「こういうのを、本当にとばっちり、っていうんだい!」
サンドラが書類をデスクに叩きつけながら喚いた。
のぞきこんだアニエスは、相変わらずの無表情だったが、ほんの少し……目を丸くするような、様子を見せた。
「あたしたちは大体外交部隊なのに、なんだって行政部の手伝いなんかしなきゃなんないんだか!」
無表情のまま、アニエスは書類をめくる。
「しかも肝心のカルロスのやつは、こんかいはヌケだって!?」
サンドラは……怒っているのだろうか。
何に?
この仕事の内容に?
カルロスがいないことに?
それとも……。
「アニエス! お願いだからあたしに東を行かせとくれよ!」
怒っているのは、仕事の内容、というか、対象についてかも、しれない。
「ああ……わかった。それでいい」
書類の最後の一枚に目を通しながら、アニエスは了解して頷く。
まわってきた任務は、行政府の要人の監視だ。
それ自体はよくある任務で、おかしなことも、かわったことも、特にない。
ただ、ロス・クライム内では第十八班と呼ばれている三人は、外交先の偵察を主な任務としていたので、国内の、要は隣に住んでいる連中の監視など、本来彼女らがする仕事ではなかったのだ。
それがまわってきた理由は、ひとつ。
カルロスが、抜けるから。
「ブリーフィングだがレコーディングだかしらないけど。本職ほっといて、なにが副業さ」
「いや、ブリーフィングは、軍用語だ」
「この場合似たようなもんだろ」
カルロスはその話をあまり持って帰らなくなったが、とりあえずデビュー曲というのは出来たらしい。
ほかに何をするのか知らないが、最近はデビューに向けての仕事にかかりきりになっている。
その留守の間、仕事が入ってこなかったのだが。
「……ったく!」
やっと回ってきた仕事……いや、別に仕事がしたいわけでもないけれど、それが、本来のものと違ったので、調子が狂ったのに拍車がかかった、のは確かだ。
その監視対象を見て、アニエスは、サンドラが東がいいと言った理由をすぐに理解する。
けれど。
同時に、もし自分が自由に選べたら。
やはり自分は西を選ぶのではないだろうかと、思った。
ダークグレーのスーツは遠目に見ると黒になる。
けれど、行政府で着用されているグレーのスーツと並ぶと、なぜか同じような色に見える。
奇妙なスーツだった。
そしてそれが、ロス・クライムの制服ともいえるものだ。
アニエスはダークグレーのスーツに身を包み、行政府の赤い絨毯の上を、躊躇いなく歩いていった。
造りは、わかる。
ロス・クライムの本部と同じかたちをしているのだから。
事前に調べられていた部屋に入る。
そこは、場所こそ貴族院の関連施設のようだけれど、完全に元老院の息のかかった場所だった。
貴族院は西院と東院にわかれているが、これは派閥闘争から自然に分離してしまった結果である。
その西院の一角に、随分と上等な控え室があった。
とても「新人」の使うべき部屋ではないが、アニエスがこれから監視の対象にする相手は、まだ正式には議員扱いされていないはずの、新人たちだ。
招聘時間より一時間早く、その区画が解放されて、来れるだけ早い時間に、アニエスはそこを訪れた。
入り口で別れたサンドラは、点対称のこの敷地の反対側で、東院の同じ場所に向かっているに違いない。
ドアにそっと手を触れるが、案の定ロックが施されている。
けれどそれは当然予想済みで、アニエスは相変わらずの無表情のまま、壁のコントロールパネルに近づく。
通常の解除キーとは異なる、長いパスワードを入力し、青いランプがつくと、スーツの左袖を手繰って腕を近づけた。
すると、ロックは解除された。
急いで袖を戻し、アニエスは部屋に飛び込む。
くるりと見回せば、高級なソファが設えられた豪華な部屋がそこにはあった。
ざっと見回しただけで、それはいくつも目に付いた。
片っ端から解除作業に当たるために、足を止めたのは一瞬で、アニエスはすぐに、まずはテーブルとソファに仕込まれているものから取り掛かった。
それから手間のかかる天井のライトへ。
通常とりつけられている監視カメラにも、余分なものがついでにいくつか便乗しているのを、本来のもの以外は取り外す。
監視カメラには自分の姿は映っているはずだが、これはロス・クライムの本部が消してくれるはずである。
解除するがしゃがしゃという音以外、その部屋にはない。
機能を停止したあとのガラクタは回収用の作業袋に無造作に放り込んで、アニエスは次に向かう。
(……多い、わね)
壁に目をやる。
もちろん一見してわかるものなどありはしない。
じっと見つめていると、ちかっと光るものを左目だけが捕らえる。
そこに近づき左手をかざす。
ぴりり、と軽い反応を感じて、アニエスは壁を丁寧に撫でる。
ほんのかすかな違和感。
わずかな突起。
それを……はがす。
数センチの隙間に現れるチップ。
それを抜き取ると壁は元のように戻す。
なにも変化はない。
チップに手持ちのレーザー端末を近づければ、あっというまに高性能チップもただのガラクタだ。
そんなものをいくつか外し、ドアノブに仕込まれていたものも外し、そして最後は床、と、思ったとき。
左耳が、足音を捉えた。
アニエスはびくと動きを止めた。
足音は真っ直ぐにこちらに向かってくる。
通り過ぎるだろうか。
視線を天井に向ける。
ここから廊下に出ずに逃げる方法は、あることは、あるが。
だがこの部屋が解放されるまでにはまだ三十分はあるはず……。
けれど、足音はドアの前で止まった。
(な……!?)
驚いてアニエスは慌てて収穫の入った袋に手を伸ばすけれど、
姿をくらますまではとても間に合わず、ぴぴっという電子音とともにドアのロックは解除された。
(……くっ!)
不覚、としか言いようがなかった。
こんな失敗をしたことは、未だかつてなかった。
「…………誰だ?」
背中に声が届いた。
知らない声。けれど誰だかはわかる。
今回の監視ターゲット、個人データは押さえてある。
入り口に背を向けたまま、アニエスはいつもの無表情をほんの少し歪めた。
(……『イーシス・ハージェ』!)
間違いない、ターゲットの一人だ。
動かないアニエスの背中で、ドアが閉まる音がする。
続いて、再びロックのかかる音。
「誰だ? 答えず、顔も見せないというのは、それなりの理由があると推測されるぞ」
高くもなく、かといって低くもない、その声は少しずつアニエスの背中に近づいてくる。
「答えろ、女。おまえは誰だ。ここで何をしている」
背後から手を伸ばされた気配を感じて、アニエスは飛びのいた。
収穫物を抱えて、二メートルくらい距離をとる。
と、そのとき、左足が反応した。
慣れているその違和感に、ぎょっとした。
今、自分の足元に、『獲物』がある!
「おい!」
アニエスへの言及を続けようとする新人議員に、アニエスは顔を向けた。
無表情の、表情も感情もなにももたないアニエスの顔に、彼は一瞬口を噤む。
けれど再び口を開こうとしたそのとき、アニエスはそっと自分の唇に指を一本押し当てた。
簡単だけれど、もっとも意味の伝わりやすい方法で。
静かに。喋らないで。
伝えなければならなかったのは、それだけ。
彼は怪訝な顔で、それでも開きかけた唇を結ぶ。
見詰め合う、数秒。
アニエスの深い、深い黒に近い青い瞳とは反対に、彼の瞳は儚いくらい薄い色の青だった。
先に目をそらしたのは、アニエスだ。
そろり、と自らの足元に視線を落とす。
赤い絨毯を視線で舐めれば、左目がちり、と反応した。
再び議員に目を戻し、警告を送る。
彼の名は、イーシス・ハージェ。
西院の一人、ハージェ議員の息子だ。
だが、父親が議員だからといって、息子が必ずしも議員になれるとは限らず、ここにいるということは、それなりには優秀ということだ。
アニエスの行動と視線に何を読み取ったのか、怪訝な顔のまま、彼は腕を組んだ。
それが傍観の態度だと、それが返事だと受け取り、アニエスは急いで左手を床に伸ばす。
絨毯の下だ。一体いつ、どうやって、こんなところに仕掛けたのだろうか。
大きな一枚ものの絨毯だが、アニエスはさほど迷った様子もなく、端から巻き上げ始めた。
ハージェは驚いた様子だったが、それでも声はかけず、慣れたふうにも見えるアニエスを見下ろしていた。
やがて、絨毯の下からなにかが出てきたとき、ハージェは思わずアニエスに近寄った。
のぞきこまれてびくりとアニエスがわずかに身を引く。
それにハージェは冷たく一瞥しただけで、再び距離を取った。
アニエスは丁寧に絨毯を戻し、いつもどおりの解除作業をする。
作業袋にそれを放り込むと、改めて部屋中を見回した。
丹念に、丹念に。
でも、左目は反応しない。
壁際をぐるりと歩いてみる。
でも、左手も左足も反応しない。
(すんだ、か?)
そう、思った。
瞬間に。
「……済んだのか」
じっと黙って無視を決め込んでいたハージェが声をかけてきた。
ぎょっとした。
この人は、自分の顔色がわかるのだろうかと、不思議に思った。
「黙れとはもう言わないんだな」
アニエスは彼を見返した。
そして……かすかにこくんと頷いた。
時間を確認する。ほぼ予定通りだ。
これからこの部屋を退散すれば、誰にも会わないはずだった。
どうしてイーシス・ハージェがこんなに早く来たかは知らないが。
「それで? それはなんだ?」
薄い青の視線は、アニエスの手元に向けられていた。
この作業袋は、一般にはとても出回っていない、どんなセンサーにも反応しない高度のセキュリティを目指してつくられたものだ。
一見ただの袋にしか見えないが、ただの布ではないことは、注意深く見ればわかることではある。
「なぜ答えない? その中の盗聴器、機能はすでに無効にしてあるのだろう?」
求めているはずの答えを自ら口に乗せて、ハージェはにやりと笑った。
アニエスは、それでも無表情のまま彼を見返す。
多少驚きはするが、まあやっていることを見れば、わからなくもないだろう。
「……ああ」
アニエスは慎重に答えた。
初めて発せられたアニエスの声に、ハージェはちょっと目を瞠る。
それがどういう意味か、アニエスにはよくわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。
収穫は終わりだ。この部屋にいる必要は、もうない。
左耳が、その音を捉えた。
時間通り。そのはずだった。
「それで。おまえはどこの手先だ」
イーシス・ハージェがアニエスに一歩近づいた。
アニエスはちらと一瞥すると、視線をそらした。
足音は近づいてくるが、ハージェには聞こえない音だ。
アニエスは天井を見上げる。
「答えろ。なんなら力づくで吐かせてやろうか?」
脅しのような、からかいのような口調でイーシス・ハージェがさらに一歩アニエスに近づいたとき。
アニエスは床を蹴った。
そして、壁を駆け上がったように、見えただろう。
ロス・クライムの裏通路、通称『イカロス』にアニエスは飛び込んだ。
要はフロアとフロアの間に、通路が設けられているだけだが、正常な入り口がどこにもないのだ。
各部屋に隠し通路として繋がっている、以外。
アニエスはその部屋から、姿を消した。
突然アニエスの姿が消えて、いや天井に飛び込んでいったのを見て、ハージェはさすがに驚いた。
(なんだ、あの女……)
はじめは議員の一人かと思ったが、どうも自分と同年代だったので、自分が知らないはずはないと思った。
近寄ってみると着ているスーツが議員のものとは少し違うことに気づいた。
けれど、かもし出している雰囲気が、とても只者とは思えなかった。
(……?)
彼女が消えた天上を見上げるが、そこには何もない。
どうやってあそこに登って行ったのか、それさえもよくわからない。
そのとき入り口でロックを解除する機械音がした。
ドアが開いて、同僚が現れる。
「なんだ、イーシス。変な顔をして」
「……開口一番、人の顔を変とはなんだ、アーク」
イーシス・ハージェは踵を返した。
中央に設えられているソファに身を投げ出す。
随分な数の盗聴器を解除していった、奇妙な女のことを、同僚に告げる気には、ならなかった。