周囲を見回して、誰もいないと確認してから、カヤはふう、と溜息をついた。
「どうした。疲れたか」
すぐ隣から声を掛けられて、やや驚いて見上げる。
「まあ、あれだけ侍女に囲まれていれば疲れもするか」
金色のレオの星主は苦笑して、引いてきたカヤの手を離した。
ここは、ダンスホールから外に出た、バルコニーだ。
レオの君が、息抜きに、と冗談めかして連れ出した。
息抜きなのだから供はいらぬ、と侍女らを追い払った。
その中に、キャンサーから乗り込んできた金の姫もいて、彼女がなにか行動をおこすのではないかと、カヤは内心ひやひやしたけれど、ほかの侍女たちとおとなしく引っ込んでくれたので、ほっとしていた。
レオの君はバルコニーから外を見下ろすように欄干に身をゆだねている。
「カヤ、こちらへ来てみろ」
わずかに振り返って呼ぶ。
レオの君の前髪が風に揺れている。
カヤの名を呼ぶのだから、そばには誰も控えさせていないのだな、と思った。
近づいて並ぶと、迫り出したこの場所は、風が強かった。
「いいだろう。ここは俺の気に入りの場所だ」
「……そうか」
気持ちいい、と思ったが、強い風にカヤの髪は巻き上げられた。
押さえようとして、先に、別の手が後ろから伸びてきた。
「こちらへ来い」
いや、手ではなかった。
後ろからレオが腕を回して、カヤを自分の懐へと引き入れる。
「な、なにをする」
「其方には少し、風がきつかったようだ」
確かに、風除けにするにはいいのだが、レオの君の腕の中というのがいただけない。
「カヤ」
そして頭の上から名を呼ばれる。
「な、なんだ」
振り向く余地などなく、そのままわずかに身じろぎして答える。
前方には美しい庭が広がっている。そして後ろにはレオの君。
「相変わらずつれない返事だ」
耳の後ろのほうでくすくすと笑い声がする。
どうにも居心地が悪くて仕方がない。
「それは其方がふざけたことばかりするからだ」
「ほう? それはどんな?」
からかうように言うと、後ろから覗き込んでくる。
近すぎて目はあわせられないが、代わりにカヤの背中に密着してくる。
「き、貴様、離れろ」
「断る」
そして欄干を掴んでいた両手が、カヤの身体に回された。
抱きしめられてぎょっとする。
「何をするっ! 貴様! 場所をわきまえろ!」
「わきまえているつもりなのだがな。それに、それでは場所を選べばいいような言い方だぞ?」
「……そんなわけあるか!」
が、カヤが抵抗しても、レオの君は離すつもりはないらしい。
かといって大きな声を出して侍女が飛んでくるのもちょっとごめん被る状況だ。
「安心しろ。誰も見てはおらぬ」
「保障があるか! それに、見ておらぬでも、わたしが嫌だと言っている!」
レオの腕の中で、カヤがもがいた。
一瞬腕を緩めたレオの君は、けれど、やれやれと呟いて、
離すのではなく、さらに強く抱きしめた。
「な……っ!」
「もう少しおとなしくしてくれ」
後ろから、カヤの耳元にささやきかける。
「やっと其方を明るいうちから独占できるというのに」
そして、カヤの耳に、口付けた。
「…………っ」
カヤは、さて、どこから言い返そうかと開きかけた口をいったん止める。
そして。
「その、明るいうちというのは、なんだ」
「うん? 俺がおまえを独占しているのは、いつも夜だからな」
「……頼むから、その、人が聞いたら誤解しそうな表現だけは止めてくれ」
正直、脱力してカヤは言った。
が、レオの君は心外だったようだ。
「なぜだ、事実だろう?」
「……」
「それに俺は誤解されても困らない」
「貴様……確信犯か」
「いや。この宮の者は、俺のことを誤解したりなどしはしないからな」
圧倒的な自信。
カヤはそんな些細なところに気圧される。
「言いたいことはそれだけか?」
口を噤んだカヤに、レオの君は再び口付けを落とした。
カヤからは直接見えはしないのだけれど、後ろから耳に触れる感触と音に、身体が熱くなる。
これは多分……怒っているからだと思うのだが、もちろんレオの君はそうはとってくれない。
いや、それも確信犯のような気がするが。
「うん? 少しはその気になったか?」
「なるか。勝手なことを」
カヤの返事に、けれどレオの君は面白そうにくすくす笑っただけで、腕を緩めたりはしなかった。
「おまえは俺に言うことはないと言ったな」
カヤの耳元で、ほんの少し、真面目な色を滲ませてレオが言った。
「は?」
なんの話だ、とカヤは思うが、すぐに思い出した。
昨夜のことだろう。
「ああ、言ったな。だが……」
カヤは言いかけて、口を噤んだ。
思わず、言いかけてしまった。
「うん? なんだ、言いたいことは言っておけ。ここには俺しかいない」
「いや……」
言いよどむ。
ずっと、気にはなっていたのだが。
「なんでも聞いてみるといい。俺の知らぬことなどあまりないぞ」
自信たっぷりに言われて、その言葉がいちいちカヤを落ち込ませるのだなどと、この男は気付いているのだろうか?
「わかった。ならば問うてみよう」
「うむ、なんだ」
「貴殿はなぜ、わたしをここへ連れてきた?」
ずっと疑問だった。
巨蟹宮で話を聞いたときも、レオの君が訪れたときも、獅子宮へ通されてからも。
わからなくて、いつかわかるかと思ったが、さっぱりだった。
獅子宮では随分待遇が良くて、自分はどういう名目でここへ来ているのかわからない。
姉姫や侍女たちは、主のお気に入りの姫だと言うが、星主を含めて仲の良いこの宮の人々の真意は、戯れの言葉からは読み取れなかった。
そして、レオの君、その人だ。
行動も、言動も、理解不能だ。
夜中に忍んで来たり、やたらと触れてきたり。
これではまるで……。
たどり着いた言葉に、カヤは自ら首を振った。
……冗談ではない。
「なんだ。おまえ、そんなことにこだわっているのか?」
「そんなことだと?」
あっさり告げられた言葉に、カヤはぴくりと目くじらを立てた。
「宮の皆が言っているだろう。俺が気に入ったから連れてきたと」
「そんなこと、誰が信じるか」
そうではなく、その真意を知りたいのだ。
が、レオは腕を少し緩めて軽く溜息をついた。
カヤは急いで身体を離す。
「誰が信じるか、と言われてもな。それが事実なんだが」
「それこそおかしいだろう」
カヤが吐き捨てると、そこに滲んだ色に気付いたのか、レオは腕を解き、かわりにカヤの身体をくるりと回した。
ダンスのターンじゃあるまいし、とカヤは思ったが、振り向かされて目にしたレオの顔が真剣だったので、苦情は置いておくことにする。
それに話をするなら顔を見ているほうがいい。
多少……近すぎるというきらいはあるが。
「聞きたいのか?」
正面から見据えたレオの顔が、間を持たせるような口調でこちらの不安を煽る。
「……」
「おまえが聞きたいというのなら、俺は何度でも言ってやるが」
「一度でいい」
切り返えしたカヤにレオの君が楽しそうに笑う。
「そういうところが俺の好みだ」
そして手を伸ばして、指先でカヤの唇に触れた。
「な……っ」
思わず手でそれを振り払う。
が、レオは気を悪くしたふうもなく、にやりと笑った。
「俺がおまえを気に入って連れてきた。それが事実だ」
きっぱりといわれて、カヤは……眉間にしわを寄せた。
「言っただろう、おまえが好みの女だと。おい、どうしてそこでそんな顔になる」
「言い返したいことが多くて困っているんだ」
「ひとつずつ全部言ってみろ。全部答えてやる」
カヤは、この意味不明さが結局晴れないのでは自分が浮かばれない、と言い訳して、レオの君の顔を見上げた。
気合の入ったその表情に、レオは口元に笑みを刻む。
「一番よくわからないのは、それだな。気に入るもなにも、貴様がわたしを見たのは、星集会のときだけではないか」
「充分だろう」
「どこが」
「おまえのほうこそよく言う。あれだけ取り繕いもせずに我を通した女の言う台詞か」
「……」
カヤは、ぴくりと眉を動かしたが、むう、と唸って返事にした。
「その、我を通した女を見て、気に入ったとか口にする其方もおかしくはないか?」
「俺の好みの問題だ」
あくまでもその主張を譲らないレオにカヤは頭を抱えたくなった。
「わからんな」
「そうか? 俺の見る目は的確だったぞ」
「……?」
「思ったとおり、お前はいい女だった」
「……」
返す言葉もない、とはこんな状況をいうのだろうか。
カヤはレオの君から視線を逸らした。
どこまで本気で、どんな裏が含まれているのか、自分にはまったくわからない。
悲しいかな、そういうことにカヤは秀でていなかった。
「おい」
顔を背けたカヤのあごを、レオの指が向きを変えさせる。
「な……強引だな、貴様」
「知ってるだろうが。でなければおまえをこんなところにつれて来られるか」
「……失敬、そのとおりだ」
「そこだけ肯定するな」
レオは笑って手を離す。
カヤはそんなレオを見返す。
「それで? 個人の好みに口を出す気はないからそこは置いておこう」
「置いておかれては困るんだがな」
「うるさい。それで、わたしをここへ連れてきて、どうするつもりだ」
カヤの挑むような視線に、レオの君は一瞬、目を細めた。
けれど、すぐにいつもの不敵な表情を浮かべる。
「其方を娶るためと言ったら?」
カヤは。
言葉をすぐに、理解できなかった。
レオの君を睨み返したまま。
「…………は?」
間抜けな声を漏らした。
が、それに対してレオは笑い出した。
「は、はは……っ! おまえな、そこはいつものように言い返すところだぞ」
「なっ! 貴様が面白くない冗談を言うからだっ!」
手で顔を覆って、おかしそうに笑うレオに、カヤはからかわれたのかと気付いて腹を立てる。
けれどレオの君は、片手でそんなカヤにぽんと軽く触れた。
「おまえが輿入れしてくれるなら歓迎するぞ。そう悪い冗談でもなかろうが?」
「悪いわっ」
「まあそう怒るな。現実的に難しいことは承知している」
「怒るさ! ……現実的には、難しい?」
レオがそう言う理由がわからなくて、カヤは思わず訊ね返した。
「うん? 俺はレオの星主で、おまえはキャンサーの星主だ。忘れたわけではあるまい?」
「あ、ああ……」
「おまえが我が妻となってくれるのなら、キャンサーの星主を継ぐものがいるのか?」
それは。
……わからない。
星主は自分でなくとも良いのだろうということはわかっている。
けれど、ほかに誰かいるのなら、今、自分が星主であることもないのだ。
少なくとも、今は、自分しかいないのだろう。
カヤの表情から何を読み取ったのか、レオの君は手を伸ばして、銀色の髪を撫でた。
この男は髪に触れるのが好きだな、と思う。
獅子宮で銀の髪を見かけたことはないから、そうとう珍しいのだろうか。
もっとも、月の光と喩えられるキャンサーの宮家の銀の髪も、カヤの世代では自分ひとりなので巨蟹宮ですら珍しいのに変わりはないのだが。
「そう残念がるな。なに、おまえが望むならすぐにでもさらってやるぞ?」
「丁重にお断り申し上げる」
「安心しろ。俺は気が長いほうだ」
「……さっさと貴様に似合いの姫君でも探すがいい。早くしないと見つからぬぞ」
カヤとのやりとりを楽しんでいるふうにしか見えないレオだが、くすくすと笑って、今一度カヤの身体を引き寄せた。
今度は後ろからではない。
「そうだな。其方よりいい女を見つけるには骨が折れそうだ」
「貴様……離せっ」
抵抗して胸を押し返すカヤの額に、レオは口付けを落とすと、あっさりと腕を解いた。
「そろそろ戻るぞ」
言ってさっさと歩き出す。
その後姿を少し眺めて、へんな男だ、とカヤは思った。
そして遅れぬように、追いかけた。