「待っていた、だと……?」
アニエスの意外な言葉に、イーシスは絶句した。
だから、どう思ったのか知らないが、いそいそと彼女の隣に座るアークに遅れをとった。
「それは、どういう意味だ?」
となりに座って、同じ目線で、アークがアニエスに問いかける。
イーシスは急いで、彼女の向かいに座った。
「言葉の通りだ。二人とも、今日は動けなくて困っているのだろう?」
まったくそのとおりだ。
が、なぜ言い当てられたのかわからず、イーシスは思わずアークと顔を見合わせた。
「それで? 待っていたということは、おまえはそんな俺たちに用があるということか?」
あんなに探していたのに、追いかけていたのに。
あっさり現れられると、どうしてこんなに複雑な心境になるのだろう。
やはり……アークがいるからかもしれない。
アニエスをじっと見つめる、アークがそこにいるから。
「用があるのは、わたしではない。あなたたちのほうだ」
……言われた意味がわからない。
「どういうこと?」
アークが覗き込むようにしてたずね返す。
アニエスは、その目をまっすぐ見返したりは、しない。
「ふたりがこのまま、この施設を自由に見学したいならそれでもいい。
時間つぶしなら二階はワンフロア図書室になっている」
目をあわさないアニエスを見つめたまま、アークがわずかに首をかしげた。
「ワンフロア全部図書室? それはそれでとても興味があるけれど」
アニエスの視線は、ずっと目の前のコンピュータ端末の画面に注がれている。
「おまえなら、俺たちになにをしてくれるというんだ?」
穏やかに話を進めようとするアークに、割り込むようにしてイーシスは口を開いた。
その言葉に、アニエスが顔を上げた。
アークではなく、イーシスを見た。
ほんの少しだけ優越感が心をよぎる。
「それは少し違うな」
「ほう。どう違う」
「わたしなら、あなたたちにとってどう役に立てるのかと聞いたほうが正しい」
まるで。
自分を道具のように言う。
「ふん? で、その答えは?」
するとアニエスは。
にやり、と笑みを模った。
作り物のような笑みだった。
「今日の二人の予定を、そっくりそのまま実現させることが出来る」
「……おまえが案内してくれるのか」
「それも可能だな」
言えば答えが返ってくる。
しかもはぐらかすあやふやなものではなく、確かに裏になにかありそうな物言いではあるが、とりあえずの答えにはなっている、言葉で。
「そのために、俺たちに何をしろと?」
皆までは言わない彼女からその何かを引き出すために。
あるいは単に、この会話を終わらせないために。
イーシスは彼女に問いかけ続ける。
アークに喋る隙を与えないように。
気分はまるで……まるで、真剣勝負だった。
アニエスが少し、目を細めた。
今、このときは。
確かに彼女は自分を見ている。
アークではなく。
自分を通してアークではなく、イーシス自身を。
「イーシス・ハージェ」
アニエスが、名を呼んだ。
それがやたらと機械的で、イーシスはわずかに怯んだ。
アークが驚いたように彼女を見つめる。
「あなたならできることだ」
「俺なら?」
アークではなく、自分に?
わざわざハージェの名前を呼んだことに意味があるのか?
それは、この場所だからか。
それとも……?
イーシスが思い巡らせるのを見抜いたように、アニエスは目を伏せた。
「すべてのピースをつなげることは、今のあなたでは無理だ。
だから手順だけ伝えよう」
アニエスは機械的に喋った。
あらかじめ録音されていたかのような台詞だった。
「本国に連絡するんだ。シスカティアの不都合で予定が狂っている。
至急今日の視察を消化できるような人員の手配を求む、とね」
「それが、君……?」
アークが横で呟いた。
アニエスはちらりとアークに目をやった。
そしてまた、伏せる。
「そう言ったつもりだが?」
アークが、ひどく驚いた顔をした。
どこか不安そうな、いつもとちがって頼りない表情をした。
目の前に会いたがっていたアニエスがいるというのに。
それとも。
やつが会いたかった女は、こいつではないのか。
今の、アニエスではないのか。
「それは俺が言わねばダメなことなのか」
「……さて」
アニエスはとぼけたような返事を寄越す。
だが、立場としてイーシスもアークも同じなのに、わざわざ自分にだけ言うということは。
「……父に言えばいいのか」
するとアニエスは、片目を細めてくっ、と笑った。
「お父様におねだりか? まあそれもいいが」
と、今度は馬鹿にしたように笑った。
今度ばかりはアークだけでなくイーシスも驚いた。
違う、そうではないのか。
父でなくてもいい?
いや、……父の耳に入りさえすればいい?
それともほかに……?
イーシスは立ち上がった。
彼女の言うとおり、今の自分ではそのすべてのピースは見えないのかもしれない。
だが、それだけしか言わないということは、とりあえずそれだけはしなければならないということだ。
あやふやな答えは肯定なのだ。
見当違いなら彼女はああして否定を示す。
きっと、そういうことだ。
ならば今はそうするしかないのだろう。
イーシスは立ち上がると、躊躇いなく背を向けた。
彼女の言うとおりなら、自分さえ上手くすれば、彼女にまた会えるはずなのだ。
なにも未練に感じることはない。
まるで試すように、挑戦的に言い放つ言葉も、自分なら受け止められるのだと、示したい。
走り出しそうな勢いで、イーシスはその場を後にした。
「アニー……」
イーシスが立ち去って、わずかな沈黙が降りたその時間を、破ったのはアークのほうだった。
「なあに?」
それまでの機械的な口調とは異なり、アニエスは普通に返事をした。
だから、なのに、驚いた。
アニエスは、アークと目をあわさない。
「避けられているのかと思った」
「……?」
ぽつんと告げると、アニエスはわずかに疑問を浮かべた視線をアークに向けた。
「だって、君がいることはイーシスやサラディから聞いているのに、俺の前には姿を見せないから」
「……わたしだって、彼らの前に現れるつもりでいたわけじゃないんだけど」
「そうなのか?」
こくん、と頷く。
アニエスの瞳は、もう、アークを映していない。
「でも俺が追いかけていったときにはいなくなってばかりだったからね」
「追いかけて、きた?」
「なんでイーシスのほうが先に気付くかな」
アニエスが窺うようにこちらを見たので、アークは肩をすくめて見せた。
「そう、なの」
アニエスは知らなかったらしい。
ということは、わざとじゃないんだな、と内心安堵する。
そして、苦笑する。
アニエスがまた、少しだけ振り向いた。
なに、と目が訴えているが、言葉では言ってこない。
「いや。会えて良かったと思って」
アークは手を伸ばして、アニエスの髪に触れた。
黒い髪を長く伸ばしている。
肩から落ちる髪を少しすくって梳いてみた。
指の間からさらさらと流れ落ちる。
アニエスはしばらくそんなアークを見ていたが、ふいっと視線をそらした。
端末に目をやり、少しキーボードを操作する。
アークがそこにいることを忘れたかのように無表情で。
その凍りついたような表情に、覚えがあって、アークは胸の奥がちくりと痛むのを感じる。
でも……そのことは口にしてはいけないのだ、と思う。
覗きこんでいるわけではないが、その変化は視界になんとなく映った。
アニエスのパソコンの画面に、何かが表示された。
それに目を通したのだろうタイミングで、アニエスは端末を片付け始める。
その動作を目で追う。
アニエスがちら、とアークを見た。
「イーシスはうまくやったようだ」
さっきまでの会話していたときの声とは明らかに違う調子で、アニエスが言う。
少し驚いたものの、アニエスの中で、何かが切り替わったのだ、とアークは理解した。
コンピュータ端末を片手に立ち上がる。
アークも追いかけるように腰を浮かせる。
「アークは、イーシスと合流するといい」
そいういって。
アニエスはひとりで歩き出した。
それはイーシスが向かった先とは別の方向だった。
アークはその後姿をしばらく見送って、そして、歩き出した。
自分が進むべきは、イーシスと同じ方向だと。
その先に、きっと彼女もいるのだと。
イーシスの去り際の心境とまったく同じだったなんて、アークは知りもしなかったけれど。