正統なる姫、と自称するアスカが、普段キャンサーの巨蟹宮でどんな生活を送っているのか、カヤは知るところではないのだが、今日一日、彼女はじっとカヤの側で、なにを話すでもなく付き従っていた。
もちろん侍女のように世話をしてくれるわけでもないし、彼女だって普段は控えさせているのだろう侍女をつれていない。
言ってみれば、カヤと同じような扱いなわけだ。
といって、とくに不満を口にするわけでもない。
キャンサーの姫君はなにを思っているんだろうな、と考えた。
レオの君……ジュエについて、地方の視察にまわった。
カヤは同じ一領土の星主でありながら、まだ地方視察というのに出たことがない。
これは必要なことだ、とは思うが、果たしてキャンサーにおいて、それは自分がしなければならないことなのか?
それとも、必要とされていないのか?
その夜。
いつもなら、呼んでもいないレオの君が、部屋にやってくる時間に、カヤはそのレオの君に呼び出された。
毎夜の訪問に呆れてはいたものの、慣れてしまっていたのも事実で、その呼び出しには軽く驚いた。
ケレスに案内された部屋は、カヤに与えられた部屋から近かったが、これまで足を踏み入れたことのない部屋だった。
夜着にガウンという格好で、果たして面会というのは間違ってないだろうかと思うのだが、それでいいとわざわざ先方から言付けがあったそうだから、この際気にしない。
驚いたのは、相変わらずきっちりした格好で、どこで聞きつけたのかアスカがくっついてきたことだ。
ご苦労なことだ、と皮肉を思う。
まあ、よい。
カヤを呼びつけた金の星主は、こちらも簡易の服で、あるいはあれで眠ることもあるのかもしれない、という格好だった。
カヤの知る限り、彼はいつだって仕事をしている。
しなければ溜まるだけだと言ったのはいつだったか。
「就寝前に呼びつけて悪かったな」
簡素なテーブルに頬杖をついて、足を組んだままレオの君が言った。
一見機嫌が悪いのだろうか、とも思うが、表情はこれといっていつもとかわらない。
そこへ脇の扉からユノーが現れ、お茶を置いていった。
「まあ、座れ。少し話をしようと思って呼んだ」
「……なんだか改まっているな。真面目な話か?」
「俺はいつでも大真面目なんだが」
「……そういうことにしておこう」
慎重に、でもいつものように切り返せば、頬杖の口元がふっと吊り上った。
「真面目な、と言えばそう、おそらくおまえが言うように真面目な話なんだろうな。キャンサーのことを聞きたい、銀の姫」
レオの君の正面に座れば、金の星主は用件を告げた。
「ふむ。わたしにわかることならな」
「これはおかしいな、其方、星主だろうが」
「まあ、一応」
答えて肩を竦める。
事実、その程度なのだから仕方がない。
「おまえは視察にはどれくらい行った? まだ行ったことがないか?」
片頬杖だったのを両手に組み替え、こちらを覗くように訊ねてきた。
「今日のような、か? わたしは行ったことはないな。星主になってから、星集会以外の用件で、巨蟹宮を出たことがない」
「ほう。それはとんだ箱入り姫君だ」
「随分な言い草だが、事実なので言い返せぬ」
「なるほど」
ふうむ、と唸るように頷く。
「しかし星見の丘の結界は星主の舞でないと強化されないぞ」
「……そう、らしいな。そのことはここにきて初めて聞いた」
「ほう? おまえを宮に閉じ込めている老使いやら教師やらはそれを教えてはくれなかった?」
「残念ながら」
レオの君ががしがしっと金髪を掻いた。
「前代の星主は星見の丘を回っていた様子か?」
「悲しいかな、わたしは知らない」
溜息をつき、カヤは背後に控えている同胞を振り返った。
「アスカ、そなた知っているか?」
「……」
話を振られたアスカは驚いた様子ではなく、けれど、口をへの字に結んだまま喋ろうとしなかった。
そこへ。
「キャンサーの娘、許可する、知っていることを申せ」
ジュエが、随分と高飛車に言い放った。
いつもは彼の侍女に対してあんなふうには言わない、と思う。
やはり、彼は少し機嫌が悪いのかもしれない。
「……恐れながら」
ぽつり、とアスカが口を開いた。
なまじ教養も矜持もある姫だ。
レオの君が自分よりはるかに上の人間だということをわからないはずはない。
「わたくしの知る限り、先の我らが星主が、今日のレオの君のような視察や舞の奉納をされていたとは、聞いておりません」
「奉納をしてない?」
ぴくり、とジュエの眉が吊り上った。
そして自らの両手に顔を半ば埋める。
「……レオの君?」
カヤは、ジュエがなにを思っているのかわからず、その顔を覗きこむ。
レオの君は、目だけを上げてカヤを見返した。
「其方が悪いとは言わないが……此度、其方の領土に戻られたら折を見て丘をまわられよ、キャンサーの星主殿」
まっすぐ突き刺すような言葉に、カヤは少しだけ、震えた。
ジュエが、自分のことを、キャンサーの星主と呼んだのはいつ以来だろうと思う。
ここへ来てからは銀の姫か、あるいは名で呼ばれていた。
それが当たり前になっていた。
カヤは少し、背筋を伸ばした。
「そのことの重要性はよく学んだ。胆に命じておく」
「ぜひとも頼む」
レオの君はふうっと息を吐いた。
「話とはそのことだ。一応俺の用件はそれだけだが、ついでだ。おまえ、なにかいいたいことがあるか? 聞いてやるぞ」
あっという間にいつもの調子に戻った。
ということは、これが普通のジュエで、さっきまでのはレオの星主だったというわけか。
「いいたいこと、か」
なんとなくカヤも息を吐いて、ユノーが置いていった茶器に手を伸ばした。
冷めてはいるがよい香りがしてくる。
なにか、花の茶らしい。
「ついでというなら聞いてみよう」
「ふん、なんだ」
「なぜ貴殿は、キャンサーの星主が星見の丘に舞を奉納しているか、など訊ねたのだ?」
レオの君は、頬杖を解いて、今度は椅子に背を預けた。
「丘で舞を奉納しないと、領土の隅々まで我らの祈りが届かない。良きものは伝わる。そして悪しきものも伝わる。隣の領土が腐るとこちらに飛んで来るからな。忠告したまでだ。どうだ、当然だろう?」
酷い言い様ではあるが、事実だ。
カヤは頷いた。
「……なるほど、そうだな」
「俺はキャンサーにしても、バーゴにしても、内紛がくすぶろうが土地が枯れようが知ったことではない。が、それが原因で我らが誇る豊かなこのレオを汚されるのは御免被る。お分かりか?」
「ごもっともだ。重々承知」
「ならばよい。此度新たな星主を迎えたキャンサーに繁栄あらんことを」
知ったことではない、とたった今言った口で嘯く。
レオの君が茶器の茶を一気に飲み干した。
カラになった器をちらっと見て、ふと、呟いた。
「これは、姉上の茶だな」
「姉上さま……、三姫さま?」
「ああ、そうだ。おまえを明日、果樹園に連れて行くと言ってそういえばはしゃいでおられた」
「はあ……。それはわたしも楽しみにしているが」
「ふうん? 其方、茶が好きなのか?」
金の星主は、その星主の衣を脱いで今、ジュエに戻ってカヤを見返す。
おかしな男だ、と思っていたカヤは、そうではない、と気付いた。
やっと、気付いたというべきか。
この男、裏表があるわけではない。
仕事とそうでないところを、きちんと使い分けているだけなのではないのか?
「え、いや、茶が、というか……。三姫さまの果樹園はお茶用なのか?」
「ふむ、俺がここで説明すると姉上に叱られそうだが。お茶用というわけではないが、ま、姉上は茶が好きだからな。そうだ。おまえも明日、下手に気に入ったでも言おうものなら、手土産が増えるぞ」
言って面白そうに笑う。
なんとなくそれは想像がついて、思わず納得する。
「わ、わかった。ほどほどにする」
「そう、ほどほどにな。姉上の機嫌も取ってやってくれ」
そしてくつくつと笑う。
きっとこの男は、どんなことを言えば姉がどんな反応をするかわかって言っているのだろう。
至高の星主の姉、というのは、また不思議な存在だ。
レオの君が立ち上がった。
「部屋まで送ろう」
テーブルを回り込んでカヤに手を差し出す。
カヤはその手を見つめて、ちら、とジュエの顔を見上げた。
するとジュエはわざとらしく片目を瞑って見せた。
「淑女をお送りするのが紳士というものだ」
「……また戯言を」
カヤが吐き出すとジュエはぷっと吹いて、勝手にカヤの手を取った。
そして引っ張ってカヤを立ち上がらせる。
「貴殿は本当に強引だ」
「其方はまったく素直でないな」
可笑しそうに言って歩き出す。
カヤは仕方ないので連れられて歩き出す。
これがジュエなのだ。レオの君でもあるが、むしろ、ジュエなのだ。
きっと、彼は自身がジュエとして振舞っているときはその名で呼ばれたいのではないか、となんとなく思った。
もちろん、ほかに人がいないとき、という制限はあるが。
「レオの君」
自分をエスコートする男の名を呼んだ。
ちろっとこちらを振り返る男は、知っている限りいつもの彼だ。
「なんだ?」
「貴殿、わたしを呼んだとき、機嫌が悪かったか?」
「……ほう?」
思い切って聞いてみた。
あれは、単に星主の顔だったのか。それとも、本当に機嫌が悪かったのか。
ジュエは感心したように一瞬足を止めてカヤを振り返った。
が、すぐに歩き出す。
「そんなふうに言われたのは初めてだ」
その台詞を言われたのは、初めてでない気がする。
「やはりおまえ、俺のことをだいぶ理解してきたようでなによりだ」
……その台詞も、言われた気がする。
「なにが、なにより、だ」
ぼそっと言い返すと、くつくつと笑われた。
が、ふと気付く。
「なんだ、今其方、否定しなかったな。機嫌が悪かったのか」
「おや、誤魔化されなかったな。ふん、まあ、そんなところだ。今日せっかく舞いに行ったのに、別のところが綻んでいるかもしれないという報告を受けた。それでおまえのところのことを思い出したのさ」
「……それは」
カヤはジュエを見上げた。
「それは、キャンサーに近い丘なのか? キャンサーに近い場所のほうが綻び易い?」
さすがのカヤも不安になって、訊ねると、ジュエは、一瞬ひどく鋭い視線でカヤを見下ろし、それから軽い調子で肩を竦めた。
「隠しても仕方ないな。まあ、そういう事実もある」
「…………そう、か」
「其方が少しでも覚えていてくれると俺も助かる」
「ご助言、感謝する」
「どういたしまして」
そしてカヤの部屋の前でジュエは足を止める。
「あと、二日か……」
ぼそり、とカヤの耳元でジュエが呟いた。
振り向くと、金の星主の蒼の瞳と目があった。
鋭くも、冷たくもなかった。
つ、とジュエの指が伸びてカヤの頬を撫でると、まるでそれが一瞬の夢のようにレオの君は背を向けた。
「ではまた、明日」
「え、ああ、お、おやすみなさい」
肩越しに手を振ってすたすたと去っていく。
返事もなかった。
やっぱりおかしな男だ、と思った。
一緒にレオの君の背中を見送ったアスカは、カヤに挨拶もなく踵を返す。
カヤはひとつ大きく息を吐いて、自らに与えられた部屋の扉を押した。