監視対象だと、そう告げられた人の心境とは如何なものか。
 そんなものは……アニエスにはわからない。

「あなたが欲しがっていた答えだ。満足したら行くがいい」

 アニエスはわざとではなく、ただいつもどおりの口調で告げた。
 そしてイーシスの行動など気にしないで、自らは背を向けた。

 その場を支配しているのはただ、雨の音だけだった。