16. Rightness. 

 任務の掛け持ちはいつものことで、まあ、よくあることだ。
 そこには雑用も含まれる。
 監視あるいは潜伏に入っていて、食事も取れないようなこともある。
 そこへ弁当が届くことがあるが、逆にそれを届けるのもやはり仕事のうちということだ。
 というわけで、アニエスは朝から遠回りになる路線に乗って、誰とは知らない同僚に届くのだろう、指定された弁当を指定された先へと届けてきた。
 物流を担う一端になったような感じだ。
 こうして自分のもとに届くものだってあるわけだから、どうでもいい仕事なわけではない。
 それから通称「オフィス」へと「通勤」する。
 昨日の爆発騒動はニュースにはなっていたが、どこの手のものか、というのはまだメディアには流れていないようだ。
 オフィスのフロアに入る。
 人はそこそこ多いが、誰も挨拶を交わしたりなどしてはいない。
 軽く情報をチェックして、メインの任務へ入る。
 特定の人間の監視だ。
 とはいえ、今日は彼らの動きは至って簡単で、本国からこちらへ出向し滞在している外交官らとの会談……要するに社会勉強のお話を聞く席を設けられている、といったところか。
 あの建物の中はある意味安全で、任務と言っても見張ることもない。
 表面的な警備のほかに、常時ロス・クライムが目を光らせている。
 それは子猫一匹通らない警備ではなく、ねずみが何匹通過したかまで把握する警備だ。
 出入りした人間はもちろん荷物の類もチェックされる。
 その気になれば、誰がどの部屋に何分滞在して、そのあとどう移動したか、建物内なら把握できる。
 そんな場所だから……アニエスは、今日は別の仕事が入っていた。
 こちらもオフィスにこもって行う作業だ。
 とあるトップ会談が内密に行われており、それを盗聴した音声から、盗聴防止の波長を除く、という、いたちごっこのようなシステムの作業だ。
 簡単ではないが、出来なくもない。
 その程度の盗聴防止では意味がない、が、今のところそれくらいの性能しか出回っていない。
 そんな仕事だ。
 こんなことをやっている組織は、世の中なにもロス・クライムだけではないのだろうが。
 ほんのごくたまに、なにをやっているんだろうな、と思わなくも、ない。

 まあ、いい。
 そのためだけに訓練され、生かされているのだから。

 誰とも会話することなく、一日は過ぎる。
 時折思い出したように、隣のビルに缶詰になっているだろう監視対象の居場所をチェックするが、模範的な新人たちは決まってスケジュールどおりの場所にいた。

 昼間に何を思ったかひとりだけ建物の外に出た人物がいた。
 イーシス・ハージェだ。
 昨夜唐突に現れたとき同様、何を思ったかステーションビル横の公園に向かっていた。
 ビルを出られると居場所は把握できないので、仕方ないので目視で確かめんと窓から覗きに行く。
 そして……驚いた。
 イーシスは、こちらのビルを見上げていた。
 アニエスがいるのとは別の方向だったけれど、明らかにこのビルを見上げていた。
 上階のモノレールを見ていたのではなさそうだ。
 視線はこの二階に向けられている。
 ここがロス・クライムの隠れ蓑であると、彼が知っているはずもないのに。
 なぜだろう。
 が、すぐに視線をはずし、急ぎ足で歩き出す。
 方向から、昨夜の公園ではないかと思ったのだ。
 出て行くべきか考えている間に、イーシスは再び視界に戻ってきた。
 そしてもう一度こちらを見上げて……宿舎のビルへと帰っていく。

 不可解だった。
 まるで、何かを探しているようだった。
 そしてその何かが、どこにあるのかわかっているかのようだった。
 それは、ここだ。
 イーシスは、アニエスがここにいると、知っているのか?
 だとしたら……なぜ?
 
 宿舎に入ればあとはおかしなことなど何もなかった。
 彼らの会話までは把握していないが、それは必要ないからだ。
 まだ、彼らはそこまで重要人物ではなかった。
 それも、まだ、でしかないのかもしれないが。


 二日目はそうして特に何もなく過ぎた。
 夕方になって私信、というメールを受け取った。
 本国にいて、副業にいそしんでいるカルロスからだった。
 用件は一言。
 新曲を頼む、だった。
 思わず……笑った。
 いや、他人が見てわかるような笑みではなかったけれど、なんとなくカルロスらしいと思ったのだ。
 新曲といわれても、自分は今彼が歌っている音楽だって、たいして何もやってはいない。



 立ち止まるとか、焦るとか迷うとか、そんなのは似合わない。
 全力で走る。
 いつでも、どこへでも。



 カルロスが歌っていたフレーズを、ふと、口ずさんでみる。
 ふざけたような、それでいて射抜くような、彼の歌は、そこそこ人気があるそうだ。
 ステーションビルからすぐにローカルレールに乗ってもいいのだろうが、なんとなくビル横の公園を歩く。
 昨日は夜遅くなったので人目もなくていいだろうと、踊っていたのに。
 急にイーシスが現れるから驚いた。
 この公園にはよく来るのだが、人に会ったのはあれが初めてだ。
 耳の拾音機をオンにしたまま、思い浮かぶままに、口ずさむ。


 独りよがりで充分生きてける
 前見て走れ
 いつでも、どこまでも


 充分かどうかなんて自分にはわからないけれど。
 カルロスならそれでいい。
 アニエスは、どうだろう。
 サンドラは、どうだろう。

「走る……走り続けて……でも、誰も……」
 ぽつりと、呟く。
「走って……立ち止まることは……」
 あるだろうか。
 きっと、あるだろう。
 ただ、立ち止まっても、無駄なのだ。
 自分たちにとってそれは意味がない。
 それを、切り捨てなければならない。


 昨日は終わりを告げた
 今日がある 明日がある 当たり前なのか?
 ひとかけらだけの希望 指の隙間 滑っていく


 手を透かす。
 夕暮れ時の街に、自分の影が落ちる。
 そう、この手から、いろいろなものが零れ落ち、なにが残っているのだろう。
 なにが……。

「マイナス思考なヤツだな」

 背後から声をかけられた。
 アニエスは、けれど昨日のようには驚かなかった。
 ゆっくりと振り向けば、走ってきたのだろうか、息の上がった人がそこにはいた。
「マイナス思考?」
 アニエスの目の前で、スーツ姿のままのイーシスが、どさり、とベンチに座った。
「おまえ、何をしている?」
「なに、とは?」
 天に向けていた手のひらを下ろして、その人を見返す。
「……いや、言いたくないなら言わなくていい」
「そういう……あなたのほうこそ」
「俺が、なんだ?」
「何をしている。こんなところで」
 静かにたずねれば、イーシスはなんとも言えない顔をした。
「おまえな……。窓からおまえが見えたからこうして走って来たんじゃないか」
「……。仕事の途中じゃなかったんだろうな」
「さすがにそんなときには飛んでは来ない」
「それはよかった」
 アニエスが答えると、なにがおかしかったのか、イーシスはくすくすと笑い出した。
 アニエスは表情をかえずに、けれど、なんだ、と横目で窺い見る。
 イーシスが立ち上がり、アニエスに近づいてきた。
 あまりに近づくのでアニエスは一歩下がる。
「おまえ、ここでなにをしている?」
「あなたには関係ない」
 きっぱり言い捨てる。
 イーシスは少し目を細めて、それでも、引かない。
「俺を待っていたんじゃないのか?」
「……なぜそうなるのかがわからない」
 アニエスがわずかに眉を曇らせると、イーシスは期待はずれだと、肩を落とした。
「違うのか」
「だから、なぜそうなるんだ?」
 どうやらなにか期待されているらしいとアニエスはようやく読み取って、尋ねる。
「昨日もここで会えたから、またここで会えるかもしれないと、そう思わないか」
 と、言われても。
 残念ながら、アニエスは、彼らの……イーシス含む四人の動向は常に把握しているので、そんな偶然に頼らなくとも、用があるならいつでも目の前に現れることができるのだが。
 無論、そんなこと、イーシスにはわからない。
 返事をしないアニエスに、イーシスはひとり、ちっと舌打ちした。
「アニエス」
 名を呼ばれる。
 そんな風にアニエスの名を呼ぶ人はいない。
 いや……ひとり、いるけれど。
 アーク・サリオン。遠い昔に出会った、大好きだった、幼馴染みも、そんなふうに名前を呼んでくれた。
 カルロスやサンドラが呼ぶのと何が違うのかわからないけれど、違ったように耳には届いた。
 なんだろう。
 アニエスはイーシスを見返して。
 イーシスの手が。

「……っ!」

 悲鳴を上げた。
 いや、声にはならなかったけれど、それはおそらく訓練の成果だ。
 びくりとイーシスの手が引っ込んだ。
「あ……」
 ほんの少し触れただけだろう片腕を、アニエスはもう一方の腕でかばうように抱えた。
「な……」
 イーシスが驚いたように見つめる。
 が、すぐに、落ち着いた顔に戻った。
「そういえば、前もそうだったな。俺に触れられるのがそんなに嫌なのか」
 静かに見下ろされる。アニエスを、観察するように。
「あ、の。すまない。イーシスだけが嫌いなんじゃない」
 じり、と下がって謝る。
 この態度を繰り返すのは相手に悪いとは思うのだが、どうしようもない。
 わかっている仲間たちは、けっして自分に触れようとはしない。
 だから……慣れることもないのかもしれないが。
 じっと、その儚い色の双眸で見つめられるのが責められているようで、アニエスは少し困惑する。
「嫌なら、やめるが。そんなことで嫌われるのも馬鹿らしい」
「嫌……そうだな、単純に、嫌なんだと思う」
 視線を泳がせて返事をする。
「他人事みたいだな」
「むかしからそうなんだ」
「ほう?」
 イーシスは、何も言わずに目線で先を促す。
「す、少しくらいは慣れたと思っているんだが」
「これでか? おまえの言う昔とはもっと酷かったのか。なにかあったのか?」
 軽く覗き込まれて、アニエスは思わず、口にした。

「あなたには関係ない」

 一瞬。
 イーシスが目を瞠る。
 そして悔しそうな顔をする。
 突き放して、背を向けて。そうしなければ、自分を守れなかった。
 今までも、これからも。そうやって生きていくしかない。
 それを、寂しいともつらいとも、思ってはいない。
 だからこれでいいのだ。
 いいのに。

「そうか」
 イーシスは、ロス・クライムの仲間たちとは、違う。
 彼のことなど、データの上でしか知らない。
 ほんの数回あっただけなのはお互いさまで、彼とてアニエスのことなんて何も知らないのに。
「俺に関係ないというのなら」
 なのに、どうしてアニエスを追いかけてくるのだ?
 こんなふうに、睨みつけてくるのだ?
「おまえの都合だって、俺には関係ないわけだ」
「……?」
 イーシスは冷たく吐き捨てると、あっという間に距離を詰め、アニエスに腕を伸ばした。
 反射的に逃げようとしたアニエスは、けれど叶わず、イーシスの腕に絡めとられる。
「…………っ!」
 なにが怖いのか。
 なにを恐れているのか。
 アニエス自身もよくわからないのだ。
 ただ、なぜか。
 怖くて、怖くて。
「アニエス?」
 耳の後ろのほうからイーシスの声がする。
 イーシスが、怖いのではない。
 怖いのはもっと、別のもの。
 自分を捕らえて離さないもの。
「……アニエス」
 何かを思い出しそうで、でも、思い出すまいとしている、自分の中の何かがある。
 抱きしめられている腕の力が少し緩んだ。
 もっと暴れるかと思われたのかもしれない。
 ただアニエスは、それどころでもなかっただけなのだが。
「どうした? 怖いなら、凍り付いていては解決にならんぞ」
 冗談か本気かわからないことを言う。
 不審に思ったのか腕がほどかれ、二人の間に空間が作られる。
「なんだ。本当に凍り付いているのか」
 覗きこまれても、おそらくアニエスはいつもとかわらず無表情なのだろう。
 日が傾いてきたのか、イーシスの薄い色の金髪がわずかにオレンジ色に染まっている。
 こんなに儚い色をしているのに、なのに少しも儚い印象を持たない人だ、と思った。
 強い人、というよりは……そうだ、まぶしい人なのだ。
 明るいというと意味が広くなりそうだが、輝いているような、光を放っているような。
 まるで、アニエスとは反対の。

「おい?」
 わずかも反応を見せなくなったアニエスに、イーシスが不安げな表情を浮かべる。
 はっとして視線を合わせる。
 目の前に迫っていたイーシスに、意識を戻す。
「あ……」

 そして。
 思わず。

「……アー、ク」

 不意に、その名が零れた。
 イーシスが、驚いた顔をした。
 なぜだろう。
 アークのことを思い出した。
 アークが呼んでくれる名前。
 アークが引いてくれる手。
 アークが向けてくれる笑顔。
 つ、と。
 熱が流れる。
 それでもアニエスは無表情のまま。
 驚きと困惑をその表情に浮かべたイーシスが、腕を放し、アニエスの頬に触れた。
 その指は、……怖くなかった。

「……この、ばか者」
 アニエスが知っている、アークではなく、イーシスの声が降ってきて、アニエスはぼんやりとその人を見上げる。
 そこにいるのは、アークではない。
 アークではない。
 目が合うと、イーシスはむすっと視線をそらした。
「そのタイミングで、ほかの男の名前を呼ぶんじゃない」
「…………え?」
 なにがだ?
 どういう意味だろう?
 ぽかんと見上げているアニエスに、けれどイーシスは答えはくれなかった。
 かわりにもう一度抱き寄せられる。
 その腕は、やはり、あまり怖くはなかった。
 オレンジ色だった世界はセピア色にかわっていく。
 けれどアニエスの瞳には、そのほうが世界が鮮やかに見えた。
 自分には、光はまぶしすぎるのだ。
 明るい光源には目を向けられないのだ。
 すこしくすんだ色のほうが、きっと自分には似合いなのだ。
「アニエス」

 大きな声ではないのに声が響いてくるのは、きっと耳元で呼ばれているからだ。
 それは真っ暗な海原を、高く冴え冴えと照らす月明かりのようだ。
 照らされて、闇でしかない自分は、けれど白い漣を立てる。

「イー、シス」

 答える言葉を見つけた。
 突然、彼の名を思い出したように。

「……イーシス」

 名を呼んだ。
 すとん、と心が落ち着いた。
 イーシスのことはデータでしか知らない。
 顔をあわせて会話を交わしたこともほんの数度だ。
 それでも、イーシスのことは知っている。
 今、自分にぬくもりを与えてくれているひとだ。
 はじめてなにかの数値が一致したかのように、突然方程式が解けたように、アニエスは覆われていた何かが一枚剥がれたのを感じた。
 ここは、自分の立っている場所だ、と、そんなふうに思った。
 足元を照らされているように、思った。