ロス・クライムの専用通路、天井裏の『イカロス』で、アニエスは肩で息をしていた。
少しでも彼女のことを知っている人間だったら、驚くような、表情をしていた。
そこに浮かんでいるのは……恐怖。
見開かれた深青の双眸は、まるで何も見えていないよう。
アニエス自身も、その変化に懸命に立ち向かっている、といえた。
自らの動悸を抑えようと呼吸を意識する。
落ち着け、と心で呪文のように繰り返す。
そうだ、べつにたいしたことではない。
ちょっと……そう、ほんの一瞬、触れられただけだ。
どうも、自分を呼び止めようとしただけの、咄嗟の行動だったようだし。
こちらが嫌悪を示したら、すぐに離してくれたし。
害意はなかった……はず、だ。
その前に力ずくで、とか言っていたけれど、その口調はわざとらしかったから、脅してみただけのようだったし。
アニエスは、なんとか理由をつけて、落ち着こうとした。
触れられた場所……右の手首を、左手でじっと握っていたところを、そっと離してみる。
当然、どうともなっていない。
痣になるほど強くつかまれたわけではない。
痛みもない。
けれど……アニエスは全身が痛んだ。
恐怖なんて、そんなもの。
ロス・クライムで散々訓練されたはずの感情統制が、たった一つにだけはどうしても無効だった。
ほかの恐怖なら抑えられるのに。
なぜか。
「触れられる」ことにのみ、アニエスは戦慄を覚える。
アニエスは首を振った。
いつもの無表情を顔に浮かべて、収穫した獲物を手に立ち上がる。
薄暗い『イカロス』の中を移動する。
待ち合わせ場所に着くと、部屋の中を確認して、降りる。
そこには数名の男たちがいて、天井から降りてきた少女に無感情な一瞥を寄越した。
「アニエス・カーロッサ、任務終了しました」
そして差し出す、収穫物。
その多さに、男たちはほんの一瞬、ほんのかすかに反応を示したけれど。
「ご苦労」
それ以上の反応はなかった。
アニエスは完璧に無表情で、手を胸にあて礼をする。
壁際に控えていると、程なく『イカロス』の扉が開いた。
イカロスのロープを伝って降りてくるのは、アニエスの同僚。
金の髪に紅の瞳の美女。
「サンドラ・サラバン、任務終了しました」
アニエスとは反対の東院に行っていたサンドラの手にも、同様の袋があり、やはりそれもずしりと重そうだった。
「カーロッサ」
不意に名を呼ばれ、アニエスは顔を向けた。
「はい」
「これは……なんだ」
そうして示されていたものは、最後に解除した。
隣でサンドラがほんの少し息を吸った。
一目でそれがなにかわかったからだ。
無論、ここにいる男たち……ロス・クライムの上司が、それがなんなのか、わからないはずはないのだが。
「はっ。ドア・パネルに埋め込まれていました」
さらりと答える。
むう、とそれを持って男が唸る。
「これを手に入れる機関だと……?」
男たちが鋭い視線でそれを舐めるように眺め回す。
たったそれだけ、さほど大きくもないそれを見ただけで、彼らはいくつもの情報を引き出す。
ロス・クライム……情報操作を、あるいは、この国の、この世界の、すべての情報を握ろうとする機関。
そのあと二人はそれぞれの見聞きしたことを報告する。
事前の情報では二人と聞いていたのに、情報外の議員が現れたことも、隠さずすべて報告する。
けれどそれさえも、あまり予想外ではなかったのか、上司たちはほとんど反応しなかった。
「サンドラ・サラバン、アニエス・カーロッサ。ご苦労だった」
「はっ」
「はい」
それは解放の合図。
二人はまったく同じタイミングで同じ礼をし、揃って部屋を出た。
今度は隠し通路ではなく、ちゃんと扉からそとに出る。
「なんだい、あれは? タイマー・ボム?」
「そのようだ」
行政府の赤い絨毯の上を歩きながら、サンドラが驚いたふうにたずねてきた。
アニエスは、いつもどおりの無表情で頷く。
二人は迷いもせずに、非常口、と書かれた扉をくぐる。
「しかも、ちょっと見えなかったけど。あれはエルプラント製かい? それのMB型みたいだったね?」
「……さすがだな。あれだけでよくわかる」
そういえば、アークも覗き込んだ後、そんなことを言っていたな、とアニエスはぼんやり思う。
階段の踊り場で、サンドラが壁に手を突いた。
きょろ、と二人が目だけで周囲をうかがい、それから、サンドラの手が壁を廻した。
隠し扉がくるりと回転する。
アニエスはサンドラの後ろにくっつくようにして、同時に扉をくぐった。
そこには、ひとつ下、あるいは上とかわらないフロアが広がっていた。
そのまま青い絨毯の廊下を歩いて、ひとつの部屋の前で立ち止まる。
ドアの操作パネルにコードを入力し、左手をかざすと、個人認識されドアが開く。
「お、帰って来た来た!」
自分たちの部屋には、三人目の仲間がいて、彼女たちを待っていたらしい。
「おかえり、お二人さん。お仕事ご苦労さん」
「……おまえのおかげで変な仕事が舞い込んできたもんだよ」
それぞれが、定位置の席に座る。
べつに決まっているわけではないけれど、自然とそうなる、だから、定位置。
サンドラはそのままスーツのジャケットを脱ぐと、黒のシャツの襟を緩めた。
「それで? あんたのほうは、どうなんだい?」
「うん? ああ……なあ、サニー、おまえPVに出る?」
「……ふざけてるのか」
「いやめっちゃ本気。あ、でもシルエットだけでね。あんたがその顔だしちゃ、どこのどいつに狙われるかわかったもんじゃないから」
サンドラは、いい加減うんざりしたという顔でひらりと手を振った。
「あれあれ。俺マジなんですけどー?」
「冗談もたいがいにしろ」
サンドラがキッチン部に消えながら捨て台詞を残す。
が、まもなくドリンクをもって現れる。
手には、アニエスのぶんもあった。
「今日はーPVをどんな感じにするかっていう話を聞いてきた」
「ああそう」
「で、ほら、やっぱ男が歌ってるから、女の子の絵がほしいだろ?
そしたら、俺といて絵になる子がいいだろ?
そんなのサンドラに決まりじゃーん?」
いかにも当然で当たり前のように導き出されるその答えに、アニエスは少し微笑んだ。
「相変わらず突っ込みどころが満載だな」
「そうかー? 俺もほかの子よりおまえがいいし」
「……」
サンドラは、照れているのではなく、呆れて横目で相棒を眺めている。
「おまえってほんと、単純で幸せなヤツだな」
「素直でおまえ一筋なんだと認めてくれたらいいんだけど?」
「勝手に言ってろ」
「うーん。それで返事は?」
さらりと続いた言葉に、さすがのサンドラもちょっと動きを止めた。
「返事?」
「そう、返事。だってこれ出演依頼だぜ? オファー?」
デビューとか、PVとか、アニエスには別の世界のことのようにしか聞こえないのだが、カルロスがいうと、なぜかたいしたことなく聞こえて不思議だ。
「一応女優っていうの? 女の子用意するかってことなんだけど、その前にサンドラにオファーだって」
「……本気なのか?」
「そーだろ。だって上の連中はみんなおまえがどんな女か知ってんだぜ?」
「どんな、て」
「知ってるぜ? おまえちょっと前にモデルやらされそうになったんだって?」
「……あの連中、性懲りもなく」
ばき、と、サンドラの手の中のボトルが音をたてて歪んだ。
アニエスには初耳だが、どうやら事実らしい。
サンドラは、背は高くてスタイルはいい。
もしファッションモデルの仕事をすることになっても、アニエスは、そんなに驚かないと思う。
「あー……嫌、か? やっぱり?」
カルロスが覗き込むようにサンドラの顔色をうかがった。
むっとしたまま、サンドラがちらりとカルロスを見返す。
「おまえが嫌なら俺は断るぜ?」
「……おまえは、どうなんだ?」
けれどサンドラは即座にノーとは言わず、同僚に逆に尋ね返した。
「うん?」
「おまえはどう思うんだ。わたしがやればいいと、そう思ってるのか?」
知っている。
口ではあまり言わないが、サンドラはカルロスのことを信頼している。
全面的に。
そう、思う。
逆も然り。
だから。
「ああ、俺はおまえでいいと思う。おまえはシルエットだけでも充分魅力的だし。
ほかのところでそんな仕事するより、俺と一緒のほうがいいだろ」
カルロスが真面目に答えれば。
「…………わかった」
サンドラは、頷いた。
それはとても素敵な信頼関係だと、アニエスはそう、思った。