それは、知らない娘だった。
巨蟹宮から自分付きの侍女が来たと言われ、面通しされたが、自分の侍女ではなかった。
けれど、その容姿は明らかにキャンサーの宮家の系統で、もしや、と思った。
自分はこれまで会ったことはないけれど、彼女はキャンサーの宮家の姫なのでは、と。
ふたりになる機会はすぐに訪れた。
あるいは……わざと、ふたりにされたのかもしれないが、所詮カヤには周りに踊らされるしかなく、今はそれに乗ってやろうという気分だった。
巨蟹宮にいるときより、前向きな気がする。
「獅子宮にすっかり馴染んでいらっしゃるようですのね、カヤさま?」
金髪に青い眸の同胞は、カヤよりもよっぽど艶やかな笑みを浮かべて、そう言った。
「この宮にお嫁入りすることにでも、したんですか」
まるで見下して微笑む。
彼女が侍女のふりをするなんて、出来るのだろうかと、カヤはどうでもいいことを考えながら、彼女を眺めた。
「随分と素敵なお召し物で、香油まで塗られて。まるでお姫様ですのね」
間違いなくカヤは姫君なのだが、確かにそう、言われてみれば不相応なのかも知れぬ。
「なにかおっしゃったら!」
ぼんやり聞き流していたら、彼女が大きな声を上げた。
だから、カヤは思ったことを口にした。
「わたしは、其方と会ったことがあっただろうか?」
もし。
会ったことがあったなら、それは随分と失礼だと思うが、会ったことはないだろう、とカヤは思った。
でなければ、こんな敵意を隠しもしない双眸を忘れたりなどするものか。
「ありませんわ!」
彼女は……おそらく、キャンサーの姫は、喚いた。
「わたくしは正統なるキャンサーの姫です。あなたのような素性のあやふやな傍家とは違います!」
……これは、聞き捨てならない。
自分のことをどうこう言うだけなら聞き流すが、傍家とはいえ宮家を守り継いできた両親や親族を侮辱するのは許せない。
カヤはふうっと息をついた。
そして、き、と見据えた。
「素性のあやふやな娘が星主になどなれるものか。慎まれよ、姫。御身を汚すぞ」
ぴしゃりと言う。
星主は神聖な存在とされている。
事実かどうかは別として、その存在は少なくとも今の世界には不可欠で、己の領地の星主を罵ろうものなら、その者は己を汚すと言われている。
姫だというのなら、そのくらいのことは躾けられているはずだ。
むっとした顔で姫君は口を噤む。
「それで。その正統な姫君が、わたしの侍女のふりなどして、なにをしに参られた?」
すると姫はまた、馬鹿にしたように笑った。
「まあ、なにをおっしゃるかと思えば」
カヤとは正反対な金色の髪を背中に払いながら、彼女はカヤを覗き込んだ。
「そういう貴女はここで何をなさってらっしゃるのかしら」
「わたしはここで勉強させてもらっている」
「白々しい!」
ぴしゃり、と言い返される。
さて、彼女は老使いたちになんと言われて来たのだろうか。
「もしやわたくしなどには負けないとお思いでいらっしゃるのかしら?」
手を腰に当てて胸をそらす。
そんな格好をすると、いやしなくとも、豊満でかつしなやかな身体を強調するようで、カヤに対抗しているらしい。
そんなことされなくとも、自分にさして魅力がないことは、カヤは充分承知しているのだが……彼女に言ってもわかるまい。
「……なんだ。レオの君を誘惑に来たのか」
だから、多分そうなんだろうと思ったことを、ストレートに言ってみた。
単純にそれならわかりやすいのだ。
彼女は確かに美人だ。
カヤと似ていなくもないが、明らかに彼女のほうが女らしい魅力がある。
さて、レオの君はこういう女性が好みだろうか、と頭の隅で考える。
「貴女だってそのつもりで来たのでしょう」
「いや、わたしはそのつもりではないが……」
本音だったが、姫は吐き捨てるように哂っただけだった。
「では、姫のことはなんと紹介すればよい?」
カヤが訊ねると、姫は驚いたような顔をした。
「だって、其方は一応侍女だといっているからな。其方から挨拶するわけにもいかぬし、侍女にレオの君がわざわざ挨拶などしはせぬぞ?」
カヤの意図がわからないらしく、姫は怪訝な顔をしている。
彼女の中でどんな計画があるのか知らないが、それならカヤは蹴倒す対象でしかないのだろうか?
「なにを言っているの、貴女……」
「ああ、もうよい。とりあえず、名は?」
カヤが訊ねると、姫は途端に形相を変えた。
宮家の者は名を二つ持っている。
ひとつは真名でひとつは呼名だ。
それは他人に簡単に口にして良いものではないのだ。
とはいえ、彼女はカヤの呼名を知っている。
なのに、自分の名は訊ねられたら怒るのだ。
やれやれ、とカヤは思った。
「獅子宮の侍女は、皆、名で呼ばれる。仮でもなんでもいいから、名は必要だぞ」
「……」
考えていなかったのだろうか。
確かに巨蟹宮にいると、侍女の名などいちいち聞いたりはしないのだが。
「わたくしは……!」
彼女がなにか言いかけたとき。
「銀の姫さま」
外から声がかけられた。
カヤとは正反対な、金色の姫が口を噤む。
そっと壁際に下がるが、その目つきはとても侍女とは思えない鋭さ。
カヤはわずかに苦笑しつつ、声の主に答えた。
「ああ、ケレスか。入ってよいぞ」
いつもはそんなこと言わなくても入ってくる彼女たちだが、このキャンサーからきた侍女に配慮しているのかもしれない。
「失礼致します。まあ、お似合いですわ、姫さま」
入ってくるなり紫の帯の侍女、三人のうちではリーダーらしいケレスが微笑んだ。
今日は紫色の裾の長いドレスを用意されていた。
着せてくれたのはパレスで、ケレスと顔を合わせるのは、今朝はこれが初めてだ。
「素敵なドレスだが……これで一姫さまにお会いすると、あまりに見劣りしはしないか」
カヤが率直な感想を述べる。
昨日、一姫が着ていたドレスに似た色合いで、一姫はそれはそれは美しい大人の女性だと思ったものだ。
「そんなことございませんわ。それにこのお召し物は、我らが一姫さまからの贈り物でございます」
「……は?」
「姫さまがお召しのところをご覧になれば、一姫さまもさぞお喜びになられるでしょう」
「一姫さまから……。そうか。今日は一姫さまにはお会いできるのか?」
これはお礼を言わなければと思い訊ねる。
ケレスはカヤを鏡台の前に座らせ、髪を梳きつつ答えた。
「はい。本日の姫さまのご予定は、昨日と同じく一姫さまとご一緒することになっています。二姫さまはご視察のため、本日はご不在であられます。三姫さまはご公務のためやはりご不在でございますが、お食事はご一緒にとられるそうです」
「さようか。姉姫さまがたも多忙でいらっしゃるのだな」
「はい。姫さま、本日は髪を結ってみてもようございますか?」
「うん? ああ、任せる」
軽く頷くと、では、とケレスの手は器用にくるくると、カヤの銀の髪を半分ほど結い上げてしまった。
半分はいつものように背中に流したままにしてある。
「苦しゅうございましたらいつでも言ってくださいませ」
「ああ、ありがとう」
そしてふと、ケレスが壁際の姫、いや、カヤの侍女を振り返った。
ちょい、と服の裾を掴んで簡易の礼をする。
「お初にお目にかかります。わたくし、こちらでは銀の姫さまのお世話をさせていただいています、ケレスと申しますわ。巨蟹宮よりはるばるようこそお越しになりました。ご自身の宮の方がいらっしゃると、銀の姫さまのご心労も軽減なさることでしょうから、わたくしどもも大変嬉しゅうございます。
ところであなたは普段、姫さまのどのようなお世話をしていらっしゃるのでしょう? わたくしたちは分担しておりますけど、いつもされていた方に同じようにして頂いたほうが、姫さまによろしいかと思うのですけれど」
そして窺うようにカヤを振り返る。
壁際の金の姫は、固まったまま顔も上げなかった。
さて、どうしたものか、とカヤが同胞の姫を見る。
彼女は細かいことはなしで、とりあえず乗り込んできたのか、口を開かない。
そんな侍女がいるはずないだろう、とカヤは心の中で思うのだが、金の姫が動かないのだから仕方がない。
「すまぬな、ケレス。彼女は少々緊張しているようだ。
普段はな、わたしの話し相手なのだ。お茶の時間や散歩の時間に付き合ってくれるのだ。だから彼女が送り込まれて来たのだろう」
なんで自分が助け舟を出してやらなければならないんだ、と思いながら。
けれど、ケレスは大きく頷いた。
「まあ、そうでしたか。そうですわね。それはよい方が来られました。では普段は、どのように?」
ケレスはすでに、壁際の侍女ではなく、カヤに向かって訊ねてくる。
「そう……だな。手伝うと言ってもこちらは我が宮とはだいぶ勝手が違う。
其方たちが邪魔でなければ同行させてやってはくれまいか。
わたしの土産話にもなるだろうから」
「わかりましたわ」
ケレスは再び頷くと、カヤに手を伸べて銀の姫を誘導した。
見計らったようにパレスとユノーが現れた。
昨日と同じく、先導するケレスの後にカヤが続き、そしてパレスとユノーが続く。
カヤは振り返りはしなかったが、金の姫も後ろに続いていることだろう。
プライドの高そうなあの姫が、侍女のふりなど出来るのだろうか、と再度思ったが、自らそう名乗って乗り込んできたのだ。
あとは自分で上手くやってくれ、と彼女のことは頭の中から追いやった。
これから自分は、自分と戦わなければならないのだから。