その日は、朝から雨だった。
大粒の雨ではなく、しっとりと、けれど芯まで冷えそうな驟雨が、モノトーンの空から降り注いでいた。
アニエスは窓からそれを見て、そして、天を見上げた。
これはしばらく、止みそうにないな、と思った。
思ったけれど、それだけだった。
ロス・クライムの事務所は朝から多少ざわめいていた。
もっともそこにいる人間の数の割には、どんなオフィスよりも静かだとは思うが。
二日前のロイヤルレーンに仕掛けられた爆破物の件を、ようやくシスカティアが処理し始めた。
関係者が動くので、ロス・クライムも追いかけるように動く。
新しい情報は、秒単位で切り替わる。
アニエスが今朝見た情報など、すでに今は過去の産物に過ぎないだろう。
けれど。
アニエスはそのざわめきの中にはいなかった。
今日は、自分の仕事があるのだ。
監視対象が、動く。
もともと貴族院の西院と東院は仲が悪いため、日程も出来る限り別行動にしようという意思がありありと表れていた。
それは例年のことであり、何も知らずに入ってくる新人などいはしないので、毎年お互いのことを避ける風潮は薄れるどころか引き継がれている。
たとえ相手にマイナスのイメージを持っていなくとも、これから自分が属する先達に、無駄に反抗する意味はさほどない。
だから……例外なのは、多分、彼らのほうだ。
今年の四人は、もともと友人なのか、一見しただけでは誰が西院で誰が東院の者なのかわからないほど一緒にいる。
だから監視もやりやすいのではあるが。
日程は、今日から別々に組まれていた。
それは何も今年組まれた予定ではなく、毎年繰り返されているものだから、仕方ないといえばそれまでだ。
本来なら、顔を合わすのも嫌だということだってあるのだから。
子どもじゃあるまいし、とも思うけれど。
これがなまじ大人だから手に負えない、というのも、一理ある。
アニエスが窓から雨の街を見下ろす。
向かいの建物の前に、一台の車が付けられる。
本来ならロイヤルレールを使うところだが、先日の騒動と、今日の政府の動きから、ロイヤルレールの使用は控えたほうが良い、と、行政府に指示したのはおそらくロス・クライムだ。
アニエスは、そんな上層部のやりとりなんて知らないけれど。
だから、あの車は、今日はここではない場所を視察する二人を運ぶためにやってきたに違いない。
まもなく、人が乗り込む動きがあって、車は静かに走り出す。
アニエスはそれを見送って。
そして、自らも窓に背を向けた。
「どうかしたのか?」
隣に座ったアークの声に、イーシスは視線を外してどかり、と座席の背に沈んだ。
「いや、別に」
ここへきてはじめての移動日に、雨が降るとはついていない。
雨では薄暗くて、向かいのビルのあの窓に、女が立っているかどうか、よくわからない。
イーシスは走り出した車の後部座席で、苛ついた溜息を吐き出した。
「……おまえ、そんなに雨が嫌いだったか?」
イーシスの様子にアークが首をかしげる。
「ああ? 別に。雨が嫌だと言うわけじゃないが」
「そうか? じゃ、なんだ?」
「だから別にと言っている」
そして二人は沈黙した。
今日はサラディたちとは別行動で、イーシスとアークは二人で視察に向かっていた。
表立ってはそうとは知られていないが、イーシスの父、エドラス・ハージェが関係している場所である。
「……雨が降ると」
ぽつ、と、突然アークが口を開いた。
イーシスはちら、と横目で相棒を見たが、すぐに窓の外に視線を向ける。
アークは、そんなイーシスのことなんて気にせずに。
「アニーはいつも、そわそわしていた」
その名を言われて、けれどイーシスはすぐには気付かず、一瞬遅れて振り向いた。
「は?」
「雨が降ると……なんて言ったっけ?」
アークがひとり、考える顔をする。
イーシスは瞠目して、友人を見つめる。
「思い出せないな。子どもは表現が下手だしな」
「……なにを、言っている?」
「でも、確か……多分、この空気がしっとりする感じが好きだっていう、そういうことが言いたかったんじゃないかな」
そこでアークが視線をイーシスに向けた。
「今にして思えばね」
「……おまえ」
「アニーは、近くにいるのか? 今日も? ……今も?」
たずねるというよりは、確かめるように。
どこか少し、寂しそうに。
アークはアークで、アニエスの思っていることが、わかるのかもしれない。
話してもないくせに。
彼女が忘れて欲しいと言ったなどとは、伝えてなんて、いないのに。
イーシスは眉を寄せてアークから目をそらした。
「俺が知るか」
イーシスは知らない。
聞いても答えはない。
なのに、アークは言い当てて、イーシスを通して彼女を見ている。
アニエスに会ったのがイーシスだから。
アニエスに会ったのはイーシスなのに。
なのに。
イーシスにはなにも、わからないままだった。
この街は、ローカルレールがとても発達していた。
主要な場所にのみ繋がっているロイヤルレールよりも、路線は格段に多いし、利用する人間も多いので行き来している車両も多かった。
だから目的地までの、最短コースを効率よく乗り換えれば、驚くほど早く移動できる。
アニエスは、だから。
その建物の上階から、二人を乗せた車がエントランスに入ってくるのを見下ろしていた。
ここも、シスカティアの好きな、全面ガラス張りの前面をしている。
ジグザグに上るエスカレータと、そこに乗っている人間までもが、まるでデザインの一環のように外から見えた。
車から降りた二人は、けれどすぐには建物に入らず、足を止めて空を仰ぐ仕草をする。
初めて訪れたものは、多くそんなふうに、ここを見上げる。
ガラス張りの前面は少し反っていて、大きく見える。
これで雨が降っていなければ、もう少しきれいな眺めになっただろうが。
誘導員に促されて、二人は小雨の中から歩き出す。
アニエスのいるこのビルの、一階に姿を消す。
さて、と。
アニエスは立ち上がった。
どうするか。
先日のちょっとした騒動は、たいしたことではないとの見解が強かったが、ここへきて思わぬ余波を食らっていた。
それもたいしたことではない、けれど。
アニエスは表情一つ変えず歩き出す。
エスカレータの人の流れに紛れ込む。
おそらく目的地に付くまでに、思ったような展開になっているだろう、と思いながら。
その部屋に通された二人は、告げられた内容に困惑していた。
が、それでは困る、と言い返して、なんとか手配させろと係員を追い立てたところだ。
ロイヤルレールが危険だからとシスカティアの政府からの通達で、車でたどり着いた先には、先日の事件の立会いのため、今日二人を案内する予定だった者が出払っているというのだ。
ふざけている、とイーシスは思った。
自分たちが今日来ることは、数日前からわかっていたことではないか。
急な事件で人を回すのはわかるが、それで自分たちを放置していい理由になるものか。
上につなげと言ったら、今日はその都合で込み合っていて、とか、わけのわからない返答があった。
まったく、なにをやっているんだ。
このことは必ず父に報告してやる、とイーシスは内心思う。
しばらく待っていると、行政の関係というよりは、ここの施設の事務員らしき女性が、しばらくご自由にお過ごしくださいといって、館内を自由に歩けるというパスを渡された。
彼女は事務的に告げるとさっさと出て行く。
イーシスは怒る気も失せて、やれやれと溜息をついた。
七階の窓際には、こぢんまりとしたカフェテラスがある。
仕事の合間に休憩するために設けられている。
晴れた日には日が差し込み、明るく温かい空間となる。
が、あいにく今日は雨模様で、この階にいる人間は皆、朝から大忙しなので、カフェには人の姿はなかった。
ただ、まるで空気のように座っているアニエス以外には。
カフェといっても飲み物を注文しなくても、座って携帯型コンピュータ端末を広げていれば、誰も追いたてはしない。
画面の中には、今まさに進行中の情報が分刻みで更新されている。
音量の落とされた音楽、ガラスの向こうで降る雨の音、そしてアニエスが紡ぎだす、キーボードを叩く音。
そこを支配しているのはそれだけの音。
時折早足に、あるいは走ってフロアを通り過ぎる職員がいるけれど。
だれもアニエスに声をかけたりしない。
だれもが忙しいこんな日に。
無表情にパソコンの画面を見つめているアニエスに。
声をかけるなんて。
そんなことをするのは、仲間か。
あるいは、彼らだけだ。
ここには今、ロス・クライムの仲間はいない。
自分たちもそれぞれ忙しいのだ。
忙しくないのは、視察に来ている新人議員の二人だけ。
「あ……」
「……アニー?」
たったそれだけの短い単語に、こうも驚きの表現を凝縮されると、思わずなんだろうという気分になるのは自分だけだろうか。
アニエスは、自分を呼んでくれた人を振り返った。
けれど、返事はしない。
笑いもしない。
そして二人も、驚いた顔で立ち尽くしたまま……それきりだった。
アニエスは数秒二人を見つめて、そしてふいっと目をそらした。
いや、画面に戻したのだ。
二人分の足音が、ゆっくり近づいてくる。
「おまえ……ここで、何をしている」
イーシスが驚いた、という感情を隠しもせずにたずねてくるので。
「仕事」
アニエスは短く答えた。
「な……ま、まあ、そうだろうな」
慌てたような、拗ねたような、怒ったような、イーシスの反応が返ってくるが、アニエスは画面から目を離さない。
けれどそのやりとりに、くす、とアークが、笑った。
アニエスはそれで、ゆっくり振り返った。
アークと、目が合った。
アークは苦笑のような表情で、そっと手を伸ばす。
その動作に、イーシスがはっとした顔を見せたが、止める前にアークの手はアニエスに触れた。
アニエスは……アークの手が触れる感触を追いかけた。
何か意識しているようだが、逃げも嫌がりもしなかったアニエスに、イーシスが内心動揺しているなんて、アニエスにもアークにもわかるはずはなく。
アニエスは、再び目をそらした。
「待っていたわ。ふたりを」
やっと耳にしたアニエスの声が告げた内容に、またも驚きで動きを止めたのは、イーシスもアークも、同じだった。