5. Offer. 

 ロス・クライムの専用通路、天井裏の『イカロス』で、アニエスは肩で息をしていた。
 少しでも彼女のことを知っている人間だったら、驚くような、表情をしていた。
 そこに浮かんでいるのは……恐怖。
 見開かれた深青の双眸は、まるで何も見えていないよう。
 アニエス自身も、その変化に懸命に立ち向かっている、といえた。
 自らの動悸を抑えようと呼吸を意識する。
 落ち着け、と心で呪文のように繰り返す。
 そうだ、べつにたいしたことではない。
 ちょっと……そう、ほんの一瞬、触れられただけだ。
 どうも、自分を呼び止めようとしただけの、咄嗟の行動だったようだし。
 こちらが嫌悪を示したら、すぐに離してくれたし。
 害意はなかった……はず、だ。
 その前に力ずくで、とか言っていたけれど、その口調はわざとらしかったから、脅してみただけのようだったし。
 アニエスは、なんとか理由をつけて、落ち着こうとした。
 触れられた場所……右の手首を、左手でじっと握っていたところを、そっと離してみる。
 当然、どうともなっていない。
 痣になるほど強くつかまれたわけではない。
 痛みもない。
 けれど……アニエスは全身が痛んだ。
 恐怖なんて、そんなもの。
 ロス・クライムで散々訓練されたはずの感情統制が、たった一つにだけはどうしても無効だった。
 ほかの恐怖なら抑えられるのに。
 なぜか。
 「触れられる」ことにのみ、アニエスは戦慄を覚える。
 アニエスは首を振った。
 いつもの無表情を顔に浮かべて、収穫した獲物を手に立ち上がる。
 薄暗い『イカロス』の中を移動する。
 待ち合わせ場所に着くと、部屋の中を確認して、降りる。
 そこには数名の男たちがいて、天井から降りてきた少女に無感情な一瞥を寄越した。
「アニエス・カーロッサ、任務終了しました」
 そして差し出す、収穫物。
 その多さに、男たちはほんの一瞬、ほんのかすかに反応を示したけれど。
「ご苦労」
 それ以上の反応はなかった。
 アニエスは完璧に無表情で、手を胸にあて礼をする。
 壁際に控えていると、程なく『イカロス』の扉が開いた。
 イカロスのロープを伝って降りてくるのは、アニエスの同僚。
 金の髪に紅の瞳の美女。
「サンドラ・サラバン、任務終了しました」
 アニエスとは反対の東院に行っていたサンドラの手にも、同様の袋があり、やはりそれもずしりと重そうだった。
「カーロッサ」
 不意に名を呼ばれ、アニエスは顔を向けた。
「はい」
「これは……なんだ」
 そうして示されていたものは、最後に解除した。
 隣でサンドラがほんの少し息を吸った。
 一目でそれがなにかわかったからだ。
 無論、ここにいる男たち……ロス・クライムの上司が、それがなんなのか、わからないはずはないのだが。
「はっ。ドア・パネルに埋め込まれていました」
 さらりと答える。
 むう、とそれを持って男が唸る。
「これを手に入れる機関だと……?」
 男たちが鋭い視線でそれを舐めるように眺め回す。
 たったそれだけ、さほど大きくもないそれを見ただけで、彼らはいくつもの情報を引き出す。
 ロス・クライム……情報操作を、あるいは、この国の、この世界の、すべての情報を握ろうとする機関。
 そのあと二人はそれぞれの見聞きしたことを報告する。
 事前の情報では二人と聞いていたのに、情報外の議員が現れたことも、隠さずすべて報告する。
 けれどそれさえも、あまり予想外ではなかったのか、上司たちはほとんど反応しなかった。
「サンドラ・サラバン、アニエス・カーロッサ。ご苦労だった」
「はっ」
「はい」
 それは解放の合図。
 二人はまったく同じタイミングで同じ礼をし、揃って部屋を出た。
 今度は隠し通路ではなく、ちゃんと扉からそとに出る。
「なんだい、あれは? タイマー・ボム?」
「そのようだ」
 行政府の赤い絨毯の上を歩きながら、サンドラが驚いたふうにたずねてきた。
 アニエスは、いつもどおりの無表情で頷く。
 二人は迷いもせずに、非常口、と書かれた扉をくぐる。
「しかも、ちょっと見えなかったけど。あれはエルプラント製かい? それのMB型みたいだったね?」
「……さすがだな。あれだけでよくわかる」
 そういえば、アークも覗き込んだ後、そんなことを言っていたな、とアニエスはぼんやり思う。
 階段の踊り場で、サンドラが壁に手を突いた。
 きょろ、と二人が目だけで周囲をうかがい、それから、サンドラの手が壁を廻した。
 隠し扉がくるりと回転する。
 アニエスはサンドラの後ろにくっつくようにして、同時に扉をくぐった。
 そこには、ひとつ下、あるいは上とかわらないフロアが広がっていた。
 そのまま青い絨毯の廊下を歩いて、ひとつの部屋の前で立ち止まる。
 ドアの操作パネルにコードを入力し、左手をかざすと、個人認識されドアが開く。
「お、帰って来た来た!」
 自分たちの部屋には、三人目の仲間がいて、彼女たちを待っていたらしい。
「おかえり、お二人さん。お仕事ご苦労さん」
「……おまえのおかげで変な仕事が舞い込んできたもんだよ」
 それぞれが、定位置の席に座る。
 べつに決まっているわけではないけれど、自然とそうなる、だから、定位置。
 サンドラはそのままスーツのジャケットを脱ぐと、黒のシャツの襟を緩めた。
「それで? あんたのほうは、どうなんだい?」
「うん? ああ……なあ、サニー、おまえPVに出る?」
「……ふざけてるのか」
「いやめっちゃ本気。あ、でもシルエットだけでね。あんたがその顔だしちゃ、どこのどいつに狙われるかわかったもんじゃないから」
 サンドラは、いい加減うんざりしたという顔でひらりと手を振った。
「あれあれ。俺マジなんですけどー?」
「冗談もたいがいにしろ」
 サンドラがキッチン部に消えながら捨て台詞を残す。
 が、まもなくドリンクをもって現れる。
 手には、アニエスのぶんもあった。
「今日はーPVをどんな感じにするかっていう話を聞いてきた」
「ああそう」
「で、ほら、やっぱ男が歌ってるから、女の子の絵がほしいだろ?
 そしたら、俺といて絵になる子がいいだろ?
 そんなのサンドラに決まりじゃーん?」
 いかにも当然で当たり前のように導き出されるその答えに、アニエスは少し微笑んだ。
「相変わらず突っ込みどころが満載だな」
「そうかー? 俺もほかの子よりおまえがいいし」
「……」
 サンドラは、照れているのではなく、呆れて横目で相棒を眺めている。
「おまえってほんと、単純で幸せなヤツだな」
「素直でおまえ一筋なんだと認めてくれたらいいんだけど?」
「勝手に言ってろ」
「うーん。それで返事は?」
 さらりと続いた言葉に、さすがのサンドラもちょっと動きを止めた。
「返事?」
「そう、返事。だってこれ出演依頼だぜ? オファー?」
 デビューとか、PVとか、アニエスには別の世界のことのようにしか聞こえないのだが、カルロスがいうと、なぜかたいしたことなく聞こえて不思議だ。
「一応女優っていうの? 女の子用意するかってことなんだけど、その前にサンドラにオファーだって」
「……本気なのか?」
「そーだろ。だって上の連中はみんなおまえがどんな女か知ってんだぜ?」
「どんな、て」
「知ってるぜ? おまえちょっと前にモデルやらされそうになったんだって?」
「……あの連中、性懲りもなく」
 ばき、と、サンドラの手の中のボトルが音をたてて歪んだ。
 アニエスには初耳だが、どうやら事実らしい。
 サンドラは、背は高くてスタイルはいい。
 もしファッションモデルの仕事をすることになっても、アニエスは、そんなに驚かないと思う。
「あー……嫌、か? やっぱり?」
 カルロスが覗き込むようにサンドラの顔色をうかがった。
 むっとしたまま、サンドラがちらりとカルロスを見返す。
「おまえが嫌なら俺は断るぜ?」
「……おまえは、どうなんだ?」
 けれどサンドラは即座にノーとは言わず、同僚に逆に尋ね返した。
「うん?」
「おまえはどう思うんだ。わたしがやればいいと、そう思ってるのか?」
 知っている。
 口ではあまり言わないが、サンドラはカルロスのことを信頼している。
 全面的に。
 そう、思う。
 逆も然り。
 だから。
「ああ、俺はおまえでいいと思う。おまえはシルエットだけでも充分魅力的だし。
 ほかのところでそんな仕事するより、俺と一緒のほうがいいだろ」
 カルロスが真面目に答えれば。
「…………わかった」
 サンドラは、頷いた。
 それはとても素敵な信頼関係だと、アニエスはそう、思った。