ジュエはいつも以上の勢いで目標にしていたところまでの執務を終わらすと、書類の上に重石を置いて立ち上がった。
昼食にはまだ早い時間だ。
だからこそ、今行くのだ。
そのとき、部屋の扉が開いた。
「いいところへ来た。そろそろ行くぞ」
と、いいつつ、ジュエの足は既に動き出している。
入ってきた侍女はそんな星主の動きに驚きもせず、はい、と頷いた。
ジュエは、部屋着ではなく、朝議に臨席した際の簡易礼服のままだった。
「姉姫たちは?」
「はい、ダンスホールにてございます」
「よし、行くぞ、ヴェスタ」
「はい」
レオの星主は、執務室をあとにした。
一人で歩くことに問題はなかった。
けれど、本来ならばぞろぞろとつれて歩くべき侍女や従者を、一人も連れずに歩くのは、逆にふらふらしているように見えて、訪問する目的があるのならば相手に失礼というものだ。
だから、ジュエはいつもはつれて歩かない侍女をわざわざ一人同行させている。
それも礼儀のうち、ということで。
連絡が行っていたのか、自分たちの星主のことなどここの侍女らは知り尽くしているのか、ジュエが現れると、何も言わないうちから扉は開かれた。
中からはわずかに室内楽の音がする。
ジュエと、その後ろに控えた侍女のヴェスタが入ると扉はまた侍女の手によって閉められる。
この部屋には、十人程度の侍女らが、壁際に控えていた。
そして、注目していた。
ダンスホールの中央で踊る、二人の姫君を。
「主さま、こちらへ」
思わず見つめてしまったジュエに、ヴェスタが小声で促した。
我に返って示されたほうへと足を向ける。
「ようこそおいでになられた。思ったより早かったの!」
用意されていた席は、三姉の隣だった。
「姉上、ご機嫌麗しゅう」
どんな娘が見ても見とれるような美しい顔で姉に挨拶する。
が、残念ながら姉は今更見とれもしないし、侍女たちも平気な顔をしている。
「そうよの。いや、ご機嫌麗しいのは、むしろニ姉さまであるの!」
「そうですか」
隣に座り、そして改めてホールの中央に目をやる。
そこにはジュエの二番目の姉と、そして、銀の姫がいた。
「……相変わらず姉上は、男役の素晴らしいことで」
「ほほ! まったくよの!」
軽やかに笑うと、三姉は立ち上がる。
侍女を制してどこかへと行ってしまうが、ジュエは気にせずに、ダンスの特訓中の銀の姫を堪能した。
顔をあわせるといえば食事のときか、就寝前だ。
ほんのすこし息を上げて、あんなに真剣な顔をしているのを、だからジュエはあまり見たことがない。
真剣になっているからか、足元に集中している銀の姫の左手が、ぎゅっとニ姉の袖を掴んでいるのを見て、自分にもあのくらいしてほしいものだ、と頭の隅で考える。
まもなく三姉がティーセットを持って戻ってきた。
おそらく三姉が自身の果樹園で作っているものだ。
だから侍女ではなく、姉姫自身が淹れてくれる。
もっとも、三姉はお茶を淹れるのが好きでやっているのだが。
「銀の姫もそろそろ戻ってこられるだろうからの」
そう言ってお茶の葉が踊っているのを覗いて確かめている。
その言葉に間違いはなく、音楽は終わりに差し掛かっていた。
ニ姉が銀の姫の腰に手を回し、その身体を支えてぐるりと大きく円を描く。
そして、ダンスは終焉する。
練習のうちなのか、別れの挨拶たる礼をして、それから揃って二人はジュエたちのほうへやって来た。
「これは主さま。早いお越しで」
三姫の淹れるお茶の良い香り漂うテーブルの脇で、ジュエは立ち上がるとニ姉に向かって優雅に腰を折った。
「姉上もご機嫌麗しゅう」
「ご機嫌麗しいのは其方のほうじゃな」
片手でドレスをつまんで、美しく凛々しく挨拶を返したニ姉が艶と微笑む。
「わたしはいつだって機嫌が良いですが?」
「それは良いことで」
二姉はくすと笑って先に椅子へ座った。
ジュエはそのあと取り残されるように立っている、銀の姫に向き直った。
「銀の姫におかれても、ご機嫌麗しゅう?」
「……疑問系か」
「さて、其方のことは姉上のようにはわからぬゆえ」
にやりと笑って覗えば、銀の姫……カヤは、きゅ、と口元を引き締めて、それから両手でちょい、とドレスをつまんだ。
「レオの君にはかようにお心遣いいただき、痛み入ります」
「嫌味を言うなよ」
カヤのわざとらしい言い草に、ジュエは苦笑して返す。
するとカヤが少し、にや、と笑った。
ご機嫌、麗しゅう。
麗しいかどうかはわからないが、カヤの機嫌は悪くないらしい、とジュエは思った。
カヤの席の椅子を引き、手で誘うしぐさで呼ぶ。
カヤは一瞬驚いた顔をしたが、なにを考え直したのか、くいっとあごを引いて、努めて優雅に腰をかけた。
そんな動作も、生まれたときから宮家にいれば、気にせずとも身についているだろうに、彼女は宮から離れた傍家の育ちだから、意識しなければ出来ないらしい。
それは彼女の所為ではない。
意識すればできるということは、傍家での躾は悪くなかったのだろうとうかがえる。
が、その懸命に星主たらんとしている姿が、生まれてきたときから星主として育てられてきたジュエから見ると、多少不憫に思えた。
それは彼女の所為ではない。
そうではないが。
だが、彼女は星主なのだ。
ジュエは自らもカヤの隣の席に座ると、侍女ではなく三姉手ずから淹れてくれたお茶を楽しむことにした。
「姉上、いかがですか銀の姫は」
「うむ。教えがいのある生徒は楽しいぞ」
捉えようによっては失礼な発言だが、ニ姉が言うとあまり嫌味にも聞こえない。
ちらりとカヤを見れば、あからさまにほっとした顔をしている。
そしてお茶を飲んで、カップを覗くようにして、ほんの少し微笑んだ。
このお茶が、好みだったのだろうか?
その変化する表情を、ずっと見ていたいと思ったが、ずっと見ていればきっと、カヤはそれに気付いてまた仏頂面に戻るのだろうな、とも思った。
「銀の姫! いかがかの!」
三姉が自分の茶を飲んで、うんと頷いたあと、銀の姫に感想を求めた。
「は……とても爽やかでおいしゅうございます。あ、でも、先日のとはまた違われるのですね」
「そう! あれは涼やかなかんじあろう? これはもっと……なんというのだろう?」
「そうですね……甘い、というのとは違いますけど」
三姉が可憐に首をかひねるのにつられて、カヤが小首をかしげた。
その様子に。
思わずジュエは微笑んだ。
それに気付いたらしく、カヤがふっとジュエを振り返る。
「……なにか」
挑むようにこちらを見つめてくる。
「いいや」
首を振れば怪訝そうな顔をするが、すぐに話しかけてくる三姫のほうに向き直る。
それは知っているカヤの顔。
でも、カヤの表情なんて、初めはそれしか知らなかった。
彼女の顔は、本当はそんなところが本質ではない、と思うのだ。
だから。
ジュエは空っぽになったカップを置いて、やはり茶を済ませてカヤとお茶談義に花を咲かせている姉の、言葉の切れるのを待った。
「姉上、そろそろ銀の姫をわたしにお返しくださいませんか」
「仕方がないの。姫を貸してつかわす」
ちょっぴり胸をそらせるようにして三姉が言う。
「姉上、銀の姫はわたしの客人です」
「なにをいう。では、わらわは姫と話していると楽しいので主どのには貸しとうない!」
「いえ、それでは俺が困りますよ」
冗談なのか本気なのかわからない三姉に、ジュエは苦笑いしながら立ち上がった。
カヤがその動作を目で追ってくる。
「姫、わたくしと一曲踊ってくださいませんか」
そして申し込みの動作で彼女を誘う。
え、と少し困った表情。
それを見て三姉が横から、断ってたもれ、なんて言っている。
そんな三姉の様子にニ姉がくすと笑っている。
そしてカヤは、まさか本当に断ることなど出来ないことを知っている。
丁寧な仕草で立ち上がり、先ほどまでの表情はどこへやら、一変、不安げな顔でドレスの裾を持ち上げた。
ジュエが手を伸べると、そっと乗せてくる。
それはただ、作法どおりなのだが、ジュエはその手を握り、ダンスホールへと導いた。
「其方の午前中の成果を是非とも発揮してくれ」
にやりと笑って告げたのに、カヤは緊張した表情のまま、頷きもしなかった。
ホールの中央で室内楽の者に、午前中にやっていたのはなんだ、と問う。
返ってきた答えに、それでいいと告げて、それからカヤの腰を引き寄せた。
カヤの顔がこわばる。
「どうした、なにを緊張している」
「……皆が、見ておる」
「それはそうだろう。俺が踊るのだからな」
ジュエが当たり前だ、と答えると、カヤは顔を上げた。
彼女が何か言う前に、そして音楽が始まる前に、ジュエは続ける。
「星主が踊るのを見たい。そう思うのは当然だろう? そして星主は、星と民のために踊るのだ。そういうものだ」
「…………ああ、そうだな」
ジュエを見つめていたカヤは、頷くと視線を落とした。
視線で合図を送ると、音楽が始まった。
初めてカヤと踊ったときは、出だしの合図が必要だったが、何度か踊ったのだろうこの音楽に、カヤは合わせて動き出した。
「カヤ」
音楽に乗せるように、その名を呼んだ。
カヤは少しぎょっとしたような顔をして、けれどジュエを見上げてきた。
「な、なんだ」
「ダンスのときは相手の顔を見ていたほうがいいと思うが」
「……なぜ」
通常よりも近い位置にある相手の顔を、ジュエは見つめて、カヤはちらと視線を合わせたり外したりしながら会話している。
「なぜかというと、そのほうが絵になるからだ」
「は?」
ジュエの答えが予想外だったのか、カヤは思わずジュエの顔をまじまじと見て。
そして、あからさまに視線をそらした。
「なんだ、俺を見てはくれぬのか」
「残念ながらわたしは貴殿のようなロマンチストではないのでな」
「おや、これは残念」
言って、彼女の身体をターンさせる。
一回転した身体はすとんとジュエの腕の中に納まる。
「其方、上達しているではないか」
「本当か?」
カヤが、飛びつくように返事をした。
それが珍しくてジュエは少し笑った。
気付いてカヤは決まり悪そうに眉をひそめる。
「本当だ。たいした時間もなかったのに。やはり俺の見込みに間違いはない」
「……それは、褒めてくれているのか?」
「無論だが?」
「……では、礼を言う」
「どういたしまして」
腕の中でカヤが自分に合わせて踊っている。
自分のことで精一杯だったはずの彼女が、おそらく二姫とジュエのわずかな違いに、自ら合わせるようにしている。
ダンスとは、男性が導くもので、女性は合わせるものなのだ。
だから、一人で懸命になっても空振りしてしまうのだ。
それがわからないカヤではないと思ったので、ジュエは姉に託した。
そして……カヤは、思ったとおりに飲み込んだ。
ダンスの技術なんて、そのうちついてくる。
星主は踊ることが仕事のうちだから、嫌でも踊る機会は増えるのだから。
だから。
自分ひとりで踊るのではないと。
自分に……ジュエに寄りかかって踊ってもよいのだと。
そう、伝えたかったのだ。