金の姫 5

 なんというか、疲れる一日だった。
 カヤは、驚くべきことに三日目で慣れてしまった香油のほのかな香りをまといながら、与えられた部屋でうとうとと眠りに近づいていた。
 アスカと名乗った同胞の姫は、近くの部屋を与えられたらしく、とりあえず今はそばにはいない。
 今朝初めて出会ってから、離れたのは湯浴みのときなのだから、なかなか根性のある姫だったとは思う。
 が、いい加減疲れた。
 今日は早々に眠れそうな気がした。
 コンコン。
 そんな音が、近くでするまでは、カヤは眠る一歩手前だったに違いない。
 が、悲しいかな一気に覚醒した。
 何事か、と起き上がる。
 とっさに扉に目をやったが、続いてかけられるであろう侍女の誰かの声などしない。
 物音を立てないようにして聞き耳を立てる。
 誰だ。
 ……どこだ?
 コンコン。
 再び音がして、カヤは振り返った。
 違う、扉ではない、と。
 音がするのは窓のほうだ。
 まさか、と思う。ここは、獅子宮ぞ?
「――カヤ」
 けれど、まさか、というのは、可能性があるときに思いつくのだ。
 ここは獅子宮ゆえに。
 カヤは寝台から滑り降り、急いでガウンを肩にかけ、音のした窓へと近づく。
 そっと隙間から覗けば、見まごうことのない美貌がテラスに立っていた。
 ありえない、と、思った。
 カヤが覗いていることに気付いたらしい金の星主は、夜闇の中でにやりと笑った。
 向こうから見てわかるように、溜息をつくと、音を立てないように窓を開けた。
 するとレオの星主は、いつもの執務用の簡易礼服ではなく、もっと簡素な服を着ていた。
 彼も休む用意をしているのかもしれない。
 ……いや、ならばなぜ、ここにいる。
 レオの君はわざとらしく、まるでダンスホールでするかのように、丁寧なお辞儀をした。
「これは姫、お休みのところお邪魔しました」
「……まったくだ」
 本当にその通りだったので、カヤはしかめっ面のまま頷いた。
 するとレオはくすくすと笑った。
 そして人が変わったように、否、本来の彼に戻ったように、ずんずんとカヤに近寄って来る。
 カヤの顔を覗き込む。
「ん、なんだ。貴様本当にお休みだったのか?」
「……悪かったな」
 どんな顔をしているんだ、と自分のことを思いながら、視線をそらす。
 目の前に立ったレオは腕を組んでふむ、と短く言った。
「どうやら姫はお疲れのようだ。今日の夜の散策は中止にしようか」
 夜の散策とはなんだ、と思いつつ、初めにやらかしたのは自分のほうか、と気付く。
「……約束していたわけではないからな」
 そう、約束などしていない。
 暗黙の了解とも少し違う。
 どちらもカヤが、勝手にうろうろしていただけだ。
 それを、レオの君が……。
「そうか、今日は不要か。仕方ない」
 付き合ってくれて、いたのだろうか……?
 疲れているのはレオの方だろうに。
「だが、せっかく忍んできたのだから、ただで戻るのはもったいない。姫の寝顔でも見ていくか」
「…………貴様、さっさと戻れ」
 一瞬ありがたがった自分が馬鹿らしい。
 カヤはレオを睨みつけてやったが、彼はそれを面白がるように笑った。
「まあ寝顔はダメとしても、其方の顔をもう少し見ていても良かろう?」
 言うなり、ひょい、と。
 いとも容易くレオの君はカヤの身体を抱き上げた。
「は……? な、なにをするか! 離せ、貴様っ!」
「大きな声を出すな。それに暴れるな、頭を打つぞ」
 言われてぎくりとする。
 いや、自分はやましいことなどない。
 女性の部屋に忍んできて、声を上げられて困るのは普通、男のほうだ。
 眉を寄せたまま一瞬考え込むと、その隙にカヤを抱えたままレオの君は部屋へと入ってきた。
「だ、だから貴様、何をする!」
 心なしか音量は抑えて、それでもこの場合、喚かずにはいられない。
「何度も言わせるな。今宵の散策は取り止めだとさっき言った」
「それでは答えになっていない」
 けれどカヤの言うことなど気にもせずに、レオは……抱えていたカヤを寝台に座らせた。
「……」
 カヤは用心深くレオの動きを目で追う。
 この男は、何をしようとしている……?
「そう怖い顔をするな」
 レオの君は苦笑しながらカヤの隣に腰を下ろした。
 寝台に手をついて、耳元に唇を寄せてくる。
「カヤ」
 名をささやく。
 カヤはびくりと身体をこわばらせた。
 耳元で、レオの君が笑った。
「カヤ」
「な、なんだ」
 答えて少し距離をとる。
 薄暗い部屋でもそこにいることがはっきりとわかる金の星主を睨みつける。
「おまえは俺に何か話したいことがあるのではないかと思って来たのだが、そうでもないのか?」
 にやり、と笑ってみせるレオに、カヤはぎくりとした。
「……なぜそう思う?」
 自分はそんなそぶりはしていないはずだ。
 なぜなら、誰にも告げずに、キャンサーまで持ち帰ろうと思ったのだから。
 今、自分が抱えている問題、というか、些細な悩みは。
「さてな。俺はおまえを見ているからな」
 まるで真面目に言って、レオは手を伸ばし、カヤの銀の髪に触れた。
「……何を言っている。今日とて会ったのは昼餉の一時のみではないか」
 するとレオは軽く溜息をついた。
 思わずといった感じだった。
「まったくだ。もう少し一緒にいられるかと思っていたのだが。多少読みが甘かった」
 それから少し考える顔をして、けれど、いや、大丈夫だ、とひとりで納得した。
「明日からはもう少し顔を合わせられる。楽しみにしていろ」
「……どうしてわたしが楽しみにするのだ」
 苦労が増えねばよいのだが、と内心カヤは思う。
 レオはくつくつと笑って、カヤの髪を撫でた。
 カヤはちらっとその手に目をやるが、その動作に気付いたらしいレオは、けれどかまわず触れ続けた。
 いや。
 にやり、と笑って、カヤの髪を一房掬い上げて、そっと口付けして見せた。
「……」
「其方の髪は美しいな」
 レオの呟きに、カヤは美しい金髪の星主を見返した。
「なんだ。珍しいものには触れてみたい性質か」
「そんなに卑下したように言うな。美しいと言っている。宮の者にも評判だぞ」
「は……? な、なにがだ?」
 宮の者とは、獅子宮の侍女たちだろう。
 女の噂とはそれは恐ろしいものだ。カヤは少し身構える。
「其方は美しいと。なんでも、俺の隣にいても映えるそうだ」
「……。其方がなまじ美しいから、多少の美人では太刀打ちできぬからな」
 カヤは吐き捨てるように返事をする。
 つまり、自分は美人かどうかというよりも、この色彩を備えているからなんとなかっている、ということだろうか。
 どうせ自分はこの男に張り合えるような美人ではないから、醜いと蔑まれるよりはいいかと、妙に納得する。
「それは褒めてくれたのか」
「別に。事実を言ったまでだ」
「そうか。では礼を言っておこう」
 レオはカヤの髪から手を離し、かわりに、カヤの頬に触れた。
「……っ? な、貴様……っ」
 不覚にもされるがままになってしまったカヤは気付いてから睨みつけたが後の祭りだ。
 カヤの頬に口付けたレオの君は、やや満足そうに頷いた。
「そう、其方の言うとおりだ」
「……なにがだ?」
 話の繋がりが見えず、思わずたずね返す。
「多少の美人では太刀打ちできぬと、今おまえが言っただろう?」
「それがどうした?」
 と、答えた後で。
 カヤは気付いた。
 もしやこの男は、キャンサーから来た、カヤより美しい姫のことを言っているのではないか、と。
 今の理屈を当てはめるなら、確かに彼女、今はアスカを名乗ってカヤの侍女のフリをしているキャンサーの姫は、カヤよりは美しいと思うのだが、残念ながら『銀の姫』と呼ばれる容姿はしていない。
 だからこそ、彼女は星主になれなかったのだから。
 田舎の傍流のカヤが、星主に担ぎ上げられてしまったのだから。
 ほんの一瞬カヤの顔に浮かんだ表情を、まるですべて読み取ったかのように、レオの君は再びにやりと笑った。
「其方、俺に言うことはなにもないのか?」
 この男、気付いている、とカヤは思った。
 ならばなおさら。
「別に、困っていることもない。其方の侍女たちはとてもよくしてくれているし、姉君に至っては感謝の言葉もない」
 それは本当だ。
 真心込めてそう言えば、レオはじっとカヤを見つめて、そうか、とひとつ答えた。
 そして、レオは立ち上がった。
「では、姫はお疲れのようだから、今日はこれで退散しよう」
「ああ……」
 追いかけるようにカヤも立ち上がる。
「あの、レオの君」
「ジュエだ。名で呼べと言っている」
 振り返ったレオに軽く睨まれる。
「え……ああ。では、ジュエ。その……」
 呼び止めたのは自分なのに、その後が続かない。
「なんだ?」
 窓際まで進んで振り返ったレオの君は、輪郭が浮かび上がっているように見えた。
 カヤを見返している瞳の蒼い色は、この薄闇ではよくわからなかった。
「えー……、わざわざご足労だったな。窓からのご訪問はどうかとは思うが、一応……礼を言っておく」
 するとレオは、微笑んだ。
 あの、いつものにやりという笑みではなく。
 まるで……やさしそうに。
 それから。
 レオの君は腕を伸ばして、いきなりカヤを抱きすくめた。
「はっ? ちょ、レオの君?」
 驚いて声を上げるが返事はない。
「……ジュエ?」
 今一度名を呼べば、ぎゅうっと腕に力が込められて、それから、解かれた。
 緩んだ腕の中からカヤが見上げれば、レオの君はまた、微笑んだ。
「ジュエ?」
「なに。ちょっとおまえのことを、愛おしいと思っただけだ」
「は?」
 カヤは……文字通り、目を丸くした。
 レオはおかしそうにくすくす笑って手を離す。
 窓の外へと出て行く。
「それではな。また明日だ。おやすみ」
「あ、ああ。おやすみなさい」
 なんだかよくわからなくて、けれどとりあえず言われたことに対して返事を返す。
 レオは、いつものにやり、という笑みを浮かべると、ひらりと飛び降りた。
 まるでそこに通路があるかのごとく、建物の上を渡って行く。
「……どんな星主だ」
 まもなく消えた金色の人影を見送って、カヤは思わず呟いた。

2007/06/18