11. Dear. 1 

 薄暗いその屋根裏は、目印があるのかどうかもわからず、
 ただ、アークはアニエスの後を追って走るのみだった。

「……アニー!」

 名を、呼んでも。
 アニエスは応えない。

 まるで聞こえないように、ただ走っている。
 あの場所から、西院のアークが本来いる場所まで、直線距離にしても結構ある。
 なにせ、この広い行政府の、ほぼ対角線上の両端にあたるのだから。

「アニー、ちょっと!」
 意外なほど早く走る幼馴染みの少女に、アークは追いついて手を伸ばす。
「……もうすぐだから、走って」
 けれどアニエスはアークを見もせずに答える。
 そして言葉どおり、間もなくアニエスがその速度を緩めた。
 緩めたといってもそれは急に止まったのとほぼ変わらず、アークはたたらを踏んで引き返す。
 
 アニエスは、その場所に座っていた。
 床を覗き込むようにしている。
「アニエス?」
「静かに」
 アークの耳にはなにも聞こえないが、アニエスは何かに耳を澄ましている。
 暗がりの中でもその真剣な眼差しが見て取れて、アークは並んで腰を屈め、彼女の様子を窺った。

「……この下は、あなたたちの控え室なのだけど」
 ぽつり、とアニエスが言った。
「人が、いる」
「イーシスじゃないのか?」
 まだ新人の彼らには、個別の部屋は与えられていない。
 それでもアークたちは優遇されているほうで、アークとイーシス、ふたりで控え室を与えられている。
「イーシス・ハージェもいるが、そうじゃない、人が」
 アニエスがそっと耳に手を当てる。
 彼女はそれで、この床の下の会話が聞こえるのだろうか。
 アークは耳を澄ましても、まったく音など聞こえない。

 様子を窺っていたアニエスが、ほんのかすかに息を吐いた。
 溜息か、あるいは舌打ちしたような雰囲気だ。
「……なに?」
 アークがたずねれば、アニエスはすっと立ち上がった。

「勘がいいな。どこの手のものだろう」
 そして憤然と呟く。
 アークも立ち上がってアニエスに並ぶ。
「アーク・サリオンの居場所を探している連中がいるぞ」
 アニエスが、低い声で冷たく言い放った。
 その様子にアークは面食らう。
「アニー?」
 けれどアニエスはアークのことには構わず、腕組みして考える顔をした。
「記録がないことは明らかだ。ならば……あと弄れるのは外出記録だな。だが今すぐでは時間がない」
 そして、きっ、とアークを振り返った。

「あなたはプライベートな友人に会うために行政府を出ていた。
 そしてたった今、戻ってきたところだ」

 突然、告げられた内容は……つまり、そういうことにしろ、と?
「イーシスは、アークの行き先は知らないが、もうすぐ来るはずだと言っている」
 そして歩き出す。
「だからあなたは外から帰ってきて、自分たちの部屋に戻る」
 数メートル離れた場所に、アニエスは再び膝をつく。
 そして床の下を窺う。
 まるで、透けて見えているかのように、周囲に目を凝らす。
 アークは追いかけて隣に並ぶが、何をしているのかわからない。

「熱量反応なし。ここなら大丈夫だ」

 アークを振り返る。
「ここから降りて……」

 けれど、アニエスの言葉はそこで遮られた。
「…………アー、ク」
 アニエスが、アークの名を呼んだ。
 その声が耳元をくすぐる。
 あまり……温かくない体温が、存在を主張しまいとしているようで、アークは腕に力を込めた。
 腕の中に包み込んだアニエスをぎゅっと抱きしめた。

「アニー……アニエス」

 名を呼んで、抱きしめても、腕の中の幼馴染みは反応しなかった。
 ほんの少しの間の後、わずかに胸を押す力を感じる。
「アーク。時間がない。今はそんな……」
「俺は今までずっと君を探していたんだ」
「アーク、あなたは早く……」
「帰って来てくれ、アニー!」

「アーク!」

 強く、押された。
 腕の中から、アニエスが手を突っ張った。
「わたしは!」
 きっ、と見上げてくるアニエスは、その黒い髪も、深い青の瞳も、アークの知っている昔のままだったけれど、
「あなたの知っているアニエスはもういない!」
 その視線の強さは、
「そんなことないさ! 君は君だろう!」
「違う!」

 ……違う。

 よく笑って、でも泣き虫だった、アークの知っているアニエスとは、確かに違った。

「……どうして?」
「もうアニーはいないのよ。だから! 早く! もう行って!」

 アニエスの言っていることはわかる。
 早く自分は戻らなければ。
 せっかく彼女がここまで連れてきてくれたのに。
 イーシスのところにいる連中というのも、
 そして東に残してきたサラディのことも、気になる。
 でも。
 もっと。
 この、目の前にいるのに届かない、この友人をどうしろというのだ。

「アニー」
 逃げ出すように離れていった幼馴染みの少女に再び手を伸ばす。
「や、やめて」
 後退るアニエスを、けれどアークは急いで捕まえる。
 そうだ、時間がないのだ。
「聞いて、アニエス。ちょっとだけ」
 腕を掴んで引き寄せる。
 再びこの腕で抱きしめる。

「あのときは、ごめん。ずっと探していたのはね、それを、謝りたかったんだ」

 たった六つだった子どもたち。
 あのころのアークは、どうしてアニエスがいなくなったのか全然わからなくて、
 ただ、寂しくて、ただ、帰ってきてほしかった。
 少し大人になって、まったく足取りのつかめないアニエスはどうして自分の前からいなくなったのだろうと、
 それを考えるようになった。
 そして辿り着いたのが……アニエスは、自分たちの申し出が嫌だったのではないか、ということだ。
 気づいたとき、それまで気づけなかった自分の愚かさに嫌気がした。
 それでも、アニエスを探すことは諦めていなかった。
 会ったら、謝ろうと思っていた。

 なのに。
 謝る前に帰ってきてほしいなんて言った自分は、やはり愚かだとしか言いようがない。

「アークが」
 ぽつり、と腕の中の少女が呟いた。
「謝ることなんて、ないよ」
 腕を緩めてアニエスを覗き込む。
「ただ、わたしは選んだだけだから」
「俺の前からいなくなることを?」
「……それは、そういう結果だけど。違う。わたしは、今のこの場所にいることを選んだの」
「今、君が居る場所って?」
 けれどそれにはアニエスは首を振る。
「ごめんなさい。それは言えない。でも」
 アークは手を緩めた。
 アニエスは、アークを見返すことなく、まるで自分に言い聞かすように呟く。
「アークが謝ることなんてなにもない」
「アニー……」
「わたしはずっと、ずっとアークのことを知っているわ」
「え?」

 アニエスが顔を上げた。
 そして、ふわり、と微笑んだ。
 それはアニエスが初めて見せる笑顔だと、アークは気づく。
 今まで、アニーは一度も笑っていなかった。

「養成塾の成績、最後はトップになるかと思ったけど、残念だったね」

 突然そんなことを言った。
 アークは、驚いた。
 そんなもの、部外者には一切知らされていない情報だ。
 養成塾の成績は……いつも競っていたライバルともいえるイーシスと、僅差で二番で終わったのだ。
 そんなこと、関係者と当事者以外、知らないはずなのに。

「わたしはずっとあなたを見ている。
 だから。だけど。
 あなたのいるところへ帰るつもりはないわ」

 そしてアニエスは、アークの腕からすり抜けた。
 床に取り付いて、次の瞬間、その一部がくるり、と回った。

「さあ、行って」
 アークは大股でそこへと近づく。
 アニエスの隣に屈んでその手を握る。
「また会える?」
「早く……」
「また、会える?」
 
 なにが、欲しいのだろう。
 なにを、求めている?

「ええ……きっと」
 どこか、諦めたように呟くアニエスに、アークは顔を近づけると、その頬に触れるだけのキスをして。

 身を翻した。

 アニエスを残して。
 自分は戻っていく。
 自分が、いるべき場所へ。

 アニエスが。
 どこにいるのかなんて、今の自分にはわからないけれど。

 ただひとつ言えるのは。
 これ以上彼女を、傷つけることだけはしたくない。
 ただ、それだけだった。