人がいる気配がして、ジュエはうっすらと覚醒した。
誰かが起こしに来るほど、自分は寝過ごしただろうか。
なんとなく部屋は明るいが、明るすぎるほどではない、と思いながら。
重たい瞼を押し上げれば、そこにはよく見知った高貴なる姫がいた。
「……姉上」
目を開ける前に呼びかける。
そして目を開けて、それが一番上の姉だと確認する。
「おはよう、ジュエ。よく眠っておってじゃな」
「おはようございます。寝過ごしましたか、わたしは?」
「いや」
一姫は微塵も責める様子はなく、普段は誰も入ってこないジュエの私室の寝室に、ただ、立っていた。
「姉上ご自身がいらっしゃるとは、なにか急用でも?」
ベッドから身を起こす。
「別に急用ではないが、其方にはあまり時間がなかろうて、わたしが出向いたまでじゃ」
ほぼ何も身につけていないジュエが立ち上がっても、姉姫は別段大仰に視線を逸らしたりはせず、そっと移動して、この部屋にひとつしかない椅子に腰を下ろした。
ぴっと背筋を伸ばした姉姫は、もちろん緊張しているとかではなく、それが自然な姿なのだ。
ジュエと同じく、星主になるように教育されてきた、宮家の娘である。
そして今は、星主である弟でも、頭の上がらない相手でもある。
美しく、聡明な。
そんな言葉が世辞ではなく、本当に当てはまる、寧ろ言葉のほうがかすむような姫だ。
朝議に列席できる執務用の簡易礼服に袖を通しながら、ジュエは軽く促した。
「銀の姫のことですか?」
ジュエが一昨日連れてきた、隣の領地の星主の娘。
大方の反応は良かったようだが、昨日一日相手をしたこの聡明な姉は、何を言いに来たのだろうか。
ジュエは少しばかり緊張して答えを待った。
「其方、まだ耳にしてはおるまい。キャンサーの巨蟹宮から使いが参ったぞ」
「ああ、来ましたか、やはり」
初耳ではあったが驚きはしない。
カヤの様子を見てわかったが、キャンサーは自分たちの姫をことさら大切にしているわけでもないが、レオのことは脅威に思っている。
さて、レオの君に気に入られたらしい星主の姫を、どう扱おうか、と。
おそらくそんなところだろう。
大切な姫をいくらレオとは言え渡せません、といって、要らぬ条件をつけるとか。
あるいは逆に、本人の意思など関係なしに、貢物のように差し出すか。
どうであってもジュエは自分の思ったとおりにしか進めるつもりはないから、彼らの苦労は文字通り気苦労ということになるが。
「で、使いのものはなんと?」
「侍女を寄越してきた」
「……姫の、ですか」
「それはわからぬ」
この姉とて、ジュエと立場は違えど考えていることはまるで同じだろう。
同じように教育され、同じ場所に生活しているのだから。
「名と容姿を銀の姫に伝えさせておる。其方、姫と先に会うか、それともその侍女に会ってみるか」
使いの目的はなにか。
まさか、カヤのことを気遣ってではないだろう。
空しいことにそれが事実で、ジュエも、カヤも、それはわかっている。
「それで、その娘はなんと言っているのです?」
「自分は姫付きだから、ぜひとも姫のお側におりたいそうじゃ」
「そうでしょうね。それで……どんな娘でした?」
ジュエが事務的にたずねると、一姫はふふ、と笑った。
見え透いた子ども嘘を見抜いて、苦笑する大人のようだった。
「それはそれは、美しい娘であったよ」
ジュエは飾り帯を締めていた手を一瞬止めて、けれどすぐに再開した。
「そうきましたか。姉上はその娘をご覧になったので?」
「いや。不要と思うた」
「ほう、なぜ?」
「大層美しいそうじゃ。金髪に青い瞳のな」
「それはそれは、悪い冗談だ」
ジュエも苦笑した。
「一応訊いてみますが、銀の姫とどちらが美しいと?」
「それがな」
一姫はまた、面白そうに笑った。
きっと姉には、巨蟹宮がその娘を寄越した意図に、もうすでに見当がついたということだろうと思った。
「銀の姫とそっくりだそうだ」
ジュエはまた一瞬手を止め、また、苦笑して動かしだす。
「……そうきましたか。傍家の娘ですかね」
「さてな。銀の姫も傍家の娘であろう?」
「ああ、そうでした」
それで。
ジュエにもわかった。
あまりに浅はかなその意図が。
あるいは試しに、ということだろうか。
つまり、銀の姫が……カヤのような女がレオの君の好みなら、
同じ顔の娘を送り込めば、代わりになるのでは、ということだろう。
わざわざ、レオの特徴を備えた娘を用意するとは手が込んでいる。
「俺は」
ジュエは普段どおりに口を開いた。
にやりと笑みを浮かべて、ちろり、と姉姫を斜めに見る。
「たかが侍女ひとりに、特別何もすることはありませんね」
答えれば、一姫は……にやりと笑った。
「あいわかった」
姉姫は、昨日とは別の、けれどやはり紫色の裾の長いドレスをさらりと揺らして立ち上がる。
「では、今日の予定に変更は不要ということでよいかな」
「ええ、それは」
そして姉姫が出て行く。
ジュエが挨拶しようとしたのに、一姫はさっさといなくなってしまった。
「さて。シオ姉は、カヤが気に入ってくださったのかな?」
思わず呟いて、笑みを浮かべた。
今日の予定では、カヤに会えるのは昼になるか夜になるかわからなかった。
巨蟹宮から寄越されたという娘は、さっさとカヤのもとに送り込んでおいたが、ジュエに会えないのでは、話にならないといったところか。
だいたい星主というのが忙しいということくらい、宮の連中はわかっているだろうに。
レオの君が、カヤを一日側に置いているとでも思ったのだろうか。
まったく、そうしたいのはやまやまなのに。
そう思って、ジュエは今日も猛然と仕事を片付けている。
明後日にはちょっと離れた星見の丘に視察に行く予定だから、カヤを連れて行きたいのだが……どうだろう?
「主さま」
呼ばれてジュエは目線だけ上げた。
ここは執務室だ。
入ってくるのは執政に関わる老使いたちと、ほんの一部の女官だけで、彼女はそのひとりだった。
けれど、女官たちは声をかけてくることなどほとんどない。
「昼餉のお時間でございますよ。行かれないのですか」
「あ? ……ああ、そうだな」
言いつつも、ジュエの目は書類に戻っている。
「銀の姫のところに、巨蟹宮からお目付け役が来たそうで」
「よく知っているな」
「侍女たちの噂は早いのですわ。なんでも、姫さまに似てらっしゃるけれど」
「……けれど?」
中途半端に、いや、わざと途切れた言葉に、ジュエもわざと引っかかる。
「なんでも銀の姫さまより、お美しいそうですわよ」
「はあ?」
そういう話は聞いていなくて、ジュエは顔を上げた。
「そうきたか」
「ええ。でも、実はあまりよく似ている、という感じではないそうです。確かにお鼻の形とか、唇の感じとかは似ているそうですけど。だいたい性格が違うのに、同じお顔になるはずがありませんでしょ? それに、この金の宮にきて、あの容姿で美人と言われましてもかすみますわね」
「……女の見る目は怖いな。で、なぜかすむ?」
「そりゃ主さま」
女官は落ち着いた雰囲気で、余裕たっぷりに微笑んだ。
まるで自分が優れているかのように。
「我らが主さまのほうが、美人であらせられますもの」
「……くっ」
ジュエは肩をぴくり、と震わせた。
手にしていた書類を机の上に放り投げる。
「はっはっは! おまえたちには敵わないな!」
そしてジュエは立ち上がった。
書類の上に重石を乗せて、颯爽と歩き出す。
「面白い。おまえ、供をしろ。姫の食卓にお邪魔することにする」
「かしこまりました」
ジュエはふと思って、この女官を振り返った。
「して、そのおまえたちから見て、銀の姫はどうなのだ?」
すると女官はまた、微笑んだ。
「主さまのお目にかかった姫君に、我らがなんと文句をつけようと?」
ということは、まずくはないということか。
けれど気になる。
女というのは、怖い生き物だ。
「見ての通り、銀の姫は『そこそこ』の美人ではあるが、その点については?」
そこそこなのだ。
たいそうな美人ではない。
無論、星主になるには充分だとは思うけれど。
「そこそこ美人ならようございます。それに、主さまと並んで見劣りなさいませんもの」
「ほう。そう思うか」
「それはお美しくございますわ、お二人は対照的ですから」
「なるほどな」
金の星主と銀の星主。
反する色ゆえに。
「誰か……」
ジュエは、銀の姫の顔を思い描きながら、呟いた。
「そのことを姫に伝えてやってくれないか」
まるで、ひとりごとのように。
女官は返事をせず、ただ、衣装の裾をつまんで、軽くお辞儀をした。
「時間が惜しい。銀の姫の元へゆくぞ」
ジュエは駆け出した。
女官には追いついてこられないが、別に問題はない。
後から来るだろう。
それより今は、早くカヤの顔が見たかった。