果樹園 2

 その報告を受けたとき、ジュエは思わず吹き出してしまった。
「姉上は手厳しいな」
 執務室の椅子で伸びをしながら、自らの侍女の言葉に笑って応じた。
「して、その金の姫は?」
「はい、宮のほうへと戻られていらっしゃるはずですが……」
「ふうん? 誰か彼女に監視をつけとけよ」
「……かしこまりました」
 侍女のヴェスタが一礼する。
 そして背を向けようとするのをジュエは呼び止めた。

「一姉と二姉はどうなさっている?」
「は、それぞれ通常のご公務をこなされておりますが」
「ああ……宮の雑用か」

 公務を雑用と言い捨てて、レオの星主は立ち上がった。

「銀の姫が戻るまで、姉上のご機嫌伺いにでも参ろうか」
 いきなり歩き出す星主に、ヴェスタがちらりと机を見るが、そこにはいつも山積みになっている書類がほとんどない。
 そんな侍女に気付いて、ジュエはにやりと笑って見せた。

「本当は今日一日、銀の姫に差し上げる予定だったからな」

 それを三姉が横取りしたんだ、と不服そうに言えば、ヴェスタがくすと笑った。
「かしこまりました。姫様がお戻りになられましたら、すぐにお通しいたします」
「頼んだ」
 うむ、と頷いてジュエが歩き出す。
「……そして我らが主さまはどちらへ?」
「姉上の機嫌伺いと言っただろう? おまえもついて参れ」
「かしこまりました」
 いきなりの予定に、けれど侍女は驚きもせず、先に歩き出すとドアを開けた。


 途中幾重にも警備が巡らされたレオの星主の住まいがある塔を降りると、ジュエはすぐに隣の塔へと足を向けた。
 そこは獅子宮でも重厚な造りの塔、執政宮だ。
 老使いから見習いからさまざまな人間がいて、もっとも活気のある宮と言ってもよかった。

 ジュエも自らの塔とこの執政宮を行き来するのが通常の生活で、
 だから宮のものも、星主が歩いていたからと言って驚いたりはしない。

 のだが。

 驚いたのは、レオの君のほうだった。
 思わず額を押さえる。

「すぐに人を呼びます」
 同様に気付いたヴェスタが背後で走り出そうとしたそのとき、
 視線の先の人は、レオの星主に気付いた。
 ……気付いてしまった。
 まあ、これだけ目立つ存在を、見過ごすほうがどうかしているとは思うが。
「まあ、レオの君!」
 彼女は甘ったるい声でその名を呼び、花でも背負っているのではないかという華やかさで微笑んだ。
 確かに美しい姫ではある。
 銀の姫とも確かに似てはいる。
 が、どうしてこんなに印象が違うのだろう。
 色彩の違いだけではないと思う。
「これは……キャンサーのかた」
 レオが声をかけた。
 ヴェスタは不思議そうな顔をしたが、見上げた先の星主が、どこかにやりと笑っていたので、黙って付き従い、駆け寄ってきた隣国の姫君に静かに頭を下げた。
「このようなところで、どうされた?」
「こちらは執政宮のようですので、レオの君にお会いできるかと思いまして待っておりましたのよ」
 レオの君の口調は、侍女に対するものではなかったが、キャンサーの金の姫は気にしたふうでもなかった。
「ほう? 其方の星主どのは?」
 キャンサーの星主の居場所など、もちろんレオの君は知っているが、訊ねてみる。
 すると金の姫は少しばかり、むっとしてみせた。
「姫さまは三姫さまとお庭の散策ですわ」
「ふむ、三姫はそれが好きだからな。して、其方は同行せずとて良いのか?」
 三姉に追い返されたことは知っている。
 律儀に侍女たちはそんなことも伝えてくる。
 なのでジュエはカヤに会っておらずとも、彼女が過ごしている様子をかなりよく知っていた。
「三姫さまについてこなくてよいと言い渡されましたの」
 それに、同情しろというのだろうか。
 ひどいと?
 彼女の言い分はよくわからない。
 が、言葉のたびにジュエに擦り寄ってくる。
 いちいちジュエも振り払ったりしないので、隣をぴったりついてくる。
 カヤにはない積極性だな、なんて思いながら歩く。
 そんな金の姫を、まるで気にしていないようにジュエは歩き続ける。
 目的地はこの先だ。
 重厚な造りの扉の前をいくつか素通りし、ひとつの前で足を止める。
「まあ、こんなところに、何の御用が?」
 怪訝に思ったらしいキャンサーの金の姫が胡散臭そうに扉を見やる。
 飾り気のない扉は、どちらかというと質素というか、見劣りするようなものだ。
 が、レオの君は気にしない。
 後ろに控えていたヴェスタが、さっと回り込んで扉を軽く叩いた。
「主さまのお越しです」
 そして中からの返事を待たずに扉を開ける。
 通常ならふたりの侍女が両側から開けるべき扉を、ヴェスタが開けた片方の間口から、レオの君はすたすたと入っていく。
「お勤めご苦労様です、姉上」
 数歩入ると、後ろから見てもそれは優雅に、レオの君は一礼した。
 金の姫はそれを覗き込む。
 中はやはり簡素な部屋で、老使いではなさそうな、若い複数の男女が大机に向かっていた。
 星主の登場に立ち上がろうとする一同に、レオの君はさり気なく手を挙げそれを制す。
「これは主さま。いかがされた」
 レオの至高の星主の前で、立ち上がる素振りも見せなかったのは、レオの一姫だ。
 一同を同じ机に向かって座っている。
 彼らが手に紙やらペンやら持っているのに対し、一姫はただそこに座っているだけのように見えた。
 部屋の中には数名の侍女がいるらしいが、読書をするでもない、刺繍をするでもない、お茶を楽しむでもない。
 レオの君が着ているのをどこか似た、飾り気のない服装をしている。
 にもかかわらず、ひどく高貴な雰囲気を纏っていた。
 背のない椅子に座っているのに、まるで糸で吊られたように背筋の伸びた、美しい姿勢をしているからだろうか。
「なにということはありませんがね。姉上が今日も若手の教育に手をお貸しと聞きましたので、労いに」
「おや、視察か。それとも刺客かの」
「これはひどいことを」
 くすくすと笑うレオの君の前で、若者たちが緊張した面持ちで固まっている。
「せっかく勉学に励んでおるのに、其方がおっては彼らが凍り付いて前に進まぬゆえ」
「それは困りますね。ではやはり慣れてもらわないと」
 言うなりレオの君はひょいと近くにいた者の手元を覗き込んだ。
「ふむ、産業についてだな」
 そしてさらに隣の者を覗き込む。
「ワインひとつとっても、産地の特徴や流通の流れを知っているだけで、選ぶ参考になるぞ」
「主さま、それは政とは関係ありませぬ」
「おや、これは失礼」
 くす、と笑ってジュエは机から離れる。
 座ったままの一姉に向き直る。
「お邪魔でしたかね」
「いや。彼らによい刺激となったであろう。我らはこのレオのために、星主殿の元で働いているのだという自覚を持ってもらえただろう」
 言って一同を見渡すと、背筋を伸ばしてごくりと喉を鳴らす者が幾人もいた。
 レオの君がにこりと微笑んだ。
 それは言ってしまえば外交用の綺麗な笑顔なのだが、星主とは民に慕われなければ意味がない、といつも口にしているとおり、必要な美しさだった。
「ご指導を中断させて失礼しました。わたしはこれで」
 レオの君が座ったままの一姉に優雅に一礼する。
 一姫はうむ、と頷いて、それから、ぽつりと付け足すように呟いた。
「主殿。ケレスを貸そうか」
 ケレスは銀の姫に付けている侍女のひとりだが、本来はこの一姉の侍女だ。
 一姫が視線を向けると侍女が動き、隣接する部屋からケレスが呼ばれた。
 ケレスは部屋に入ってレオの君に一礼し、そして、ちらっとその背後に目をやった。
 キャンサーの金の姫だ。
「そうですね。ありがたくお借りしましょうか」
 ジュエはくすりと笑って侍女を借り受けた。
 退室しようと踵を返したら、金の姫が華やかな顔を曇らせて、ケレスのほうを睨んでいた。
 彼女は一度、ケレスに頬を張られたことがある。
 あれはダンスホールに出向いた日だから一昨日か。
 昨日もケレスに食って掛かっていたのを見かけたから、相当相性が悪いだろうと思う。
 それをわかってケレスを借りた。
 おそらく、ケレスもわかってついてくるのだろう。
 レオの君が部屋を出て、背後で閉まる扉の隙間から、姉が凛と話し始める声がわずかに聞こえた。

2008/07/18