ほぼ一日ダンスの特訓に明け暮れ、湯浴みを済ませた後日課になっている香油攻めに、すでに文句を言う気力もなく、控えめに頼むぞとだけ言って、あとはいつもどおりケレスとパレスにされるがまま。
疲れた身体に、二人の侍女の手は気持ちよかった。
そのとき、扉の外から声がした。
が、遠いのか会話の内容まではわからない。
「外に誰かいらっしゃるのか?」
カヤはよくわからず、半ばぼんやりしたまま訊ねた。
「さあ、どなたかがお見えになるとは聞いておりませんが。でも外にはユノーを控えさせておりますから、大丈夫ですよ、姫さま」
とは言いつつ、手早く済ませてカヤの背中に寝巻きをかけてくる。
「……アスカは?」
立ち去る様子のない外の気配に、ふと、一日中自分に張り付いていた金の姫を思い出す。
彼女は今、この部屋にいない。
「これは失礼。アスカさんも外にお控えです」
相手は侍女、ということにはなっているが、やはり客人は客人なのか、ケレスたちはアスカにもとてもよくしてくれる。
が、そのことに、アスカが気付いているのか、カヤとしては少々疑問だった。
なにしろアスカは、カヤとはちがって、生粋のお姫様らしい。
侍女に仕えられることに慣れているのだ。
フリでいいから、もう少し侍女らしく振舞ってくれないだろうか、とカヤは思っている。
が、まあ、無理なんだろう。
どうもなにか気付いているらしいレオの様子から、最悪のことにはなるまいとタカをくくっているのだが。
でなければ、やってられない。
カヤの寝支度を整えつつ、ケレスがパレスに言った。
「パレス、外の様子を見てきてもらえるかしら」
「はい、そうですね」
二人とも気になっていたらしく、言われるとすぐにケレスは扉を開けた。
そこで。
目に入ったのは。
「あ……アスカ、さん?」
ケレスの声が届いた。
扉の前にいたのは、黄金色の。
カヤは溜息をつきそうになるのを、ぐっと飲み込み、こういう場合はどんな表情をするのが正しい姫君なんだろう、と真剣に考えた。
答えなんて、わからなかったけれど。
そこにいたのは金色の。
レオの星主だった。
そして彼にしなだれかかる……キャンサーの金の姫。
ずっとなにかしら行動を起こそうと狙っていた雰囲気ではあったけれど。
普段の彼女のことをまったく知らないカヤからは、予想なんてできなかった。
レオの君に接触しようと、目に留まろうと、なにかしでかすとは思っていたけれど。
(キャンサーには、品格ってないのか?)
思いっきり媚びる表情のアスカに、カヤはふと、巨蟹宮の女たちを思い出そうとする。
が、残念ながら、あまり個人として記憶にないので、印象もあやふやだった。
「アスカさん? どうされたのですか?」
その異様な雰囲気に、カヤについている三人の侍女の内、最年長で仕切り役のケレスが、すたすた、と歩み出た。
けれどカヤは、ひとり考え事をしていたので、それには気付かなかった。
そういえば、レオの君から手紙が届いたとき、カヤが色仕掛けを使ったとかどうとかいう話題もあったような。
つまりは巨蟹宮ではそれもひとつの手段の内なのだろうか……?
「どうされた、ですって? いいえ、別にどうもいたしませんことよ?」
艶やかな笑みを含んだ物言いに、カヤが感想を抱く、その前に。
ぱーん、と。
思わず目を上げるような小気味のよい音がした。
「な……っ」
そこでカヤは、改めて扉のほうに目をやる。
いつの間にか外にいたはずのユノーが自分の傍まで来ていた。
持ち場逆転ということか。
一時的とはいえ、仕えている姫から離れない、彼女たちは優秀な宮仕えなのだ。
「あなた……あなた、わたくしに、何をしまして!?」
アスカが片手で頬を押さえて、怒りに目を吊り上げた。
彼女は、自分と似ていると思えるところがいくつもあるのだが、残念ながら全体としてはあまり似ていない。
いやそれは、果たして残念だったのか、幸運だったのか?
「あなたがご体験になったとおりです。ご理解いただけませんでしたか?」
凛とした姿勢のケレスは、この宮の姫ではない。
侍女だ。
一介の侍女でしかないはずのケレスだけれど、それは気高く美しく見えた。
巨蟹宮にあんな侍女はいない。
「わたくしに手を上げた? 侍女のあなたが?」
アスカは、目を白黒させて驚きと怒りで震えている。
おそらく彼女の人生で初めての出来事だったに違いない、とカヤはぼんやり思った。
「あなたに、どのような権限がおありだと言うのかしら!」
それでも美しい発音と言葉遣いで喋るのは、やはりそういう育ちなんだな、と思う。
そんなところに差がでるのだな、と。
ケレスは白い衣装の裾を持ち上げ、恭しく礼をした。
カヤは、ケレスのその動作にぎくりとした。
いくら客人でも、侍女相手にする仕草ではない。
彼女たちは……知っている?
気付いている?
「姫さま?」
一瞬浮かべた表情に隙なく気付いたユノーが、仮の主人を覗ってくる。
「あ、いや。えー……すまないが、ユノー。ガウンを取ってくれぬか」
「はい、ただいま」
比べて自分は生まれは確かに宮家だが、宮で育てられた姫君ではない。
そんなところに後ろめたさは感じていなかったけれど。
「権限ではございませんが、わたくしは、レオの宮家にお仕えする侍女でございます」
ケレスがはっきりと答えた。
たった今、アスカの頬を張った侍女の、言い訳とはとても聞こえないものだった。
「それは、我が主さまにお仕えするのと同義でございます」
「だから! なによ!」
アスカが喚いた。
その声に、む、とカヤは眉をひそめた。
聞いていて気持ちのよい声ではない。
「ですので、主さまのご加減を害するものには容赦いたしません」
「あら」
どういう算段があるのか知らないが、アスカはそこで胸を張った。
艶っぽい声色に変わったので、やれやれとカヤが振り返る。
「ご迷惑なんかではございませんわよね、レオの君?」
カヤには到底真似のできそうにない所作で、レオの君に身体を押し付ける。
眉を曇らせて不快感を顕わにしているのは三人の侍女で、当のレオの君はというと。
「やっとこちらを向いたな、銀の姫」
扉に向かって一歩踏み出したカヤに向かって、ふわ、と笑った。
いつもの、にやり、ではなく。
なんなんだ、この男は、と内心思う。
「あら、姫さま。お休みのご支度はお済みで? お邪魔しましたわね」
堪えた様子もなく、嫣然とカヤに言い放つ。
はっきり言って、カヤはどうでもよかった。
「ああ、邪魔だな。というより、うるさい。どこか他所でやってくれ」
きっぱりと言った。
ケレスとパレスとユノーが驚くほど、はっきりと言った。
「ケレス」
自分より年上の侍女を呼びつける。
「はい、姫さま」
打てば響くように返事をしてくれるこの侍女を、カヤは不快に思ったことなど一度もない。
「三人とも退がっていいから、ご来客の皆様まとめてお引取り願ってくれ」
「はい、姫さま……姫さま?」
「おい。ついでに俺まで追い払うな」
「お呼びした覚えはございませんので」
と、言うが否や、レオの君はするりとアスカの腕からすり抜け、カヤの前へとやってきた。
一瞬ぽかんとしたアスカを、すかさずケレスとパレスが捕まえて、引きずるように引っ張って行く。
ユノーが慌ててあとを追おうとしたのを、呼び止めたのはレオだった。
「ユノー。明日の予定は聞いているな?」
「はい、ご用意いたしております」
「おまえたちは、明日は一日元の持ち場へ戻るように、姉上方に伝えてある」
「かしこまりました」
「では以上だ」
「はい、失礼いたします。主さま、姫さま」
そしてかわいらしく腰を落とす礼をすると、廊下の向こうで暴れている様子の、一行の元へと走って行った。
「……。一応、お詫び申し上げる」
「一応なのか」
「いや、レオの君には、大変失礼を致した。わたしの監督不足だ」
謝罪を口にすると、レオはふーん、とあやふやな返事をしただけだった。
そして、カヤの肩を押して、部屋に入ろうとする。
「……どういうつもりだ?」
「俺は銀の姫と話をするために来たんだが?」
「ああ、しまった。まとめてお引取り願うように命じたのだが」
「だから俺まで追い払うなと言ってるだろ」
「冗談ではなく言っているのだがな」
頑として部屋に入ろうとしないカヤに、レオが顔を覗き込んできた。
「何が嫌なんだ?」
「普通、こんな時間に部屋にくるか? ともかく、わたしは今日はもう休みたいのだが」
まっすぐレオの顔を見上げて、はっきり伝える。
残念ながら、彼と言葉遊びをしているほどの気力がない。
「そうか、それは残念だな。仕方ない。ならば用件のみ伝えよう。其方、明日の予定は知っているか?」
「知らぬ……いや」
カヤは、用件があるのか、と思いながら返事をし、ふと、一昨日の昼食を思い出した。
「明日? わたしをどこかに同行すると言っていたか?」
答えると、レオの君はにやりと笑った。
「よし、覚えていたな。そうだ、視察に同行してもらう」
「……わかった」
「反論はないんだな」
「してどうする。それに其方が邪魔と思えばわたしなぞ連れては行くまい?」
「結構」
レオは手を伸ばしてカヤの銀の髪に触れた。
それを払う元気もなく、ぼんやりと見つめる。
「なんだ、眠いのか」
「さっきからそう言っている」
「これは失礼。それで先ほども無関心だったのか?」
「先ほど?」
問い返したあとで、馬鹿なことを言っただろうかと思った。
アスカの騒動のことを言っているのだろう。
「別に、眠いからというわけではない。どうでもよかっただけだ」
ことん、と扉に頭を預けて、やれやれと彼女たちがいなくなった廊下の向こうに目をやる。
「明日、ケレスたちに謝らなくては」
「カヤ」
レオの君が名前を呼んだので、カヤはのたりと頭を持ち上げて、彼の人を見上げた。
「なんだ?」
「其方、本当に少しも妬いてはくれんのか?」
「……。まさかとは思うが、そのために彼女を振り払わなかったのか?」
「そうだ」
間髪いれず頷かれて、カヤは再び頭を扉にぶつけた。
「彼女はそのつもりで来ているそうだが、わたしにはそのつもりはない」
「ほう? あの金の姫君は、そういうつもりで来ていたのか」
レオがアスカのことを姫君、と呼んだことに、カヤはびくりとして頭を上げた。
「初めて顔を近くで見たが、言うほど其方には似ておらんな」
「な……っ」
思わず。
カヤは一歩後退った。
それを見てレオはくすくすと苦笑した。
「何を驚いている。宮の侍女はだいたい気付いているぞ」
「そ……そうなのか?」
「大丈夫だ。その上で、皆、其方に肩入れしている。安心しろ」
「安心……なにをだ?」
少々混乱して、カヤは訊ね返した。
が、レオはますます笑うばかりだ。
なにがなんだかさっぱりわからない。
「やれやれ。あとは俺次第か」
一歩下がったカヤを追いかけるように、レオは一歩部屋に踏み込んで、そしてカヤの額に口付けた。
「明日はその金の姫が唯一の供になるだろう」
「彼女を、同行させるのか?」
「置いていっても面倒なのでな」
そうか、と妙に納得する。
彼女はカヤの、というよりは、レオの君がいるところへ行きたいのだから。
「おまえには車を出す。最初の目的地までは少々遠い。眠っていてかまわんぞ。車の戸は、必ず俺が開けてやるから」
それはつまり、ほかの誰かが開けるのではない、という意味だ。
三人の侍女を同行させない、レオの君も車には乗らない、ということは?
「レオの君はどうするのだ? 車には乗らぬのか?」
訊ねると、指で額を押された。
少し責めるような顔に、ああ、と思い至る。
「……ジュエは? どうするのだ」
妙なところにこだわっている、まるで子どものようだが、ジュエの名を呼ぶと、あからさまに機嫌良さそうに頷いた。
「俺は馬で行く。もともと馬を歩かせて行くものだから、車を出しても足をひっぱりはしない」
「……そうか」
カヤが思ったことを先回りして全部言ったレオの君は、また、ふっと笑った。
「姫はまこと、お疲れのご様子ゆえ、そろそろ退散いたしましょうか」
「あ、ああ。そうしてくれるとありがたい」
言い返す気力もなく、おとなしくそう言ったカヤに、レオは微笑んで手を伸ばした。
肩を抱くように引き寄せて。
「おやすみ」
まるで優しそうにささやくと、頬に口付けた。
そしてさらりと銀の髪を撫でると、そこにカヤを残して、廊下へと消えた。
カヤはしばらくひとりで立ち尽くした後、そっと頬に触れた。
それから額にも触れた。
「……駄目だ。ぼんやりしすぎだな、今日は」
おとなしく、されるがままになってしまった。
カヤは溜息をついて、自分に与えられている部屋の扉を閉めた。