抱きしめていた腕の中で、彼女がそっとイーシスの胸を手で押した。
手を緩めて、彼女の顔を覗き込む。
「もう、……行くわ」
そう言った彼女の言葉の意味が一瞬わからず、けれどもちろんすぐに理解する。
「……! だから! 駄目だと言っているだろうが!」
「でも行かないと」
静かにそう言い返したアニエスは、未だ離さないイーシスの腕の中からこちらを見上げて微笑んだ。
……そう、笑ったのだ。
にやり、という作ったようなあの笑みではなく。
たとえば、アークに対して浮かべるような、そんな微笑を。
だからイーシスは、思わず腕を緩めてしまった。
「荷物が届いたということは、治療は終わりという意味なのよ」
本当に着替えるつもりだったのだろうが、出て行かないイーシスに、着替えることは諦めたらしい。
元のように荷物の袋の中にスーツを無造作に詰めて、それを手に抱えた。
そのまま、行く気だ。
「いや、だが」
「怪我は大丈夫。わたしたちの機関の専門の医者が診たから」
イーシスはあの、どこか飄々と歩いて、そして自分たちの名前を言い当てた男を思い出す。
専門の医者?
彼女たちの、機関の……?
「だが、それでもおまえ」
「アークに」
イーシスの言葉を遮って、アニエスが呟いた。
「ごめんね、て」
「……は?」
荷物を抱えて、アニエスはイーシスの腕からすり抜けた。
イーシスに背中を向けて。
「あなたにも。ごめんなさい」
「……なにを、謝るんだ?」
彼女の背中は、確かに怪我をしたようには見えない。
白い医療用の服に、黒い髪が流れ落ちている。
「わたしがもっと、いろいろ上手く立ち回れたら、ふたりをこんな危険な目にもあわせなかったし、わたしのことで掻き回したりしなかったのにね」
言うと、もう言いたいことは言い終えたのか、ベッドから遠のいて部屋の一角へと歩いていく。
が、その先にあるのは白い壁だけだ。
あるいはここにも、天井に仕掛けがあるのだろうか。
「俺は……!」
イーシスは、アニエスの背中に向かって声をかけた。
彼女を引き止める術を、自分は持ち合わせていないのだと、そう思う。
「伝えたりなんか、しないからな!」
「え?」
イーシスの言葉に、表情のない顔が少しだけ振り向いた。
「謝りたいならおまえがあいつに直接言えばいいだろうが!」
「……」
足を止めたアニエスに、彼女をもう一度捕まえるなら今、と思ったが。
「そうか」
アニエスは短く呟くと、急いでベッドを迂回しようとしているイーシスから逃れるように、ニ三歩、歩いて壁に手をついた。
行ってしまう、と思った。
そしてそれは、事実だった。
アニエスはもう、こちらを振り向くこともなく。
白い壁はその一瞬、壁ではなくなった。
取っ手があるわけでもないのに、アニエスが触れた場所は扉のように開かれ、彼女を飲み込むと、再び真っ白い壁へと戻った。
急いで追いかけたイーシスが辿りついた壁は、なんの変哲もなくて、取っ手どころかスイッチになるような凹凸さえ見つけられなかった。
彼女は、また、目の前から消えてしまった。
この手の中から、すり抜けてしまった。
「……くそっ」
こぶしを白い壁にたたきつける。
どん、と軽く響く音がするが、壁は扉になったりはしなかった。
「イーシス?」
その音に気付いたのか、一度出て行ったアークが、ドアの外から呼びかけてきた。
と思うと、仕切りになっているカーテンをめくって顔を出す。
何もない壁にこぶしをついてうなだれている同僚に、声をかけてきた。
「アニエスは? ……行ったのか?」
その言葉に、イーシスは振り向いた。
誰も居ないベッドを見下ろして、アークは寂しいのか、悲しいのか、そんな顔をした。
「おまえは!」
壁から離れると、イーシスはアークへと詰め寄る。
「あいつがいなくなると、そう思っていたのか? わかっていたのか!?」
ならばなぜ、あんなにあっさりと部屋を後にしたのだ?
いや……そうすることが、出来たのだ?
離れたくないと、こいつなら思うだろう、と、そう思うのはイーシスだけなのか。
「わかっていたわけじゃないさ。でも、今にして思えば、ああやっぱり、とは思うね」
そのやたら冷静な態度に、イーシスは腹が立った。
アークは、もう誰もいない、真っ白のベッドのシーツを軽く撫でた。
そこに彼女がいたのは、ほんの数分前。
「だって、それまで動けなかったのに、突然起き上がって、着替えるなんて。普通言わないだろう?
というかさ、着替えるにしても、彼女が持っていたのはスーツだったじゃないか」
イーシスは瞠目した。
それは、そうだ。
本来重症の怪我人が起き上がることもおかしい。
そして仕事の制服であろうあのスーツに着替えることも……おかしい。
言われてみれば、だ。
「なんだと……」
「だから、あのスーツに着替える、と言ったときに、もう行くのかな、て思った」
ぽつん、と呟くアークに。
イーシスはやや愕然としていた。
彼女のことしか見えていないとは思っていた。
彼女のことになると、ほかのことなんてわかっちゃいない、と思っていた。
確かにそれは事実なのかもしれない。
けれどアークは、なにより彼女のことをよく見ていた。
「ならなぜ止めなかった?」
「俺が止めて、アニーが引き止められるのか?」
アークがイーシスのほうを向いた。
初めて、目があった。
あの、緑がかった青い双眸は、幼馴染みの少女だけを映していた。
こうしてイーシスを見ながら、その向こうにアニエスを見ている。
アニエスが、イーシスを通してアークを見ているのと、似ていた。
「……おまえが言えば、なにか変わるかもしれないだろ」
「無理だと思うよ」
認めたくはないが、アニエスの中でアークは特別なのだ。
けれど、アークはあっさり否定した。
「なぜ!?」
「引き止める言葉なら言ったけど、アニーはきかなかった。
なら俺は、彼女を困らせるようなことは言いたくない」
かっとした。
頭にきた。
そんな格好つけたことを言って、と思った。
だから、アークの横をすり抜けて、ひとりで治療室を飛び出した。
イーシスは気付いた。
自分は、彼女のことをあまり見ていなかったのだと、気付いてしまった。
知らないのは確かだろう。
けれどアークだって、今の彼女のことを知らないのは同じなのだ。
見ていなかったのは、自分のほうだった。
そんな自分の声が、彼女に届くはずはなかったのだ。
(くっそ……!)
それで。
なにが悔しいのかわからない。
なぜ、こんなにも腹立たしいのか、わからない。
触れられるようになったのに。
少しは、笑ってくれるように、なったのに。
(なにをやっているんだ、俺は……?)
走って逃げ出したい気分だった。
実際アークの前から逃げ出してしまった。
けれど本当は、何から逃げたいのか、そして逃げてどこへ行けばいいのか、
イーシスにはまったくわからなかった。