17. Injury. 

「イーシスはどうしたんだ?」
 四人分の手続きをまとめて済ませて仲間の元に戻ってきたアークは、けれどそこに同僚のひとりがいないことに気付いた。
 それに答えてひょい、とサラディが肩をすくめる。
「わっかんね。急に後は任せたって、走って行っちまった」
「はあ?」
 意味がわからない、と、アークは首をかしげる。
 後は任せた、て。
 確かに、そこにはイーシスの手荷物が置いたままになっている。
「で、イーシスはどこに?」
 さあ、と首をかしげるサラディに、けれど、グレンが多分ね、と口を挟んだ。
「外、へ行ったんじゃないかな」
「外?」
 今度は二人揃って背の高い同僚を見上げる。
「イーシスはガラスの外を見ていたんだ。何を見ているんだろうと思ったら、急に振り返って、走っていった、と」
 その様子を見ていたらしいグレンの証言に、けれど謎は解けない。
「何を見つけたんだ、イーシスのやつ」
 大事な資料をほっといて走っていくような?
 ここは、自分たちには馴染みのない、異国だというのに?
 アークはその行動がわからず、眉をひそめた。
 イーシスのことはよく知っているつもりだ。
 仕事を投げ出して私事を優先するようなやつではないと思うのだが……。
「それって、もしかして……」
 けれどサラディはふと、考える顔をして、言った。
「イーシスが見つけたのって」
 アークがサラディを見ると、彼はなにか思い出すような顔をしていた。
「……彼女じゃない?」

 どくん、と。
 アークは自分の中で何かが反応するのを感じた。

「彼女?」
 グレンが怪訝そうに聞き返す。
「うん。ほら、昨日ポートで食事しようとしたときにも、イーシス、走っていったじゃない?」
「ああ……」
 そういえば、と思い出す顔のグレンを前に、アークはとくとくと自分の鼓動が鳴りだすのを感じる。
 それは。
「似てるよね。えーと、ねえ、アーク。彼女……アニー、ちゃん、だっけ?」

 アークは。
 持っていた資料を丸ごとサラディに押し付けた。
「おわっ?」
「後は任せた!」
「て、おいっ」
 返事も聞かずに、アークは走り出す。
 イーシスがどこに向かったかなんて、知らない。
 けれど、イーシスだって、アニーがどこにいるかなんて知らないからこそ、飛び出して行ったんだろう?
 見えるところを歩いていたから?
 それを追いかけて?

 なぜ。

 アニーがここにいるのかも疑問だったが、イーシスが彼女を追いかけるのも、疑問だった。
 イーシスが、自分よりも彼女のことをよく知っているなんて、そんなはずないと思った。

「その子って……アークの初恋の人って、昨日君が言ってた」
「うん、そう」
 アークに押し付けられて二人分になっているサラディの資料を見つめて、グレンがぼそりと言った。
 サラディも溜息ついて、抱えなおす。
「で? なんでイーシス?」
「知らない。でも彼女、イーシスと知り合いらしいよ」
「ふーん?」
 グレンはイーシスが残していった資料を取り上げ、二人は歩き出す。
「まあ、あんまりかかわりたくはないよね、そういう事情には」
「そうだね。仕事に差し支えない程度に、自己責任でお願いしたいところだ」
 今日の仕事の予定はすべておわっている。
 だからこそ、あの二人も飛び出していったのだろう。
「けど意外だよね。アークとイーシス、全然タイプ違うのに、好みの女の子は一緒なワケ?」
「……さあね」
 あくまで客観的な意見に、グレンは肩をすくめて返事をした。
 そんなの、知らないよ、と。



 イーシスは、ひとりでそのベンチに座っていた。
 人が走ってくる気配がする。
 まさか彼女ではないから、気にも留めずにいたら。

「……イーシス!」

 知っている声が、自分の名を呼んだ。
 のろり、と顔をあげ、同僚の姿を確認する。
「……なんだ?」
「なんだ、じゃないだろう!」
 走ってきたアークが、スーツの襟元を緩めて、はあっ、と目の前に立った。
「おまえ、どうしたんだよ」
「そういうおまえこそ、どうしたんだ?」
「おまえが!」
 吐き捨てるように言ったアークは、けれど一旦息を整えて、もう一度言い直した。
「おまえが何か見つけて飛び出していったというから、追って来たんじゃないか」
「ふん? 別におまえに心配されるようなことはないと思うが?」
 ベンチに踏ん反り返ったイーシスが、アークを見上げると、アークは、きっ、と同僚を睨みつけた。
 イーシスがはぐらかしていると思ったのだろう。
 イーシスは……別にどっちでも良かった。
「ならはっきり聞くさ! おまえ、アニーを見たんだな!」
 はぐらかすつもりもなくて、イーシスは投げやりに頷いた。
「ああ」
「それで、彼女に会えたのか?」
「……ああ」

 アニエスは、ここにはいない。
 もう、いない。
 ついさっきまでいたのだけれど。
 会いたいと思いながら、こうして間に合わなかったアークは本当に運がない。
「会ったのか。ここに、いたのか!」
「そうだと言っている」
 食らい付いてくるアークに、イーシスは静かに答えた。
「それで? 彼女は?」
「帰った」
「かえった?」
 アニエスは、ここにはいない。
 もう、いない。
 ついさっきまで、この腕の中にいたけれど。
 イーシスはあごで軽く背後のビルを示した。
「ここはステーションだろ。彼女はここからローカルレールに乗って帰るんだそうだ」
 アークが思わずといった感じで、ステーションビルを見上げた。
 その視線の先で、一本のローカルレールが音を立てて通り過ぎていった。
 昨日と同じところへ彼女が向かっているのなら、あれに乗ったのではないだろうな、とイーシスはぼんやり思う。
 モノレールから目をそらして、アークがイーシスを見た。
「ここからあれに乗るってことは、この辺にいたのかな、アニーは」
「職場はこの近くかと聞いたら、まあそうだ、と言われた。それ以上ははぐらかされた」
 イーシスは、確かに彼女と何度も出会った。
 アークが一度も顔をあわせていないのとは反対に、会って、話をして、この手に触れることもできた。
 けれど、なにもわからないという点では、同じだ。
 イーシスは彼女のことなど、何も知らない。

 しばらく、沈黙していた。
 サラディが言うように、アニエスはアークの初恋の相手、なのだろう。
 まあ、それは、いい。
 アニエスに言わせると、ちょっと違うとのことだから、なにか複雑な背景があるのかもしれないが、アークにとってはそうなんだろうと思う。
 それはそれで、かまいはしない。
 そして今だ。
 アークは彼女を探して、追いかけている。
 彼女は……どうなのだろう?
 アークから逃げている、のだろうか?
 忘れて欲しいと言っていたが、そのわりには目に付く一歩手前のところにいる。
 行政府で会って、ここで会うということは、やはり関係者なのだろうか。
 初めの出会いから考えると……もしかして、アークのやつを影から見ているのかもしれない。
 イーシスは、とすると、そんなふたりの間に割り込んだ形になる。
 だからなのか……アニエスは、自分のことなど見ていないように思う。
 自分を透かして、アークを見ているように思う。
 なのに……忘れて欲しいという。
 わからない。

「アニーがもういないなら、ここにいても仕方ないだろう。帰るぞ」
 アークがたった今来た道を引き返し始める。
 イーシスはその背中をちらりと見て、そして、口を開いた。
「彼女は」
 その言葉に、アークは足を止める。
 振り返って言葉の先を待つ。
「なにか、恐ろしいと記憶に残るような、体験をしたことがあるのか?」
 抽象的にたずねた。
 そうとしか、聞けなかった。
「恐ろしい?」
「やたら無表情だし。なのになにかのタイミングで、ときどき人を怖がるような顔で見る」
 イーシスがちらりとアークの表情をうかがうと、アークは視線を落とした。
 心当たりがあるのか。
「……言っただろ。父が、アニーを、俺の妹にしようとしたって」
「あ? ああ、養子にするということだな」
「俺たちはまだ子どもだったから、養子って言葉がわからなくて、だから俺は、アニーが自分の妹になるんだと説明されて喜んだのさ」
 六つと言っていたか。
 まあ、普通に出会う言葉ではないか。
「それで?」
 アークが顔を上げた。
「どうしてそんな六つの子どもを、サリオンが養子に迎え入れようなんて考えたと思う?」
 言われて、イーシスははじめて、その不自然さに気付いた。
 確かにそうだ。
 権力者の家はときに優秀な跡継ぎが欲しくて養子を迎え入れることはあるが、サリオン家にはアークがいた。
 六歳といえども男児だし、当主であるアークの父は、まだまだ健在だ。
 そんな息子と同じ年の女児を養子に迎え入れるのはなぜか?
 まさかとは思うが、将来の伴侶をそんなころから……?
「……婚約者、だったのか?」
 口にするとアークはなんともいえない表情をした。
「父の思惑は知らない。俺はそうは聞いてない」
 けれど、アニエスはいなくなったのだ。
 アニエス・サリオンになることはなかったのだ。
「今おまえが聞いているのは、なぜ父が、というところじゃなくて、その前の段階だろう?」
 なにやら事情がありそうで、イーシスはどこまで口を挟んでいいのか少し迷う。
「その前?」
「うちに養子にってことは、アニーの家はどうなってるんだ、てことさ」
 確かに、そうだ。
 そのとき六歳だった幼い少女の、両親は?
「アニエスは、両親を同時に目の前で失っているからね」

 思考が、止まった。
 いま、なんと言った?

「両親が、いないのか」
「まあね」
「同時に。それは子どもにはショックだな」
「俺は……」
 アークが顔をゆがめた。
 その事件があったとき、アークもまた、六歳だったはずだ。
 何を悔しがっても、たとえサリオンの跡継ぎでも、六歳の子どもになにができるわけではない。
「俺は、見ていないけれど。アニーは……見たのかもしれない。そのとき俺は近くにはいたのに、アニーの隣にはいなかった」
「見たかもしれないとは、何を?」
「…………両親の、死に様を」
 息を呑んだ。
 目の前で、亡くなったのか?
 確かにアークはさっきそういったが、本当に、目の前で?
「だから……!」
 アークは吐き出すように喋る。
「ずっと……ずっとそばにいるって、そう決めたのに……!」
 イーシスに聞かせているのではないようだった。
 ずっと、ずっと、アークはそう思い続けていたのだろう。
 だからふと、イーシスはアニエスの言葉を思い出す。

 けどそれは好意ではない。……責任、だ。

 アークが、責任を感じるような出来事だったというのか。
 そのあと残された娘を養子にしようとするとは。
 それは……サリオンの、責任なのか?

 わたしがいる限り消えない。アークはきっと忘れない。

 アニエスはいつも、無表情だった。
 昏い、深い、黒のような蒼い瞳には、ただ目の前のものが映っているだけで、それ以上のものは見ていないようだった。
 なのに。
 アークの名を呼ぶとき、アークのことを語るときだけは、その双眸が揺れるのだ。
 あれは、懐かしがっているからか。
 それとも、本当に……忘れたいのか?
 少しも笑わないアニエスの顔を思い浮かべて、イーシスは眉をひそめた。
 それから勢いをつけるように立ち上がる。

 彼女がいないのなら、もうここにいることもないだろう。
 アークを追い越して宿舎へ戻る道を行く。
 辺りは既に、夜の気配に包まれていた。