7. Your Name. 

 その女が、真っ直ぐに自分を見つめてきた。
 仲間なのだろうか、連れの女に応えているときは、少しは表情らしきものも見えたが、
 今はまた、イーシスが最初に見たときと同じ、無表情で。

「わたしに、用があるのか?」

 たずねる、という感じでもなく。
 イーシスは彼女を見返した。
 それから、ちら、と周囲に目を走らす。
 先ほどの女……背の高い、モデルか役者だろうか、金髪の美女も、
 カメラの先にいる衣装を纏ったアーティストも、
 もうイーシスたちのほうを見てはいなかった。
 それを確認してから、ふたたび、目の前の女に視線を戻す。
 目が合ってから、女は静かに椅子に座った。
 イーシスは、そっと女に近づいてみる。
 だが、彼女は特別反応を示さなかった。
 沈黙。
 イーシスは彼女を見つめたまま、なにを言えばいいのかわからず立ち尽くした。
 目をそらしていた彼女が、ゆっくりとした動作で振り返ったとき、
 だから、イーシスは内心びくり、と震えた。
 彼女がかすかに息を吐き出した。
 溜息、のように思えた。
「……用がなくてもいいから、そこに立ち尽くさないでくれないか」
 相変わらずの無表情な声色。
 いや、少し、呆れているだろうか……?
 ともかくその言葉に、イーシスは顔を上げ、ずんずんと近寄ると、彼女とひとつ空けて隣にどかり、と腰を下ろした。
 その性急な所作に、彼女がほんの少し驚いたようにイーシスを見る。
 イーシスは、目を合わさずに……口を開いた。
「おまえ、人違いではなく、アニエス、という女なんだな」
 我ながら奇妙なことを口走ってしまった。
 言ってから少し慌てて言い直そうとしたが、その前に、彼女がふっと息を吐いた。
 イーシスは思わず隣を振り返る。
 が、今度は彼女のほうが目をそらしていた。
「人違い、か」
 そしてぽそり、と呟いた。
「名前……アークに聞いたのか」
 さらりと、ごく自然に紡ぎだされたイーシスの僚友の名に、なぜかそわそわして、イーシスは眉をひそめて彼女を見返した。
「……まいったな、アークには……」
 そして彼女は少し、首をかしげた。
 ほんの少し、表情が緩んだように見えた。
 それは……苦笑?
 あるいは。
「おまえ、ガキの頃に行方をくらましたというのは本当か? なぜ?」
 どこか、アークのことを思い出しているのか、懐かしむような、遠くを見るような顔をしている女に、イーシスは追いかけるようにたずねた。
 すると彼女は、一瞬にしてもとの無表情に戻った。
 そして。

「あなたには関係ない」

 きっぱりと、言い捨てられた。
「な……っ」
 それは、そうかもしれない。
 自分には関係ないだろう。
 だが、その言い方はないだろうと思って、言い返そうとしたが、その目の前で彼女は頭を垂れた。
「そしてもう……アークにも、関係ない」
「は……?」
 俯くと、女の黒髪がさらりと滑って、その横顔を隠した。
「アークにも、て……。あいつは今も、おまえを探しているぞ?」
 そんなこと告げるつもりなどなかったのに、なぜか口走る。
 けれど後悔する間もなく、彼女はぱっと顔を上げた。
 イーシスを見つめる。
「……え?」
 その驚きように、逆にイーシスが驚く。
 だから言ってやった。
「詳しい事情なんか知らないさ。
 だが、おまえがいなくなって、ずっと探していたと言っていた。
 この前も……俺はあいつに訊かれたぞ。どうやったらおまえに逢えるのかと。
 俺だって答えようがなかったがな」
 憮然として言えば、女は少し、深い青の瞳を揺らめかせた。
「本当に……?」
「嘘をいっても仕方ないだろ」
 けれど彼女はイーシスの言葉など聞いてはいなかった。
「本当に? アークが、探している……?」
 狼狽したように言うので、イーシスは少し呆れた。
「おまえな。自分がしたことわかってるのか?
 好意をもってたやつが急に消えて、それが自分のせいかもしれないってあいつは思ってるんだ。
 とりあえず、探すだろうが。後味の悪い。
 おまえも弁解するとか、理由を説明するとか、言ってやったらどうだ」
 後味の悪いのはこっちだ。
 彼女は再びイーシスをじっと見てから、ふいっと視線をそらした。
「そうか。そうなのか……。だけど」
 すぐにもとの抑揚の少ない口調に戻る。
 そして。
「だけど、今のあなたの言葉にはひとつ、間違いがある」
「はあ?」
 指摘されてイーシスは睨むように見返した。
 ちら、とこちらを一瞬見た女は、けれどすぐにまた目をそらす。
「アークがわたしに抱いていたのは、好意ではない」
 あまりにきっぱり言われて、イーシスは鼻白んだが、すぐに言い返した。
「知るかよ! 執着してるように見えたというだけだ!」
 その声が大きすぎたのか、部屋にいる連中……とくにあの、赤いスーツの女に凄い形相で睨まれた。
 べつに恐くなどないが、慌ててイーシスは口を噤む。
 けれど肝心の、目の前の女は気にしたふうもなく俯いたままだった。
「そうか。けどそれは好意ではない。……責任、だ」
 言われた意味がわからず、イーシスは言い返せなかった。
 責任、だと?
 責任を感じてこだわって探しているというのか?
 それならなおさら……。
「でもそれは、わたしがいる限り消えない。アークはきっと忘れない。
 だから、わたしは消えることにしたんだ」
 消える、という言葉に。
 やたらと儚さを感じて、イーシスはぎょっとした。
 まるで、本当にこのまま消えてしまいそうな、そんな感じすらしたからだ。
「だから」
 彼女は続けた。
 そのとき、イーシスは奇妙に感じた。
 彼女の言葉に、なにかしらの感情がこもっているような気がして。
「できれば言わないでいて欲しい」
「……は?」
 女はゆっくり振り返った。
「わたしにここで会ったこと。いや、あのとき会ったこと。全部、忘れてくれ」
「な……っ」
 驚いた。
 と同時に、それは無理だ、と思った。
 忘れられるものか、と思った。
 なぜだか、わからないけれど。
 ぎり、とイーシスは歯を食いしばる。
 自分を見つめる、けれど自分など見てはいない女を、睨むように見返しながら、言葉を捜した。
「そうはいくか……っ」
「……」
 イーシスの態度をどう思ったか、相変わらずの無表情で女は見返してくる。
「おまえは……おまえたちは、父の部下なのだろう?」
「は?」
 女がきょとんとした。
 かすかな変化だったが、多分これまで見た中で最も驚いた表情だった。
「ここに俺を連れてくるときに父が言った。
 ここには上手く使えばとても役に立つ連中がいるってな」
 なんだろうと思ったが、いや、今でもよくわからないままだが、少なくともその連中の中に、この女も含まれているのだというのは、部屋に入ったときにわかった。
 なにか、違うと。
「ふ、ふふ……」
 そのとき、イーシスはまた、驚かされた。
 彼女が、笑ったのだ。
 作られたような笑みだったが、片目を細めて、鼻で笑った。
「そうか、あなたはハージェだったな」
 姓を呼ばれてイーシスはかすかに眉をひそめる。
「わたしたちは確かに、うまく使えば役に立つだろう。
 けれど、ひとつ訂正しておこう。
 わたしたちは、エドラス・ハージェの部下ではない」
「……違うのか?」
 イーシスは女を覗き込む。
 父からは、詳しいことは聞いていない。
「違う。ただ、まあ。エドラス・ハージェが我らのパトロンであることは事実だがな」
 にやり、と笑った。
 それはやはり作られたような笑みだったが、イーシスはじっと彼女の顔を見つめた。
「それは……父が、おまえたちになんらかの恩恵を与えているから、おまえたちは父の力になっている、ということか?」
「少し違うが、まあ、客観的にはそう理解していてかまわない」
 冷静に、というか、無表情のままどこか作ったような態度で答える。
 こいつは何者なんだ、と、初めて出会ったときに感じた疑問が、イーシスの胸に再び湧き上がった。
「俺は……」
「ハージェ」
 口を開きかけたイーシスを、けれど女は名を呼んで止めた。
「相手が何者かわからないのに、そう口軽く喋らないほうがいいぞ」
 そして、先手を打たれた。
 それは事実だったので、イーシスは言葉を止め、かわりに。
「おまえは、俺が誰だかわかっているのに、俺はおまえが何者かわからないなんて、卑怯じゃないか」
 負け惜しみのように言い返す。
 すると、彼女は、ほんの少し笑った。
「そうか? ハージェはわたしの名を知っている。仲間以外でわたしの名を知っている者など、いないぞ」
 イーシスはそうなのか、と少し驚いたが、またすぐに言い返した。
「いるだろう。アークだって知っている」
「ああ、アークは……」
 その名を呼ぶとき、彼女は少し視線を緩める。
 ほんの少し、穏やかになる。
 それがなぜか、イーシスを苛つかせる。
「アークは特別だ」
 むっとした。
 ただ単純にそう思った。
「と、言ったら、ハージェも特別になるのかな」
「……イーシスだ」
 イーシスは、短く名乗った。
 ほんの少しの驚きを乗せた眸が、イーシスを振り返った。
「姓は父の名のように聞こえるから、俺の名で呼べ」
「……呼べと言われても」
「アークのことは名で呼ぶじゃないか」
 そんなことは理屈ではなかったけれど、ただ、彼女は自分の名を知っているはずなのに、アークを呼ぶようには呼ばなくて、なんとなくそれが面白くなかった。それだけだ。
「……わかった。ただ、呼ぶ機会があるかどうかはわからないが」
 一見、無表情なその顔は、けれどこうしてじっと見ていれば、わずかだがいろいろ変化する。
 見逃すまいと、その姿を見つめる。
「……アニエス」
 イーシスが、彼女の名を呼んだ。
 アニエスは、ちらりと横目でこちらを見た。
「俺は、おまえを、名で呼んでいいか?」
 おそるおそるたずねる。
 じっとその顔を見つめていたが、彼女の表情は変化しなかった。
 が、少し間をおいて、彼女は溜息をついた。
「周囲に人がいるときは、遠慮したいな。名を呼ぶのも、話しかけるのも」
「では、ふたりのときはいいのか?」
「かまわない。だが……そういう機会があるかどうかは、これもわからないな」
「あるさ」
 イーシスは、自信ありげに答えた。
 やや怪訝な顔で彼女が見返す。
「おまえたちは役に立つと父が言った。
 なら俺が、みすみすそれを手離すはずがないだろう?」
 そしてイーシスは言い放った。
 女は無表情のままイーシスを見つめ、やがて、ぽつん、と言った。
「……そうか。そうだな」
 そこにはまるで感情などなくて、イーシスはほんの少し不安になるが、小さく首を振る。

 この女は、何かを恐れている。
 親しく接触することも、言葉を交わすことも。
 それでも、イーシスが構い続けるとしたら、それは彼女たちを道具とし、価値があるとそう言えば、この女も納得するのではないかと。
 咄嗟にそう思ったのだ。
 その、作られた表情を見て。
 だから。

 女が顔を上げてさっと立ち上がった。
 驚いて視線の先を追いかけると、父たちが現れるところだった。
 イーシスは素早く一歩、彼女に近づいた。

「また会おう、アニエス」

 そして返事をさせずに、身を翻す。
 急いで父の元に歩み寄り、その後ろに控える。
 なんだか知らないが、今父と一緒にいた連中は、わけありのようだ。
 自分がハージェの息子であり、ここに自分がいることを、アピールしたほうがよい、と思う。
 父は何も言わず、そのまま部屋を出て行こうとする。
 イーシスも無言でそれに従った。
 ドアをくぐるとき、ちら、と部屋の中に視線を投げたが、わずかに姿が見えた女はやはり無表情だった。
 そしてイーシスは、早足に父の後を追った。