12. The Port. 

 アニエスは数時間閉じ込められていたヘリが、やっと陸地へと下りたのを感じて、こころなしかほっとした気持ちになった。
 いつも利用しているルートなので、慣れているといえば慣れていたが、それでも狭いヘリの中は多少息苦しかった。
 着陸してまもなくハッチは開かれ、乗り込んでいたたった三人の人間が、ヘリから降りる。
 いつもなら、この三人はアニエスのほかにカルロスとサンドラなのだが、今日は違った。
 所属も任務もばらばらな、互いの名前さえ知らないような三人。
 共通しているのは、ダークグレーのロス・クライムのスーツを着用していることだけだった。

 ヘリを降りるとそこから歩いて目の前の桟橋に向かう。
 ボートよりは大きいが、船と呼ぶには小型の、でもまあ一応小型船舶に入るのだろう、移動の船に乗り込む。
 そこから数分の航海で、目的地の本土だ。
 ここは、ヘリポートのためだけにある人工島。
 ロス・クライムの基地のひとつだ。
 そして本土とは、彼らの所属する本国ではない。
 外交国、あるいは、場合によっては対立国。
 アニエスが、一年の半分から三分の一を過ごす、任務先でもあった。

 東方の島国、シスカティア。

 それがこの国の名だ。



 シスカティアに入って、二日目。
 この国にはロス・クライムの人間も大勢いるはずだが、彼らは集団では行動しない。
 また、本拠地たる場所は「アカデミア」と呼ばれる地域に構えてあるが、そこに常時詰めていることはあまりなかった。
 一般市民のように個別の部屋を持ち、普通に街で買い物し、バスに乗って移動した。
 アニエスも、「自分の部屋」と呼んでいる住居マンションの一室から、派手ではないスーツを着て、コンピュータ端末の入ったかばんを提げて、地域住民が一般的に利用する循環バスの乗り場にやってきた。
 少し待つとバスはやってきて、当然身分証明など確認せずにアニエスを乗せ、走り出す。
 時間帯のせいだろう、空いた車内のシートにすわり、ぼーっと外を眺める。
 見慣れた町並みだ。
 もうこの道も通いなれている。

 いくつか目の停留所で降りる。
 そこは人の多い繁華街。
 買い物客の間を歩くスーツ姿のアニエスは、けれど意外と目立ってはいなかった。
 スーツ姿の人間も、多く見られるからだ。
 歩いて向かっている先にあるのは、シスカティアで最も大きく、そして唯一の、他国との連絡線がはいる港だ。
 名称はあるのだがあまり親しまれておらず、港といえばこの場所を指した。
 潮風の香りがする臨海のビル内を歩きながら、もっとも警備が強化されているところに目をやる。
 左目にはいろいろな情報が見えるが、今はどれも、関係ない。
 このビルの三階に、港と船と、そして海が一望できるといううたい文句のカフェレストがある。
 待ち合わせや時間つぶしに客はそこそこ多い場所だ。
 が、観光に利用するには味気ない場所でもあった。
 アニエスは時折ここを利用する。
 目的は、船の監視だ。
 警備のために入れない場所が、ここからは見下ろせるからだ。
 時刻は昼前だったが、客はあまり多くなく、目当ての窓際の席に陣取って、ただコーヒーだけを注文する。
 真っ黒なコーヒーが運ばれてきて、時間が経っても、アニエスが待つものは訪れなかった。
 定期連絡線がそろそろ入港する予定で、折り返しの便に乗船する場合の荷物検査はとうに始まっているのに、肝心の船はまだ現れなかった。
 まつことしばらく。
 予定入港時間より20分も遅れて船は現れる。
 気をもむほどではないが、少し待ちくたびれた感はあった。
 アニエスは船を見下ろす。
 出港時間が20分ほど遅れていたという情報は確認していたので、問題はないのだろうと思った。
 実際、眼下ではさほど大掛かりな点検もなく、船は乗客を吐き出し始める。
 降りてきた客には、スーツ姿の者が大半を占めていた。
 乗船リストによると、行政府関係が三分の一、両国の技術関係と軍関係が残りのほとんどで、民間人はごく一部のようだった。
 そんな船から、スーツは着ているものの、まだ少年と呼んでもよさそうな若い一団は、見つけることに苦労なかった。

(アークとイーシス、それにサラディ・マクスウェルと……あれがもうひとり、か)
 たったの四人。
 初老の男に挨拶などしているが、行動をともにするつもりはないらしく、四人はひとかたまりになって歩いている。
 身分をあらわすグレーのスーツ。
 所属をあらわす「付け襟」。
 うち二人は西院の青いカラーで、残りの二人は東院のグリーンカラーだ。
 毎年ここに訪れる新人だが、いつもは二人ずつ別行動をとっているのが通例だ。
 四人一緒に歩いているのは、おそらくアニエスが監視任務に入って以来初めてだし、それ以前もなかったことだろう、と思う。
(ということは、あのもうひとりもアークたちの仲間なのか?)
 西と東はいがみ合っている。
 とくに東は西のことがとにかく嫌いらしい。
 新人にはそんな伝統、どうでもいいかもしれないが、やはり自分が所属する空気には馴染んでおくのが賢明だ。
 が、彼らはそうではないということか。
 四人が視界の中から消える。
 港を出たのだろう。
 毎年恒例行事のようなもので、新人はこの時期揃ってシスカティアに研修の名目で見学にくる。
 かならず揃ってなのは、仲がいくら悪くても、経費やほかの日程が組めないからだろう。
 そして外交上もっとも重要なこの国をその目で直にみることの必要性を、どちらの院もよくわかっているからだろう。
 アニエスごときに国政もなにもわからないのだが、どうして考えている方向は同じなのに仲が悪いのか、貴族院と言うヤツはよくわからない。

 船の入港が遅れたために、居座る時間が長くなった。
 店は昼食時を迎えて、少し客が増えてきたようだ。
 窓際の良い席を、コーヒー一杯で長く占拠していたアニエスは、そろそろ退散しようかと腰を浮かせかけて。

「あれ?」

 なんでもない声が、なぜか耳に大きく聞こえた。
 この街には確かに同胞は多いが、ロス・クライムの仲間なら、見かけても用がなければ声などかけない。
 それにアニエスは、知り合いもそんなに多くはない。
 潜伏部隊なのだから、当然と言えば当然なのだが……。
「ねえ、キミってば、アークのともだち?」
 かけられた言葉は決定的で、ある意味、絶望的だった。

 機械のように首をめぐらす。
 無表情のまま声の主を見返す。
 その視線の熱のなさに、彼は一瞬身をすくめたが、アニエスの顔を確認するや、にかっと無邪気に笑って見せた。
「ああ、やっぱり。そうだよね? 俺、わかる? サラディ」
 姓まで名乗らないのは安全のためである。
 さっきまでアニエスが眼下に確認していたグレーのスーツを着た新人議員が、ひとりそこに立っていた。
「…………」
 アニエスは返す言葉がなかった。
 確かに、それは確かに、ここは港のカフェレストではある。
 今は昼食時だし。
 けれど、なぜ……。
「アークとイーシスも一緒にいるよ? ねえ、呼んできてもいい?」
「いや、待て」
 アニエスの答えなど聞かずにきびすを返そうとした男を、アニエスは急いで呼び止めた。
「呼ばなくていい。わたしはもう帰る」
「あれ、お昼もう食べちゃった?」
 立ち上がったはいいが、サラディ・マックスウェルと一緒にいると、目立ってしょうがない。
 アニエスは少し困った。
 アークたちは近くにいるのだろう。
 接触して困ることはないが、あまり嬉しい話でもなかった。
 なぜならアニエスは、今、監視任務にあるのだから。
 『新人議員四人』の。
 監視対象と接触するのは、違反ではないが、必要なければ進んで行うことではない。
 けれど。
「いいじゃん。俺たちこれから食事にしようと思ってさ。
 あ、ていうか、ここ、シスカティアなんだよね。キミも仕事?
 俺たち今着いたんだけど、船が遅れちゃってさ。まあ困ることもないけどちょっとだけ予定がずれちゃったんだよね?」
 ぺらぺらとよく喋る、とアニエスは思った。
 よく喋る相手はこちらが返事をしなくていい分ラクではあるのだが。
「いや、まあ……。仕事だ。だからもう行かなくては」
「そっかあ。じゃあ、また会えるといいね!」
 そう言って。
 軽く手を振るしぐさを見せた。
 アニエスは困惑する。
 なぜ、彼は自分に対してこんな態度をとるのだろう。
 アークやイーシスは、自分のことをなにか言ったのだろうか。
 なんと、言ったのだろうか……?
 友好的な態度のサラディとは裏腹に、アニエスは挨拶などせずに無言で早足にその場を離れる。
 おかしな人だ、と思った。
 が、ただの、普通のいい人なのかもしれない、とも思った。
 けれど。

 …………怖かった。

 店からだいぶ離れて、ふうっと大きく息を吐く。
 顔は相変わらず無表情だが、見慣れている者が見れば、多少青ざめているのがわかったかもしれない。
 アニエスは、人と接触するのが怖かった。
 そっと深呼吸する。
 とりあえずサラディから逃げ出せた。
 しつこくない人でよかった。
 気持ちを静めてアニエスは歩き出そうとする。
 今日のこのあとの予定は……。

「アニエスっ!」

 文字通り。
 心臓がはねた。

 ぎょっとして振り返る。
 周囲の人もなんだろうと視線を向けてくる。
 振り返った先には、予想するまでもなく、その人がいた。
 せっかく沈めた動悸が再び跳ね上がった。
「イー……」
「待てっ! このばか者がっ!」
「な……?」
 わけがわからず立ち尽くす。
 なにを言っているんだ、この人は?
 けれど逆に周囲の人は興味を失ったように、もとの流れが動き出す。
 アニエスは地味目なスーツを着ていて、イーシスとは年が近いから、二人は同僚に見えたのかもしれない。
 アニエスはイーシスを見返して、それから肩越しにその後ろに目をやった。
 が、誰も追いかけてくる様子はないようだ。
 イーシスが手で、アニエスを壁際に追いやる。
「な……あの……」
 どこかむっとしたイーシスは目の前にいるのに、アニエスとは視線を合わせなかった。
「おまえ、いつからこっちにいるんだ」
「え?」
 何を言い出すのかと思えば。
 アニエスはイーシスを見上げた。
「そんなこと、あなたには関係ないだろう?」
「ああ、ないさ。おまえが仕事でどこに行こうと、俺には関係ないだろうさ」
 怒ったように吐き捨てる。
 いや、怒っているのかもしれない。
 だが何に?
 彼に会ったのは……あの日。アークを探しにいった、あの日が最後だ。
 数えてみればたったの三回。
 これで、四回目ということになる。
 イーシスと顔をあわせるのは。
「あの後、アークのやつは普通の顔して戻って来た。
 あいつの移動記録をおまえ、いじったんだろう?
 なにか言ってくるんじゃないかと、俺もあいつも待っていたのに、おまえはちっとも姿を見せない。
 どこで何をしているのか、わからなくて苛々した」
 イーシスが吐き捨てた。
 何を思っているのかわからなくて、アニエスは困惑したまま答える。
「……それは。わざわざ伝えることなんて、なにもなかった」
「おまえはそうなんだろうな」
 それまで調子とはかわって、ぽつりと言われた。
 なんだろう、と思った。
 イーシスは、何を言おうとしているのだろう?
 アニエスが答えられないでいると、イーシスも押し黙った。
 が、先に口を開いたのは、やはりイーシスだった。
「おまえ、仕事で来ているのか?」
 まるで事務的に喋るイーシスに、アニエスは黙ってこくんとひとつ頷いた。
「そうか。いつまで……いや、まだしばらくこっちにいるのか」
 言葉を選んで、アニエスがイエスかノーで答えられる問いを投げかける。
 再び頷いたアニエスに、イーシスは少しの間考える顔をして。
「また会うことがあると思うか?」
 あいまいなことを言った。
 アニエスはイエスもノーも言えずに無表情のまま答えなかった。
 イーシスは少し息を吐くと質問を変えた。
「もし見かけたら……声をかけてもいいか?」
 答えは否か諾かしかないのに、アニエスは答えられなかった。
 どちらともいえたし、どちらともいえなかった。
 表情を変えず、頷きもしなくなったアニエスに、イーシスはけれど小さな溜息をついて、それから……少しだけ微笑んだ。
 アニエスは、人から見れば無表情のままだったが、僅かに驚いた。
「呼び止めて悪かったな」
 言うと、アニエスから離れた。
 驚いたが……アニエスはすぐに踵を返した。
 振り返りもせずにその場を離れた。
 イーシスは当然追いかけてなんて来なかった。
 ただ、離れても、その視線だけが追いかけてくるようで、アニエスはひたすら、その場から遠ざかろうと足を動かした。
 イーシスのことは怖くはなかったが、それでもやはり何かが、怖かった。
 けれど、欠落している表情に、その気持ちは表れなどしていなかった。