アラートが、鳴り響いた。
何事かと思った次の瞬間、足元にかすかな振動を感じた。
イーシス・ハージェは一人で、その部屋にいた。
同僚はいま出払っている。
なんだ、と思っても、答えは得られない。
コンピュータ端末で、行政府内の情報を得るためのチャンネルを開けば、東院で緊急事態、ということしか発表がない。
(緊急事態とはなんだ?)
仲間を心配するなんてガラではないが、東院には知り合いもいる。
だが、仲の悪い西院と東院の普段の体制が原因で、互いの情報交換は容易く出来る状況にはなかった。
(何が起こった? さっきの振動は……?)
そう、思っていたときだった。
かすかに、それが聞こえた。
自分の名を呼ぶ、声が。
「ハージェ……、い、イーシス」
誰もいないし、何の音もないこの部屋でさえ、耳を澄まさなければ聞こえない、小さな声。
でも、気づいた。
イーシスは咄嗟に天井を見上げる。
どこに、いる?
「……アニエス!?」
名を呼ぶ。
それ以外、考えられない。
少しの間の後、部屋の隅の天井がくるりと回って、黒髪の少女が飛び降りてきた。
思えば、この三メートル近い天井から、難なく飛び降りるというのも、おかしなことだが、今はそれを追及しているときではないらしい。
着地したアニエスはたいした衝撃もないらしく、すっと真っ直ぐ立ち上がった。
「アニエス、おまえ……」
「アークはどこにいる?」
イーシスの言葉など無視して、あるいはこちらのことなど問題ではないような顔をして、アニエスはただ、そう言った。
「アーク、だと」
「あなたなら知っていると思って来た。アークはどこにいる?」
「……聞いてどうする」
イーシスは少女を見つめた。
相変わらずの無表情……否、その深い青い眸は、こちらをじっと見つめている。
けれどそれは、イーシスを見ているのではない。
イーシスが知っている事実を、探ろうとしているだけのこと。
アークの居場所を探している。
アニエスが見ているのは、やはり、自分ではない。
それがわかるから……イーシスは苛立った。
「答え如何だ。アークが……いない」
呟くように、独りごちるように。
アニエスの視線がイーシスから逸れた。
すうっとその色が冷めていく。
「アニエス」
思わず名を呼ぶ。
大股で近づく。
もうこの少女は自分を見ていない。
「……邪魔をした」
漆黒の髪が踵を返した。
もう用はないと、背中が語っていた。
イーシスは手を伸ばす。
「……待て!」
けれどその言葉に応えるように、アニエスは少し、首を振った。
「すまぬが、あまり時間がない。わたしはアークを探さなくては」
「あいつなら!」
一歩アニエスに近づく。
イーシスの言葉に、わずかにアニエスが振り向く。
半分しか見えない顔が、無表情のままの顔が、イーシスを物のように見る。
そこにあるデータが有効か、自分にとって有益か。
まるで、そんな。
「あいつなら……」
それでも。
彼女が今欲しているらしい情報を持っているなら、自分は、彼女の深淵のような眸に映ることができるだろうか。
「東にいる」
「東院の二階か」
皆まで言う前に、アニエスが答えを先回りした。
どうして知っているのかと。
いや、知っているならなぜわざわざ聞きに来たのかと。
疑問に思うが。
「わかった。ありがとう。確証がとれた」
そしてそのまま歩き出そうとする彼女を。
「待て!」
イーシスは手を伸ばして……捕まえた。
彼女の腕を掴む。
が、一瞬後。
「は、離せっ!」
それまでとは音量が倍くらいの声で激しく振り払われた。
それで、思い出す。
そういえば最初に会ったときも、同じような態度を取られた。
ぎり、と睨みつけてくる表情は、そんな顔でも、無表情よりはわかりやすくていいと思ってしまう。
つい離してしまった手を、けれどイーシスは再び伸ばしてアニエスを掴んだ。
「嫌だ」
「やめ……っ」
アニエスはもがくが、彼女の力ではイーシスを振りほどくことなど出来なかった。
「どうしてそんなに嫌がる?」
手を、握っているだけだ。
確かに最初は驚くかもしれない。
けれど、アニエスの様子はむしろ嫌悪に近い印象を受けた。
こいつは、何をおそれているのだろう?
「いいから離せ! わたしに触れるな!」
必死に叫ぶ。
怒りというよりは、青ざめた表情で。
こいつは、何をおそれている?
「アークの居場所を知っている。だが、どうしておまえはやつを探している?」
手を離さずに問いかける。
途端にアニエスの眸が揺れる。
こんなにはっきりと動揺を表したのは、多分初めてだ。
「アーク……」
やつの名を呟く。
視線が天井に向けられる。
「行かないと……」
「何故? やつは行政府内にいるぞ。なにか不都合があるのか?」
「行かないと」
「聞いているか、おまえ」
すると、ぎ、と強い視線で彼女が振り返った。
「ではなぜ、アークは東にいるんだ。西の人間が東に」
その視線は確かに自分を見ていて、イーシスは思わずにやりと笑った。
「東の友人のところに行っている」
「友人?」
アニエスが、イーシスを見る。
その眸に自分の姿が映っているのがわかる。
「そうだ。おまえも前、会っただろう? サラディのところに行ってるんだ」
「……サラディ?」
アニエスが、不思議そうな顔をした。
知っているのかと思ったら、こいつはサラディのことは知らないのか。
あいつが東の人間だからか?
「……そうだ。最初のとき。俺たちは三人いただろう?
俺と、アークと、サラディ。サラディ・マクスウェル」
そこで軽く目を瞬かせた。
マクスウェルという名の議員が、東院にいることを知っているのかもしれない。
「……ともだち?」
「ああ、そうだな」
まるで友人という言葉の意味を知らないとでも言うように。
無表情が、不思議そうに呟く。
「では二人とも東院の二階にいるのか?」
「そのはずだ」
イーシスの答えを聞くと、アニエスは踵を返そうとした。
が、イーシスが手を握ったままだったので、それは叶わなかった。
驚いたアニエスが自らの手を見下ろす。
「……離せ。わたしは二人を助けに行かなくては」
「助ける? どういうことだ?」
覗き込めば、深い青の双眸が見返した。
「狙われているんだ、どちらかが」
物騒なことをさらりと言った。
「狙われている、だと?」
イーシスが驚きを露わにすると、アニエスはもう一度手を見下ろし、かすかに溜息をついた。
「一緒にいただろう? タイマー・ボムが……時限爆弾が仕掛けられていた現場に。
一緒にいたのは、誰だ?」
アニエスの、もう一方の手が、アニエスを掴んでいるイーシスの手に触れた。
彼女の体温は……とても、低い。
触れると冷たい、と思う。
その手が、そっと、イーシスの手を解いた。
解くと同時にアニエスは今度こそ踵を返した。
何かを操作したのか、天井からロープ状の何かが降りてくる。
今日はそれが見えた。
「狙われているだと? 誰に? なぜ?」
早口にまくし立てる。
それは一体、どういうことだ?
けれどアニエスは静かに首を振る。
「わからない。でも……たった今、一つだけわかった」
ロープに足をかける。
長い黒髪がかすかに振り返る。
「狙われているのは、サラディ・マクスウェルだ」
言い残して。
アニエスの姿が消えた。
慌てて見上げても、もう、天井すらもとのように戻っている。
「サラディが、狙われている、だと……?」
幻が残した言葉の意味を掴みきれず、イーシスは呆然と呟いた。