21. Lunch Time. 

 食事に行こうと言われたとき、イーシスはかなり、奇妙な気分になった。
 アニエスと普通に一緒に行動しているのに違和感があった。
 けれどアークのやつは当然そんなふうには思わなかったようで、イーシスのことなどかまわず、アニエスと並んで歩き出す。
 イーシスは後ろからついていく形になった。
 もと来たエレベータに乗り、食堂があるというフロアへと移動する。
 そこで。

 アニエスの足が止まった。

 イーシスは後ろから見ていたからすぐにわかった。
 そのフロアには、人がいくらかいて、食事をしたり、打ち合わせをしたり、仕事中であるという雰囲気のままの人間も多かった。
 忙しそうな職場の食堂といった感じだ。
 そこへ、アニエスは……入っていけなかった。

「どうした?」
 後ろから追いついたイーシスが、隣に立ってたずねる。
 アークも気付いて振り返る。
「え……ああ、あの」
 それまでの自然な振る舞いとは一転、機械のような動きでアークとイーシスを見比べた。
 その、少し奇妙な動きのほうが……イーシスは彼女らしい、と思ってしまった。
「いや。すまないが、食事はやはり、二人で行ってきてくれ」
 やや俯き気味に視線を落として、棒読みで言った。
「どうしたんだ?」
 アークが驚いたように彼女のそばへ寄るが、彼女の横顔を見ていたイーシスは、気付いたような気がした。
 アニエスの恐ろしく無表情なその顔に、彼女の気持ちが見えたような気がした。
「二人でって……その間アニーは? 食事は?」
 アークが心配そうな顔で覗き込む。
 けれどイーシスは思った。
 そうではないのだ、と。
 アニエスは……この女は。
「いや、わたしのことはかまわなくていい。午後からの……」
 アークに語りかけるときは、わずかに視線が緩むが、それももう、わかったことだ。
 イーシスは、手を伸ばした。
 彼女の言葉が途中で途切れた。
「おい、イーシス?」
 アークが、驚いた顔でこちらを見たが、イーシスはアークを見返さなかった。

 イーシスは、アニエスの腕を掴んだ。

 今出てきたエレベータに向かって彼女を引きずるようにして歩き出す。
「イーシス……?」
 驚いたような瞳でアニエスが自分を見た。
 ああ、確かに、自分を見たと思った。
 イーシスは彼女には答えず、ちらりと後ろに視線を投げる。
 意味がわからないという顔をしたアークは、けれどイーシスの視線に急いで追いかけてくる。
 三人は揃ってエレベータに逆戻りした。
 イーシスはアニエスの腕を放すと、何も言わずに操作ボタンを押す。
 それを見て、アニエスが再びイーシスの顔を見た。
 今度はイーシスも彼女を見返し、そして、告げた。
「あそこは食事も出来たか?」
「イーシス……」
 アニエスが、見上げてくる顔には、表情なんて浮かばない。
 それでも、その深い深い青い眸には、なにか読み取れるような気がして、イーシスは彼女を見下ろした。
「あの場所が嫌だったんだろう?」
「……」
「ま、説明はなくてもいいさ。おまえが言いたければ聞くが?」
 やさしい言葉なんて、イーシスにはかけられない。
 ただ、その事実だけを。
 自分が見ているその姿だけを。
 手探りで、手繰り寄せているだけだ。
 アニエスは、なにも答えず、視線を外した。
 その双眸は、何も見ていないようだった。
 エレベータが止まる。
 ドアが開くと、戸惑った様子のアークがまず降りて、イーシスたちを振り返った。
 すぐには動こうとしないアニエスを、イーシスは押し出すように背中を押した。
 押されて、アークのほうに向かって歩き出すアニエスの背中を眺めて、イーシスは思う。
 彼女は……イーシスが触れても、最初の頃のように怯えなくなった。
 嫌がらなくなった。
 あのとき、抱きしめてからだ、と思う。
 無理やりこの腕に捕まえたのが、荒療治だったということだろうか。
 数度のやりとりで、心を開いてくれたのか。
 信用されたのか。
 怖くないとわかったのか。

 ……怖い?

 アークが大切そうに彼女に触れる。
 それに目を上げ、アニエスが見返す。
 イーシスは、気付いた。
 あの顔が何も表さないのは、彼女が恐怖しかもっていないからではないか、と。
 だからそれを表に出さないために……無表情なのではないか、と。

 怖い。

 アニエスがそう口にしたことはないけれど、そういうイメージがぴたりと当てはまる。
 不適ににやりと作り笑いしてみせるあの表情も、すべてそれを隠す仮面だとしたら。
 だから、アークの前ではそれが緩むのだ。
 彼女は少なくとも、アークのことを怖いなんて思っていない。
 幼馴染みだという。
 アークにとって彼女が初恋の相手なのは充分わかったが、逆もなかったとは言い切れない。
 実際、アニエスはアークのことだけを特別視している節がある。
 だからといって、今のイーシスには関係のないことだけれど。

「おい、行くぞ。時間は無尽蔵にあるわけじゃない」
「行くって、イーシス」
「食事だろう? 午後から予定もあることだし」
 さくさく歩き出す。
 ここは、アニエスを初めに目撃した七階のフロアだ。
 窓の外は相変わらず雨が降っているが、天気ならさぞすばらしい眺めが堪能できるだろうカフェテラスがある。
 アニエスはここで、なにやら携帯パソコンを覗いていたのだ。
 食堂と違って、そこにはいた先客は二人だった。
 それぞれ離れたところで自分の仕事に取り組みながら、小腹を満たしているといった風情だ。
 サンドウィッチらしきものを片手に持っている彼らを見て、そういうものがあるらしい、とイーシスは奥まったところにあるカウンターに足を向ける。
 と、アークが追いついてきた。
 アニエスはいない。
 振り返りもしなかったが、どこか席に座らせたのだろう。
 でなければこいつが今、彼女をひとりでおいてくることはないだろうと思った。

「イーシス、どういうことだ?」
「なにがだ」
「なにって! どうしてここに来たんだ?」
「そりゃ、あいつが食堂が嫌だと言ったからじゃないか」
 カウンターでメニューを眺めながら、イーシスが呟くように返事をする。
 アークをほっといて注文する。
「言ってないだろ!」
「同じようなものだ。おまえもさっさと注文しろ」
 むっとしたアークだが、急いで二人分注文する。
 迷う様子もなく、別のものを二人分頼む。ということは、彼女のだろうが。
「……食堂のなにが嫌だって?」
 諦め悪くアークが訊ねてくる。
 アークなら直接アニエスに聞いてもいいだろうに、それができないところは、やはりこいつはあいつに引け目があるらしい。
 が、それもイーシスの知ったことではない。
 セルフかと思ったら食事は運んでくれるそうで、首からかけた身分証で会計を済ますと、手ぶらで歩き出す。
「知らんな」
「知らん……て……。おまえなあ」
 やや絶句しているアークをほっといて、座ってまたパソコンを広げているアニエスを見つけてそちらへ向かう。
 イーシスが近づくとアニエスはこちらを見上げたが、目を合わせたのは一瞬で、イーシスはなにも言わずに座った。
 アークは……おそらく自らの仕事をしているのだろう彼女を見て、開きかけた口を閉ざし、アニエスを見つめる。
 三人の誰もなにも言わないまま、わずかに雨の音のするテラスは時間が過ぎ、かたかたとアニエスがキーボードを打つ音が、やがて食事を運んできた地味な格好のウェイトレスによって遮られる。
 食事を前に、アニエスがパソコンをしまう。
 ふと、三人それぞれ別のメニューが並んでいるテーブルを見て、アークが、あ、という顔をした。
「アニー、これ、変えていい?」
 アニエスの前にあるデザートのヨーグルトを指差す。
 それにアニエスは、ちらりと目を向けてから、無造作に頷いた。
 アークはさっさと自分のフルーツの乗った皿と交換する。
 イーシスは、眉を寄せた。
 アークとはそこそこ長い付き合いなので知っているが、彼には基本的に偏食はなかったはずだ。
 嫌いなものがあるのかもしれないが、食べられないと避けたり残したりするのを見たことがない。
 と、いうことは。
 今のはアニエスの好みの問題だろうか。
 けれど、六つとかのガキの頃の嗜好なんて、覚えているものだろうか……?
「じゃ、頂こうか」
 アークとイーシスが食事を始める。
 アニエスは……アークが彼女のために注文したのはサンドウィッチのセットだったのだが、手を拭きながらじっとそれを見つめていた。
 それこそ嫌いな具でもあったのだろうかとコーヒーにミルクを入れながら横目で見ていたイーシスの前で、アニエスは慎重に拭き終えた手で、サンドウィッチをつまんで、アークの皿に移動させた。
 イーシスは一瞬、手を止めた。
 彼女が掴んだサンドウィッチは、単純に端から、という感じで、嫌いな具とかそんなものではないように見えた。
 皿に入れられたアークも気にせずに、ああ、とか言って自分のホットサンドを口に運んでいる。
 アニエスが次に自分のサンドウィッチに手を伸ばしたとき。
「……と、ちょっと待った。アニー、これはもらうけど、それはいい」
 と、彼女の行動を先に制した。
 アニエスは、別段表情は変えなかったが、動きを止めてアークを見た。
 いや……少し困った顔をしているか。
「いいから。じゃ、それはイーシスにあげてよ」
「は?」
 急に名前を言われてイーシスが驚く。
 するとアニエスがちらっとこちらを見た。
「大丈夫だから」
 なにがだ?
 アークの言うことの意味がわからず、中途半端に見詰め合ったイーシスとアニエスだったけれど。
「イーシス、食べられるよな、それくらい」
「あ? ああ……」
 それは目の前の軽食のことを言っているのか、それとも彼女の目の前のものを言っているのか。
「アニーの。もらってやって」
「……ああ、かまわんが」
 頷いて返事をすると、アニエスがニ三度瞬きをした。
 じっとイーシスを見つめて……アークにしたのと同じように、自分のサンドウィッチを端からとって皿に移してきた。
 その時点で、彼女の皿の中身は、もとの半分になっている。
 で、どうするのだろうと二人を見ていたが、それからは何もなく、それぞれ食事に取り掛かっている。
 もらってやって、だと?
 まるで保護者気取りだな。
 いや、兄貴気取りとでも言うべきか。
 アニエスもイーシスの皿に移すときにちらりと上目遣いでイーシスを見たきり、あとは目の前の自分の食事を片付ける作業に取り掛かっている。
 その表情はやはり相変わらずの無表情で、何を思っているのかなんてさっぱりわからなかった。

 どうして食堂はダメで、ここならいいのだろう。
 人ごみが怖い、というのは、少し違う気がした。
 今まで、ローカルレールや、港の臨海ビルで彼女を見てきた。
 ここよりももっと人の多い場所だった。
 それでも彼女は、怖がったり逃げ出したりはしなかった。
 怖いなら、送るというイーシスの申し出を、あんなにきっぱり断りはしなかったと思う。
 そもそもローカルレールなんて使わないはずだ。
 では……なんだ?
 なにが違う?
 アニエスのことを考えつつ、そしてちらりと何度目かに彼女を盗み見て、おや、と思う。
 自分とアークはほとんど食べ終わっているのに、アニエスはほとんど食べていなかった。
 けれどなにも、手を動かしていないとか、嫌いなものを残しているとかいった感じではなく。
 むしろ真剣に食べている様子なのに。
「随分と少食なんだな、おまえは」
 ヨーグルトにのっていた林檎を口に入れてから、彼女にそう言うと、アニエスは驚いたような顔をしてイーシスを見た。
 なにに反応したのか知らないが、ずっと見ているとわずかにみられる彼女の変化に気付いた自分が嬉しい。
 そうだ、アニエスだって、笑ったり、驚いたりするのだ。
 泣いたりも……するのだ。
「えっと……すまない」
「なんで謝るんだ。ヘンなやつだな」
「あ、そうか? えっと、じゃあ……」
 アニエスがわずかに眉を寄せるような表情をする。
 それが至極普通そうで、イーシスは自分でも気付かず微笑んだ。
「アニーをいじめるなよ、イーシス」
「あん? そんなつもりはないぞ。いつものおまえのように、なんでもない顔して言えばいいだろう。いつもこんなもんだ、とか」
「あ、ああ。そう。そうだな」
 慌てたようにアニエスが頷く。
 サンドウィッチはもう一片あったが、彼女はそれには手を出さず、アークがとりかえたデザートのフルーツを手に取った。
 ヨーグルトなんて女は好きそうだが、こいつは苦手なんだろうか。
 まあ、それも些細なことだからどうでもいいが。
 そのときアークがひょいと手を伸ばして、フルーツを食べているアニエスの前から、最後のサンドウィッチを取り上げた。
 躊躇わずにぱくんと口に放り込む。
 それを見たアニエスは、目で追っただけで、それ以上の反応はなかった。
 イーシスは……よく、わからなかった。
 こいつらは、最近再会したばかりのはずだ。
 アニエスに会いたくて、泣きそうな顔をしたり、イーシスを問い詰めたりしたアークを目の当たりにしたのはつい最近だ。
 それからアークは、イーシスほど彼女に会ってすらいない。
 なのに。
 互いの皿に手を出すのも全然気にしない様子だ。
 イーシスは、面食らう。
 それはつまり、少なくとも昔はそれくらい普通だったということだ。
 十数年経っても、時間の隔たりなんて関係なく振舞えるほどに、昔はそれがふつうだったということだ。
 まさしく兄妹のような感じだったのだろう。

 なのに、ならばこそ、なぜ。

 アニエスは姿を消したのだろう。
 イーシスは食べ終わって、短く言葉を交わす二人の幼馴染みを眺めながら。
 アークでさえ聞けないその事実に、自分が立ち入っていいのかどうかわからなくて。
 そしてどうしてそれを自分が知りたいのかわからなくて。
 知ったらどうするのかも、わからなくて。
 アニエスを見つめるしか出来なかった。
 アークを見ているときは少しだけ表情も視線も声色さえも緩やかになるアニエスを、ただ、見つめるしか出来なかった。