9. Warning. 〜White 

 アラートが、鳴り響いた。

 何事かと思った次の瞬間、足元にかすかな振動を感じた。
 イーシス・ハージェは一人で、その部屋にいた。
 同僚はいま出払っている。
 なんだ、と思っても、答えは得られない。
 コンピュータ端末で、行政府内の情報を得るためのチャンネルを開けば、東院で緊急事態、ということしか発表がない。
(緊急事態とはなんだ?)
 仲間を心配するなんてガラではないが、東院には知り合いもいる。
 だが、仲の悪い西院と東院の普段の体制が原因で、互いの情報交換は容易く出来る状況にはなかった。
(何が起こった? さっきの振動は……?)

 そう、思っていたときだった。

 かすかに、それが聞こえた。
 自分の名を呼ぶ、声が。

「ハージェ……、い、イーシス」

 誰もいないし、何の音もないこの部屋でさえ、耳を澄まさなければ聞こえない、小さな声。
 でも、気づいた。
 イーシスは咄嗟に天井を見上げる。
 どこに、いる?

「……アニエス!?」

 名を呼ぶ。
 それ以外、考えられない。

 少しの間の後、部屋の隅の天井がくるりと回って、黒髪の少女が飛び降りてきた。
 思えば、この三メートル近い天井から、難なく飛び降りるというのも、おかしなことだが、今はそれを追及しているときではないらしい。

 着地したアニエスはたいした衝撃もないらしく、すっと真っ直ぐ立ち上がった。
「アニエス、おまえ……」

「アークはどこにいる?」

 イーシスの言葉など無視して、あるいはこちらのことなど問題ではないような顔をして、アニエスはただ、そう言った。
「アーク、だと」
「あなたなら知っていると思って来た。アークはどこにいる?」
「……聞いてどうする」

 イーシスは少女を見つめた。
 相変わらずの無表情……否、その深い青い眸は、こちらをじっと見つめている。
 けれどそれは、イーシスを見ているのではない。
 イーシスが知っている事実を、探ろうとしているだけのこと。
 アークの居場所を探している。
 アニエスが見ているのは、やはり、自分ではない。
 それがわかるから……イーシスは苛立った。

「答え如何だ。アークが……いない」

 呟くように、独りごちるように。
 アニエスの視線がイーシスから逸れた。
 すうっとその色が冷めていく。
「アニエス」
 思わず名を呼ぶ。
 大股で近づく。
 もうこの少女は自分を見ていない。

「……邪魔をした」

 漆黒の髪が踵を返した。
 もう用はないと、背中が語っていた。

 イーシスは手を伸ばす。

「……待て!」

 けれどその言葉に応えるように、アニエスは少し、首を振った。
「すまぬが、あまり時間がない。わたしはアークを探さなくては」
「あいつなら!」
 一歩アニエスに近づく。
 イーシスの言葉に、わずかにアニエスが振り向く。
 半分しか見えない顔が、無表情のままの顔が、イーシスを物のように見る。
 そこにあるデータが有効か、自分にとって有益か。
 まるで、そんな。

「あいつなら……」

 それでも。
 彼女が今欲しているらしい情報を持っているなら、自分は、彼女の深淵のような眸に映ることができるだろうか。

「東にいる」

「東院の二階か」
 皆まで言う前に、アニエスが答えを先回りした。
 どうして知っているのかと。
 いや、知っているならなぜわざわざ聞きに来たのかと。
 疑問に思うが。
「わかった。ありがとう。確証がとれた」
 そしてそのまま歩き出そうとする彼女を。

「待て!」

 イーシスは手を伸ばして……捕まえた。
 彼女の腕を掴む。
 が、一瞬後。

「は、離せっ!」

 それまでとは音量が倍くらいの声で激しく振り払われた。
 それで、思い出す。
 そういえば最初に会ったときも、同じような態度を取られた。
 ぎり、と睨みつけてくる表情は、そんな顔でも、無表情よりはわかりやすくていいと思ってしまう。
 つい離してしまった手を、けれどイーシスは再び伸ばしてアニエスを掴んだ。

「嫌だ」
「やめ……っ」

 アニエスはもがくが、彼女の力ではイーシスを振りほどくことなど出来なかった。
「どうしてそんなに嫌がる?」
 手を、握っているだけだ。
 確かに最初は驚くかもしれない。
 けれど、アニエスの様子はむしろ嫌悪に近い印象を受けた。
 こいつは、何をおそれているのだろう?

「いいから離せ! わたしに触れるな!」

 必死に叫ぶ。
 怒りというよりは、青ざめた表情で。
 こいつは、何をおそれている?

「アークの居場所を知っている。だが、どうしておまえはやつを探している?」

 手を離さずに問いかける。
 途端にアニエスの眸が揺れる。
 こんなにはっきりと動揺を表したのは、多分初めてだ。

「アーク……」

 やつの名を呟く。
 視線が天井に向けられる。
「行かないと……」
「何故? やつは行政府内にいるぞ。なにか不都合があるのか?」
「行かないと」
「聞いているか、おまえ」
 すると、ぎ、と強い視線で彼女が振り返った。
「ではなぜ、アークは東にいるんだ。西の人間が東に」
 その視線は確かに自分を見ていて、イーシスは思わずにやりと笑った。
「東の友人のところに行っている」
「友人?」
 アニエスが、イーシスを見る。
 その眸に自分の姿が映っているのがわかる。
「そうだ。おまえも前、会っただろう? サラディのところに行ってるんだ」
「……サラディ?」
 アニエスが、不思議そうな顔をした。
 知っているのかと思ったら、こいつはサラディのことは知らないのか。
 あいつが東の人間だからか?
「……そうだ。最初のとき。俺たちは三人いただろう?
 俺と、アークと、サラディ。サラディ・マクスウェル」

 そこで軽く目を瞬かせた。
 マクスウェルという名の議員が、東院にいることを知っているのかもしれない。
「……ともだち?」
「ああ、そうだな」
 まるで友人という言葉の意味を知らないとでも言うように。
 無表情が、不思議そうに呟く。
「では二人とも東院の二階にいるのか?」
「そのはずだ」

 イーシスの答えを聞くと、アニエスは踵を返そうとした。
 が、イーシスが手を握ったままだったので、それは叶わなかった。
 驚いたアニエスが自らの手を見下ろす。

「……離せ。わたしは二人を助けに行かなくては」
「助ける? どういうことだ?」
 覗き込めば、深い青の双眸が見返した。

「狙われているんだ、どちらかが」

 物騒なことをさらりと言った。
「狙われている、だと?」
 イーシスが驚きを露わにすると、アニエスはもう一度手を見下ろし、かすかに溜息をついた。
「一緒にいただろう? タイマー・ボムが……時限爆弾が仕掛けられていた現場に。
 一緒にいたのは、誰だ?」

 アニエスの、もう一方の手が、アニエスを掴んでいるイーシスの手に触れた。
 彼女の体温は……とても、低い。
 触れると冷たい、と思う。
 その手が、そっと、イーシスの手を解いた。

 解くと同時にアニエスは今度こそ踵を返した。
 何かを操作したのか、天井からロープ状の何かが降りてくる。
 今日はそれが見えた。

「狙われているだと? 誰に? なぜ?」
 早口にまくし立てる。
 それは一体、どういうことだ?
 けれどアニエスは静かに首を振る。
「わからない。でも……たった今、一つだけわかった」
 ロープに足をかける。
 長い黒髪がかすかに振り返る。

「狙われているのは、サラディ・マクスウェルだ」

 言い残して。
 アニエスの姿が消えた。
 慌てて見上げても、もう、天井すらもとのように戻っている。

「サラディが、狙われている、だと……?」

 幻が残した言葉の意味を掴みきれず、イーシスは呆然と呟いた。