一歩、二歩。
下がれば彼女はぱっと身を翻した。
まるで、ここから逃げ出すように。
振り向かずに歩み去った。
多分、それでよかったのだろう。
イーシスは、彼女の姿が見えなくなるまで、ほんの十数秒だろう、ずっとその後姿を見送った。
けれど見えなくなるまで結局彼女は振り返らなかった。
こちらを気にする素振りすら見せなかった。
手を伸ばせば届くところにいたのに、自ら離してやった鳥はあっという間に飛び去ってしまった。
それを後悔しても仕方がない。
「……イーシス!」
聞きなれた声が名を呼んだ。
振り向かなくても、相手の顔も言いたいこともわかったけれど、イーシスはあえて振り向いた。
「なんだ」
「なんだじゃないだろう! アニーは!?」
冷静沈着で知れるアーク・サリオンだが、彼女のことになると決まって取り乱したようになる。
それだけやつの中で彼女が特別な存在だということだが、それがわかるだけに、複雑な気持ちになる。
それは、彼女……アニエスにしても同じらしい。
アークのことを話すときだけ、その名を口にするときだけ、彼女はまるで別人のような態度になる。
やはりアニエスの中でアークは特別らしい。
なのに、ならばなぜ、彼女はアークを避けるのか。逃げるのか。
忘れて欲しいなどと言うのか、わからなかった。
「ああ。あいつなら行ったぞ」
アニエスが消えたほうに目をやる。
もうその後姿はとうに見えなくなっている。
アークは怒ったような泣き出しそうな顔をして、イーシスに迫った。
「なん……! どうしてっ……!」
「ここへは仕事で来ていると行っていた」
「……! 仕事だって?」
そのとき後ろから仲間が二人、追いついてきた。
「仕事? ああ、彼女? うん、仕事があるからってさっきも言ってたよ」
アニエスがここにいると、言ったのはサラディだ。
それを聞いてイーシスはとりあえず走ってきたのだ。
アークも同様に聞いてすぐにやってきたのだろうが間に合わなかったというわけだ。
運のないやつだ。
「イーシス、追いついたの? ラッキーだったね」
悔しがってるアークのことなんて頓着せずに、サラディがさらっと言い放つ。
「まあな。つまりおまえはアンラッキーだったということさ、アーク」
アークの緑がかった青い瞳が恨めしげにこちらを見るが、俺は悪いことなんざ、しちゃいない。
イーシスがアークのために、彼女を引き止めておいてやる義理などないはずだ。
それに、彼女は、会おうと思えばいつだってアークに会える、そんな気がした。
彼女のことなんて何も知らないが、そうなのではないかとなんとなく思った。
「ふーん? 彼女……って女の子なのか。アークとイーシスの友だちか? 行政府の関係者?」
それまで話を聞いていただけだった背の高い仲間が言った。
東院所属の同期、グレン・グルードだ。
「……。いや、行政府の関係者ではない」
では何者なのか。
イーシスは知らなかったが、それだけ答えた。
アークはなにも言わなかった。
「ねね、それよかさ、ご飯にしようよ」
空気を読んでいるのかいないのか、サラディが話題を変える。
「そうだな、食事に行こう。このあとの予定を消化しないといけないからな。イーシス、アーク」
グレンが呼びかけると、じっと向こうを見つめていたアークが、無言で振り向いて歩き出す。
「アークのやつ、どうかしたのか?」
グレンがちらちらとアークを振り返りつつ、イーシスに耳打ちした。
「さあな。あいつの問題だから、俺たちではどうすることもできまい」
「? その友だちと、なにかあったのか?」
アークの様子がいつもとあまりにも違いすぎるからだろう、グレンがしつこく聞いてくる。
それは単に心配しているだけではあるのだが、そんなことにも気付かず、俯いたままのアークに、イーシスは腹が立った。
けれど怒りを口にする前に、サラディがグレンに言った。内緒話をするように耳元に向かって、でも、明らかに周囲に聞こえるように。
「心配してもダメだって。彼女ってのは、アークの初恋の人なんだよ」
一瞬、足が止まった。
が、すぐに気を取り直してイーシスは歩き出す。
まあ……そういうことなのかもしれない。が、今はまた別の関係だ。というか、接点すらなくてアークは落ち込んでいるわけだ。
そうだ、そういうことだ。
「なるほど」
グレンは特に驚いた顔をするでもなく、ひとり納得している。
「それじゃ僕たちにできることはなにもないね」
「そうそう。ひとりで悩んでもらうしか」
いいようにネタにされている……と、思うのだが、アークは聞こえているのかどうなのか、反応しなかった。
イーシスもなにも言わずに歩いていった。
港のある区画から出ると、目の前は繁華街だった。
地元の人間だけでなく、イーシスたちのような国外の人間もいるようだ。
土産品のような店も見られる。
「へえ。結構賑やかなんだね」
「第一印象はいいようになってるんだな」
通りに活気があると、印象はいい。この島国に上陸して最初に通る通りなのだから、ここが商業的にも外交的にも重要な場所なのはわかる。そして、それは成功しているといえる。
四人がとくに笑顔でもなく、いかにも視察といった風情で歩いていても、通りの人間は珍しがったり不審がったりしない。
おそらくこんな様子の外部の人間になれているのだろう。
通りを抜けると今度は交通だ。
街の中を循環するバスと、主要な場所へと移動できるモノレールが四方八方に延びている。
「えーと。宿舎があるのは……あっちだ。青い表示の二番」
地図をもったサラディが指差す。
地図ならアークも持っているが、目的地が同じなのでここはサラディにまかせているようだ。
エスカレータで四階分上昇し、乗り場のあるフロアに降り立つと目の前を、警備員が複数巡回していた。
制服であるといえる揃いのスーツを着ている四人の若者に、警備員は視線を寄越したが、それ以上の反応はなかった。
が、じっと見られていることだけはわかった。
入国する際にわたされた身分証明書は、こうした公共交通機関の乗車券にもなっていて、少し待ってから到着したモノレールに乗り込む際に、リーダーに通すと、名前まで表示された。
おそらくこれで人の動きを監視しているのだろう。
シスカティアは、ここ数年で急速に発展成長した国だ。
だからこそ新人研修という名目で、視察に送り込まれる。
そして確かに、ものめずらしいものがいろいろある。興味深い国ではある。
モノレールは早いスピードで街の上空を移動する。
もう少し下方を走っている別のモノレールに比べ、随分と速度が速いように思う。
目的が違うものなのだろうか。
あっという間に初めのステーションに着く。ここにはイーシスたちが宿泊し、拠点として使う宿舎があった。いくつかの国の同様の施設があるらしく、駅名は「アカデミア」、まさに研修施設の区画らしい。
モノレールから降りる際も、身分証明書をリーダーに通す。
フロアの一角にはカウンターがあり、そこで四人は自分たちの荷物を受け取った。
荷物のほうが先に着いていたようだ。
「えーと、宿舎は……」
サラディが地図を取り出して確認を始めたが、イーシスはそれを待たずに歩き出した。
「おい、行くぞ」
「え? ちょっと待ってよ」
「待つことはない。俺たちの宿舎なら、あそこに見えている」
イーシスは指差した。
到着フロアはやはり四階だったが、そこから全面ガラス張りの、やたらぴかぴかのスロープが隣接する建物に延びている。
その建物の壁に、見覚えのある、というか日々見慣れているシンボルマークが掲げられていた。
正方形でも菱形でもない、奇妙に歪んだ、けれど点対称になっている四角い建物のかたち。
国名の由来ともなっている、行政府の四角い形をかたどったエンブレム。
「あれ。本当だ」
スーツの襟にも飾られているそのマークを目指して、四人は歩き出す。
ガラス張りの廊下は真下以外は見渡せて、これは高所恐怖症の人間には恐ろしい場所なんだろうな、なんて考える。
もちろんイーシスは平気だ。
アークもグレンも感心したように見渡しているから同様だろう。
サラディに至っては、下を覗き込むようにしているから、ますます心配はいらない。
ふと。
あいつならどうなんだろうな、と思った。
あの、どんなときも動かない無表情な女は。
何が苦手なんだろう、と。
苦手なことのひとつくらいあるだろうと考えて……イーシスは、嫌なことを思い出した。
手を触れたときに、恐ろしく嫌悪されたことをだ。
あれはイーシスが嫌いだからという感じではなかったのが救いではあるが、少なからずショックではあった。
(なにが……)
苦手というよりすでに恐怖。
高いところが怖いとか、そんな範疇ではないように思う。
歩いてわたった先には、本国の行政府と同じ制服を着た事務員がいた。
たいしたことない手続きはアークに任せて、地上三階にあたるエントランス……ここもほぼ全面ガラス張りで、ここからなにげなく外を眺める。
この場所からだと正面にはモノレールの駅があった建物がそびえいる。
利用したのは四階だが、三階にも同様の駅のようなスペースがあり、その下は……。
(……な、なに?)
イーシスは思わず目を疑った。
二階といえばここからはひとつ下のフロアだ。
向こうからここは覗けまい。
その二階もやはり全面ガラス張りで、けれど中にはあまり人がいる様子はない。
ただ。
ひとりだけ。
光の反射でよくは見えないが、窓際に立って、あの空中の渡し通路を見上げている人物がいた。
小柄で、髪が長い……女のようだ。
(まさか……?)
いや、髪が長い女など、いくらでもいるだろう。
彼女はそんなに珍しい姿をしているわけではない。
「イーシス、行くぞ」
手続きを終えた同期が背中に声をかける。
「あ、ああ……」
もう一度そのシルエットを見ようと窓から覗き込んだが、そのにはもうその姿はなかった。
(いない)
残念なような、安堵するような、不安定な気持ちで、荷物に手を伸ばして同期を追いかける。
(まさか……だが、仕事だと、言った)
ここは「アカデミア」、研修施設の区画だ。
彼女の所属する組織の施設が、ないとは言い切れない。
なにせ、本国では自分たちとは同じ建物内で見かけるような組織なのだから。
(あいつは……何者、なんだ?)
彼女が答えようとしなかったその疑問を、こんなにも強く覚えたのは、多分今が初めてだと思った。