とろん、と眠たそうな顔をしていた。
扉にもたれた姿は今にも眠ってしまいそうで、思い悩んで眠れぬよりは、疲れて眠れる夜がよかろうと、詰め込んだ予定はきつ過ぎただろうか。
けれど、彼女が疲れた様子を見せるのは、就寝直前のあの時間だけだ。
だから……たぶん、大丈夫だ。
カヤの部屋から戻ったジュエは、そんなカヤを思い出しながら、書類の山を少しだけ低くする作業をして、そしてやっと寝台にもぐった。
横になった次の瞬間には眠りについていた。
朝一番にそこへ行くと、なにやら騒がしかった。
顔を出せばすぐに振り返ったのは、銀の姫だった。
困ったような顔でジュエに向かってなにか言いかけたのを。
「おはよう」
さっさと近寄って先手を打つ。
「あ、ああ、お、おはよう……ございます」
「どうした。よく眠れたか?」
「それはぐっすり」
「ならばよかった。で、このにぎやかなのはなんだ?」
別に、カヤを困らせたいわけではなかったが、無視するのもどうかと思ったので一応訊いたという感じだ。
騒ぎの元凶は、キャンサーの金の姫だった。
「……申し訳ない、レオの君」
ぽそり、とカヤがささやく。
「ふーん」
興味なく騒いでいる彼女たちから目を逸らす。
今日のカヤは、ワインのような濃く深い赤色のドレスを着ていた。
これは……ジュエが贈ったものだ。
彼女には伝えられていないはずだが。
「その……お詫び申し上げる」
止めるだけの力もなく、だから謝るしかない。
俯いた顔がちら、とこちらを見る。
「まあいい。詫びよりも……そうだな、俺の名を呼べ」
「……。貴様、どういう趣味をしている」
一転、いつもの彼女に戻ったので、ジュエは思わず口元を吊り上げた。
「其方がなかなか呼んでくれないからな」
「名など、そうそう呼ぶものではないだろう」
額を曇らせて抗議するカヤに、ジュエは手を伸ばし、肩を抱き寄せた。
カヤがぎょっとしたような顔をする。
昨晩は同じことをしてもまったく反応しなかったのだ。
「カヤ」
周囲に人がいるので彼らには聞こえないように。
耳に唇が触れるほど近づけて、その名を呼ぶ。
カヤの身体がびくりと揺れて、そして手で押し返された。
「なにをするか、貴様はっ」
「おや、昨夜は抵抗などしなかっただろう?」
「…………」
わずかに頬を染めて、カヤは大きく息を吸って、吐きだした。
「出発しなくてよろしいので、レオの君」
わざと少し大きな声で、ちょっと怒ったような声で言う。
ジュエはくく、と笑って、カヤの肩をぽんと叩いた。
「よし、では行くぞ」
ジュエが呼ばわれば、そろった返事が返されて、従者が一斉に動き出す。
昨夜の続きか、金の姫君がケレスに食って掛かっていたのにもあっさり終止符がつく。
なぜならケレスたち三人が、用意のためにカヤの元へ走ってきたからだ。
金の姫は無視されたように取り残される。
が、たくましくも自らずんずん歩いてカヤの方へと向かっていった。
ジュエは、引いてこられた自らの馬に、従者の手など借りずに身軽く飛び乗る。
今日は、視察だ。
視察とは言うが、要は、星主の顔見世なのだ。
城に閉じこもって、年に数度の奉納の舞を遠くから見るだけでは、民は星主を愛しはしない。
それでは民と土地を護れない。
すべからく、人々に親しまれる存在でなくてはならない。
だから、星主たる自分は馬に乗り、走るのではなく歩いて移動する。
道中、多くの民にその姿を見せることが、最も重要な仕事なのだ。
カヤと自称侍女の姫を乗せた車の戸が閉まる。
待たなければならない支度など、それくらいのものだ。
「では行って参る」
「いってらっしゃいませ」
見送りの侍女たちの声に、数少ない騎馬の一行は獅子宮を出発した。
星見の丘のふもとで、一行は止まり、地元の民と共に祈りを捧げる儀式を行ったが、その際、車には声をかけなかった。
「主さま。銀の姫をお呼びしなくてよろしいのですか?」
「ああ、かまわん。昼までは戸を開けないという約束なのだ」
出立の直前にそう告げた。
正確には約束ではなく、ジュエがそう言い渡しただけなのだが。
だからなのか、本当にカヤは眠っているのか、車はやけに静かだった。
ジュエたちの一行が足を止めたのは、丘のふもとの町を行幸した後だった。
町で休むことも出来るが、一行はそうはせず、星見の丘の中腹にて馬の足を止めた。
周囲に休んでよいと命を出し、自ら車へと近づく。
約束どおり、ジュエ自身が戸を開けてやるためだ。
車が止まり、外の声も聞こえているだろうから、カヤも気付いているはずだ。
ジュエがその戸を開けてくれるのを、待っていてくれるだろうか。
それとも……お疲れの姫はまだ眠っているだろうか。
「銀の姫」
戸の前で声をかける。
「……レオの君」
いつもの、どこか冷めたような声で返事が返された。
ジュエはほんの少し笑みを浮かべて、それから勢いよく戸を引いた。
「きゃっ!」
まるでかわいらしく悲鳴を上げたのは、無論、ジュエが愛しんでいる銀の姫ではなく、その親族であろう、金の姫のほうだった。
ジュエはその声を無視して、カヤに微笑みかけた。
「休憩だ。其方も降りてまいれ」
「……ああ」
カヤも金の姫には頓着せずに、無造作に頷くとひとりでさくさくと車を降りようとする。
「おい、少しは俺に手を貸させろ」
「なに、ひとりで平気だ」
にやりと笑うカヤに、ジュエは、なぜか満足してしまう。
そう、この女はこういう女だ。
だからこそ、自分は彼女が気に入っているのだ。
「……本当に、侍女の一人も連れていないのか」
くつろいだ雰囲気の周囲を見渡して、カヤが訊ねてきた。
「ああ。ここにいるのは俺の腹心たちだ。人の手など借りずとも自分のことは自分でする」
「そうか。……其方のことも?」
「うん? 俺の?」
「ああ、休憩、というか、昼餉の時間かと思ったのだが」
「なるほど。そうだな、俺のことも彼らがやってくれる」
カヤは食事の支度のことを言っているのだ、と気付いた。
ジュエたちはいつもの行程だったので、あまり気にしていなかったのだが、初めて同行する彼女には不思議に見えたのかもしれない。
「だいたい俺は普段から、侍女になんでもしてもらわねばならんような男ではない」
「それは……不快に思ったのなら失礼、謝る」
少し困惑した顔で、素直に謝ってくるカヤに、ジュエは笑って手を伸ばした。
まるで月の光のような、銀色の髪に触れる。
この髪が、銀色をしているから彼女は星主なのだ。
この色だからこそ、彼女は縛られている。
もし、銀の髪をもっていなければ、彼女は星主ではなく、それならばジュエはさっさと彼女をさらうことができたのに。
……否。
カヤが星主でなければ、生まれの違う自分たちは、出会うこともなかったか。
自分は太陽。
彼女は月。
同じ空にありながら、相反し、出会いながらも触れることなどありえない。
(……いや)
違う。
太陽ではない、月でもない。
自分はジュエで、彼女はカヤ。それだけだ。
自分は、彼女に触れることができる。
できるはずだ。
ジュエはカヤの髪から手を離し、その手を握った。
「……っ! な、なんだ」
驚くカヤの手を引き歩き出す。
「ついて来い」
ジュエが歩くと、かしゃかしゃと装飾品の揺れる音がする。
レオの星主は今、星主として顔見世するために、正装していた。
金の刺繍の施されたマントの下には、儀礼用の細身の剣が吊るされている。
「レオの君、姫さま、どちらへ?」
声をかけられて、ジュエは不覚にも驚いた。
振り向けば、金の姫君が追いかけて来たところだった。
部下たちには彼女のことはかまわなくていいと言ってあるから、多分誰からも相手にされなかっただろう金の姫は、当然のようにジュエたちを追ってきていた。
「おまえには用はない。車のところで待っていろ」
ジュエが命令すると、育ちの良い姫君は、わずかに眉を引きつらせながらも、カヤとは違う豪奢な笑みを浮かべて反抗した。
「わたくしは姫さまの侍女ですから、お側を離れるわけにはいきません」
侍女らしいことなどしたこともないくせに、そう言い訳する。
ちらとカヤを見れば、素知らぬ顔で視線を逸らしている。
ジュエは内心苦笑しつつ金の姫君に告げた。
「結構なことだ。が、しかし、この先は星見の丘。見よ、我が忠臣たちですらここから先へは供をせぬ。わたしがお招きするのはキャンサーの星主殿ただひとりだ」
言うと、金の姫の反応など見もせずに、カヤの手を引いて歩き出す。
それは、事実だ。
この先は、星主しか足を踏み入れてはならない場所。
カヤの手を引いて丘を登り始めると、ところどころに神聖な場所であることを示す
結紋が目に入る。
頂上に登りつめると、ジュエはカヤを促した。
「あれが、見えるか」
ジュエの示す先に目をやったカヤの表情に、彼女が答えを得たことがうかがえた。
「其方を降ろしはしなかったが、先ほど立ち寄った町だ」
眼下にはふもとの町が見下ろせた。
そして、町からはこちらを見上げている人が大勢いた。
いや、実際にはそこにいる人々など見えはしないのだが、多くの人がいることだけはわかった。
カヤにも、わかったのだろう。
「……其方が今日、ここへくることを、レオの町の人々は、知っていたのか?」
レオの民を見下ろしながら、カヤが小さな声で訊ねた。
「ああ、知っている。知らせてある。星主が来る、舞を奉納する、ならばそれを見に行こう。彼らはだから、ここへ集まっている」
じり、とカヤが後退った。
「……そうか」
カヤが、何を思っているのか、ジュエには正確にはわからない。
悔しそうな、畏れたような顔をする。
ジュエというレオの星主への、民の圧倒的な支持に圧されているのだろうとは思う。
彼女は同じ立場でありながら、持ち得ないものだから。
いや、そんなことを、あるいはキャンサーの宮は考えていないのかもしれない。
それが代々受け継がれてきた宮家の考え方ならそれでもかまわないのだが。
口をきつく結んでしまったカヤの手を離した。
星見の丘には必ず一本だけ木が植えてある。
町から見上げたときに、あそこで星主が舞いを収めるのだと、目印になるように。
人々が見上げて、その木を目にするたびに、星主とその舞を思い出せるように。
「おまえはそこで見ていろ」
軽く肩を押せば、カヤはこくんと頷いて、天頂近い太陽が落とすわずかな木陰へと下がった。
白地に金の刺繍が施されたマントを、わざと大きく払う。
陽光に煌くのは、けれどマントだけではない。
黄金色のジュエの髪と。
そしてすらりと抜き放たれた、剣。
ここから町の人の動きなど見えはしない。
それは逆も同じことだ。
人々からジュエの手の動きなど見えはしないのだが、それでも、見えるのだ。
まるで、光が舞いを舞っているように。
剣を振る。
地面を蹴って、舞う。
光を反射し、まるで、ジュエ自身が輝いているように。
祈りを込めて。
それができるのは自分だけ。
レオの星主である自分だけ。
力はある。
技量もある。
そして、想いもある。
だから、自分にはできる。
だから、星主の舞いは美しい。
ジュエは、レオの星主は、レオで一番美しく、舞いを奉納した。