その女が、真っ直ぐに自分を見つめてきた。
仲間なのだろうか、連れの女に応えているときは、少しは表情らしきものも見えたが、
今はまた、イーシスが最初に見たときと同じ、無表情で。
「わたしに、用があるのか?」
たずねる、という感じでもなく。
イーシスは彼女を見返した。
それから、ちら、と周囲に目を走らす。
先ほどの女……背の高い、モデルか役者だろうか、金髪の美女も、
カメラの先にいる衣装を纏ったアーティストも、
もうイーシスたちのほうを見てはいなかった。
それを確認してから、ふたたび、目の前の女に視線を戻す。
目が合ってから、女は静かに椅子に座った。
イーシスは、そっと女に近づいてみる。
だが、彼女は特別反応を示さなかった。
沈黙。
イーシスは彼女を見つめたまま、なにを言えばいいのかわからず立ち尽くした。
目をそらしていた彼女が、ゆっくりとした動作で振り返ったとき、
だから、イーシスは内心びくり、と震えた。
彼女がかすかに息を吐き出した。
溜息、のように思えた。
「……用がなくてもいいから、そこに立ち尽くさないでくれないか」
相変わらずの無表情な声色。
いや、少し、呆れているだろうか……?
ともかくその言葉に、イーシスは顔を上げ、ずんずんと近寄ると、彼女とひとつ空けて隣にどかり、と腰を下ろした。
その性急な所作に、彼女がほんの少し驚いたようにイーシスを見る。
イーシスは、目を合わさずに……口を開いた。
「おまえ、人違いではなく、アニエス、という女なんだな」
我ながら奇妙なことを口走ってしまった。
言ってから少し慌てて言い直そうとしたが、その前に、彼女がふっと息を吐いた。
イーシスは思わず隣を振り返る。
が、今度は彼女のほうが目をそらしていた。
「人違い、か」
そしてぽそり、と呟いた。
「名前……アークに聞いたのか」
さらりと、ごく自然に紡ぎだされたイーシスの僚友の名に、なぜかそわそわして、イーシスは眉をひそめて彼女を見返した。
「……まいったな、アークには……」
そして彼女は少し、首をかしげた。
ほんの少し、表情が緩んだように見えた。
それは……苦笑?
あるいは。
「おまえ、ガキの頃に行方をくらましたというのは本当か? なぜ?」
どこか、アークのことを思い出しているのか、懐かしむような、遠くを見るような顔をしている女に、イーシスは追いかけるようにたずねた。
すると彼女は、一瞬にしてもとの無表情に戻った。
そして。
「あなたには関係ない」
きっぱりと、言い捨てられた。
「な……っ」
それは、そうかもしれない。
自分には関係ないだろう。
だが、その言い方はないだろうと思って、言い返そうとしたが、その目の前で彼女は頭を垂れた。
「そしてもう……アークにも、関係ない」
「は……?」
俯くと、女の黒髪がさらりと滑って、その横顔を隠した。
「アークにも、て……。あいつは今も、おまえを探しているぞ?」
そんなこと告げるつもりなどなかったのに、なぜか口走る。
けれど後悔する間もなく、彼女はぱっと顔を上げた。
イーシスを見つめる。
「……え?」
その驚きように、逆にイーシスが驚く。
だから言ってやった。
「詳しい事情なんか知らないさ。
だが、おまえがいなくなって、ずっと探していたと言っていた。
この前も……俺はあいつに訊かれたぞ。どうやったらおまえに逢えるのかと。
俺だって答えようがなかったがな」
憮然として言えば、女は少し、深い青の瞳を揺らめかせた。
「本当に……?」
「嘘をいっても仕方ないだろ」
けれど彼女はイーシスの言葉など聞いてはいなかった。
「本当に? アークが、探している……?」
狼狽したように言うので、イーシスは少し呆れた。
「おまえな。自分がしたことわかってるのか?
好意をもってたやつが急に消えて、それが自分のせいかもしれないってあいつは思ってるんだ。
とりあえず、探すだろうが。後味の悪い。
おまえも弁解するとか、理由を説明するとか、言ってやったらどうだ」
後味の悪いのはこっちだ。
彼女は再びイーシスをじっと見てから、ふいっと視線をそらした。
「そうか。そうなのか……。だけど」
すぐにもとの抑揚の少ない口調に戻る。
そして。
「だけど、今のあなたの言葉にはひとつ、間違いがある」
「はあ?」
指摘されてイーシスは睨むように見返した。
ちら、とこちらを一瞬見た女は、けれどすぐにまた目をそらす。
「アークがわたしに抱いていたのは、好意ではない」
あまりにきっぱり言われて、イーシスは鼻白んだが、すぐに言い返した。
「知るかよ! 執着してるように見えたというだけだ!」
その声が大きすぎたのか、部屋にいる連中……とくにあの、赤いスーツの女に凄い形相で睨まれた。
べつに恐くなどないが、慌ててイーシスは口を噤む。
けれど肝心の、目の前の女は気にしたふうもなく俯いたままだった。
「そうか。けどそれは好意ではない。……責任、だ」
言われた意味がわからず、イーシスは言い返せなかった。
責任、だと?
責任を感じてこだわって探しているというのか?
それならなおさら……。
「でもそれは、わたしがいる限り消えない。アークはきっと忘れない。
だから、わたしは消えることにしたんだ」
消える、という言葉に。
やたらと儚さを感じて、イーシスはぎょっとした。
まるで、本当にこのまま消えてしまいそうな、そんな感じすらしたからだ。
「だから」
彼女は続けた。
そのとき、イーシスは奇妙に感じた。
彼女の言葉に、なにかしらの感情がこもっているような気がして。
「できれば言わないでいて欲しい」
「……は?」
女はゆっくり振り返った。
「わたしにここで会ったこと。いや、あのとき会ったこと。全部、忘れてくれ」
「な……っ」
驚いた。
と同時に、それは無理だ、と思った。
忘れられるものか、と思った。
なぜだか、わからないけれど。
ぎり、とイーシスは歯を食いしばる。
自分を見つめる、けれど自分など見てはいない女を、睨むように見返しながら、言葉を捜した。
「そうはいくか……っ」
「……」
イーシスの態度をどう思ったか、相変わらずの無表情で女は見返してくる。
「おまえは……おまえたちは、父の部下なのだろう?」
「は?」
女がきょとんとした。
かすかな変化だったが、多分これまで見た中で最も驚いた表情だった。
「ここに俺を連れてくるときに父が言った。
ここには上手く使えばとても役に立つ連中がいるってな」
なんだろうと思ったが、いや、今でもよくわからないままだが、少なくともその連中の中に、この女も含まれているのだというのは、部屋に入ったときにわかった。
なにか、違うと。
「ふ、ふふ……」
そのとき、イーシスはまた、驚かされた。
彼女が、笑ったのだ。
作られたような笑みだったが、片目を細めて、鼻で笑った。
「そうか、あなたはハージェだったな」
姓を呼ばれてイーシスはかすかに眉をひそめる。
「わたしたちは確かに、うまく使えば役に立つだろう。
けれど、ひとつ訂正しておこう。
わたしたちは、エドラス・ハージェの部下ではない」
「……違うのか?」
イーシスは女を覗き込む。
父からは、詳しいことは聞いていない。
「違う。ただ、まあ。エドラス・ハージェが我らのパトロンであることは事実だがな」
にやり、と笑った。
それはやはり作られたような笑みだったが、イーシスはじっと彼女の顔を見つめた。
「それは……父が、おまえたちになんらかの恩恵を与えているから、おまえたちは父の力になっている、ということか?」
「少し違うが、まあ、客観的にはそう理解していてかまわない」
冷静に、というか、無表情のままどこか作ったような態度で答える。
こいつは何者なんだ、と、初めて出会ったときに感じた疑問が、イーシスの胸に再び湧き上がった。
「俺は……」
「ハージェ」
口を開きかけたイーシスを、けれど女は名を呼んで止めた。
「相手が何者かわからないのに、そう口軽く喋らないほうがいいぞ」
そして、先手を打たれた。
それは事実だったので、イーシスは言葉を止め、かわりに。
「おまえは、俺が誰だかわかっているのに、俺はおまえが何者かわからないなんて、卑怯じゃないか」
負け惜しみのように言い返す。
すると、彼女は、ほんの少し笑った。
「そうか? ハージェはわたしの名を知っている。仲間以外でわたしの名を知っている者など、いないぞ」
イーシスはそうなのか、と少し驚いたが、またすぐに言い返した。
「いるだろう。アークだって知っている」
「ああ、アークは……」
その名を呼ぶとき、彼女は少し視線を緩める。
ほんの少し、穏やかになる。
それがなぜか、イーシスを苛つかせる。
「アークは特別だ」
むっとした。
ただ単純にそう思った。
「と、言ったら、ハージェも特別になるのかな」
「……イーシスだ」
イーシスは、短く名乗った。
ほんの少しの驚きを乗せた眸が、イーシスを振り返った。
「姓は父の名のように聞こえるから、俺の名で呼べ」
「……呼べと言われても」
「アークのことは名で呼ぶじゃないか」
そんなことは理屈ではなかったけれど、ただ、彼女は自分の名を知っているはずなのに、アークを呼ぶようには呼ばなくて、なんとなくそれが面白くなかった。それだけだ。
「……わかった。ただ、呼ぶ機会があるかどうかはわからないが」
一見、無表情なその顔は、けれどこうしてじっと見ていれば、わずかだがいろいろ変化する。
見逃すまいと、その姿を見つめる。
「……アニエス」
イーシスが、彼女の名を呼んだ。
アニエスは、ちらりと横目でこちらを見た。
「俺は、おまえを、名で呼んでいいか?」
おそるおそるたずねる。
じっとその顔を見つめていたが、彼女の表情は変化しなかった。
が、少し間をおいて、彼女は溜息をついた。
「周囲に人がいるときは、遠慮したいな。名を呼ぶのも、話しかけるのも」
「では、ふたりのときはいいのか?」
「かまわない。だが……そういう機会があるかどうかは、これもわからないな」
「あるさ」
イーシスは、自信ありげに答えた。
やや怪訝な顔で彼女が見返す。
「おまえたちは役に立つと父が言った。
なら俺が、みすみすそれを手離すはずがないだろう?」
そしてイーシスは言い放った。
女は無表情のままイーシスを見つめ、やがて、ぽつん、と言った。
「……そうか。そうだな」
そこにはまるで感情などなくて、イーシスはほんの少し不安になるが、小さく首を振る。
この女は、何かを恐れている。
親しく接触することも、言葉を交わすことも。
それでも、イーシスが構い続けるとしたら、それは彼女たちを道具とし、価値があるとそう言えば、この女も納得するのではないかと。
咄嗟にそう思ったのだ。
その、作られた表情を見て。
だから。
女が顔を上げてさっと立ち上がった。
驚いて視線の先を追いかけると、父たちが現れるところだった。
イーシスは素早く一歩、彼女に近づいた。
「また会おう、アニエス」
そして返事をさせずに、身を翻す。
急いで父の元に歩み寄り、その後ろに控える。
なんだか知らないが、今父と一緒にいた連中は、わけありのようだ。
自分がハージェの息子であり、ここに自分がいることを、アピールしたほうがよい、と思う。
父は何も言わず、そのまま部屋を出て行こうとする。
イーシスも無言でそれに従った。
ドアをくぐるとき、ちら、と部屋の中に視線を投げたが、わずかに姿が見えた女はやはり無表情だった。
そしてイーシスは、早足に父の後を追った。