獅子宮 5

 三人の姉姫から解放されたのは、夕食の後だった。
 主に一姫が講義をしてくださり、三姫が時々無理に休憩といってお茶を用意してくださる。
 そして夕食の前頃に、二姫が少し動いたほうが食事が美味しいと言って、半刻ほどダンスを手ほどきされた。
 あれはおそらく、カヤのダンスの技量を確かめるためだったのではないかと思うのだが、二姫は姫でありながら、男性パートを上手くこなされていた。
 三姫が、こっそり教えてくださったことには、一姫と二姫がパートナーを組んで踊るお姿はたいそう美しく、宮のものもお好きなんだとか。
「我が宮の見ものはなんと言ってもジュエであるがの、二の姉上はジュエに次いで人気の紳士であるの!」
 そういう三姫はかわいらしい姫君であるが、二姫はなんというか、凛々しいというのがぴったりくるお姿だ。
「二の姉上をエスコートできる男性はあまりおらんのでの! どっちがエスコートしているのか、わからぬ様子での! ジュエ以外の男性とはほとんど踊られぬのだ」
 くすくすと笑う。
 何かを思い出しているらしく、楽しそうだ。
 そういうわけで、カヤをエスコートして男性パートを踊った二姫は、確かに無理をしている様子など少しもうかがえなかった。
 そして楽しく会話を続ける三姉方に混じって夕食を共にしたわけだが、その場にレオの君は現れなかった。
 朝の話では朝食も一緒にとることはあまりないということだったので、夕食もそうなのだろうか、と思う。
 やはりかの星主は忙しいのだ。
 自分がいて、ますます、忙しいのかもしれない。
 めまぐるしく過ぎた一日は、とりあえずここで終わるものと思った。
 三姉方が、しっかり休めとおっしゃられて、カヤを解放したからだ。
 与えられた部屋に戻ると、カヤの世話をしてくれるという三人の侍女が待ち構えていて、就寝の用意をしてくれていた。
 湯浴みを済ませると、断ったのに、これだけは譲れないといって、昨晩と同じく、良い香りのする香油をたっぷりと塗られる。
 昨夜のことを思い出す。
 こっそり部屋から抜け出して、あろうことか星主の舞の座に迷い込んだ夜から、まだ一日しか経っていないことに驚く。
 今日という日はあっというまだったけれど、いろいろありすぎてとても長かったようにも思えた。
「ああ、ケレス」
 退室しようとした三人の侍女を見送りかけて、カヤはふと、思いついて最後に頭を下げようとしていた侍女の名を呼んだ。
「呼び止めてすまない。少しこの書を読みたいのだが、その、なにか羽織るようなものはないだろうか」
 あとは灯を落とすだけとなった就寝前のカヤは、昨夜同様薄物一枚だ。
「はい。それではこちらを」
 客人の姫の、突然の申し出にも、紫の帯の侍女は少しも動じず、さっと一枚の薄手のガウンを取り出してきた。
 黒と茶の中間のような、キャンサーの大地の色のようだなと思いながら、そのガウンを受け取り礼を言う。
「それでは姫さま。あまり無理はなさりませんように」
 侍女は微笑んで、今度こそ退室していった。
 カヤは、苦笑した。
 無理をしているように、見えるのだろうか。
 いや。
 無理をしているのが、見え透いているのだろうか。
 彼女たちにわかるくらいなら、あの聡明な姉姫さまがたにわからないはずはない。
 あの、レオの君に、わからないはずがない。
 あるいは。
 それを隠そうとするなどと、もとより出来るはずもないのかもしれないと思いながら、カヤはそのガウンを纏った。
 そっと窓の外を見上げれば、今宵も月はなく、かえって星がよく見えた。
 少し間をおいて、充分に間をおいて、
 それからカヤは、その扉を押し開けた。


 息が、止まる気がした。


「……其方、なぜ、ここにいる?」
 カヤは、誰もいないはずの廊下に佇むその姿に、文字通り呆然と立ちすくんだ。
「ではなぜ、其方はここにいるんだ?」
 にやりと笑った口許が、カヤにそっくり同じ台詞を言い返す。
 壁に背を預け、明らかに、カヤを待ち受けていた金の星主に、カヤは返す言葉もない。
 手を、伸べられた。
 灯りを落とした薄暗い廊下でも、レオの君に金糸の髪は、美しく輝いて見えた。
「昨夜のように迷い子になられては困るので、迎えに来た」
「な……」
 カヤはむ、と口許を引き結ぶ。
 けれどレオの君はそれにくつくつと笑う。
「まあ、聞きたいことがあるなら答えてやるから、とりあえずこちらへ来い」
 言って歩き出す。
 背を向けたレオの君に、カヤは距離を保ちつつ歩き出す。
 その一角を抜け、どうやら隣の建物に移るようだ。
 塔と塔を結ぶ渡り廊下に差し掛かったとき、カヤは少しだけ歩調を早めて、レオの背中に問いかけた。
「其方いつからあそこにいたのだ?」
「少し前だ。おまえに付けている侍女たちが退室してくるのに会った」
「あ、会ったのか?」
 驚いて足を止める。
 では、なんだ。
 彼女たちは、レオの君がカヤの部屋を訪れたと思っているわけか?
 立ち止まったカヤに、レオの君は気づいて振り返る。
 そして、にやりと笑った。
「俺はべつにそういうことにしてもいいが?」
 見透かしたように、言った。
 かっと血が上る。
 この男は、そんなことまでからかいの種にするのか。
 けれどカヤの態度に、レオはふっと息を吐いて手を振った。
「だが残念ながら、そういう噂は立ちそうにない」
「……なぜ?」
 当然のように言うのがかえって不思議で、カヤはたずねる。
「彼女たちがおまえの部屋から出てきたので、姫はもうお休みになられたかと、俺はたずねた」
「あ、ああ」
 聞いたことには答えてくれると言ったとおり、レオは語りだす。
 数歩戻ってカヤの前までやってくる。
「すると姫は、まだ眠るつもりはないらしい様子であったと答えた」
「……そうだな」
 自分がこのガウンを受け取った過程のことだろうと思う。
 レオはそっとカヤの手をとった。
「なので俺はたずねた。これから夜の散策にお誘いすることはできそうか、と」
 手をとったレオの君は、歩き出す。
 つられてカヤも歩き出す。
「すると彼女たちは答えた。お疲れのご様子は間違いありませんが、お休みになれそうにないのもまた事実」
「……」
 並んで歩いていたカヤは、見上げていたレオの顔から目を逸らした。
「自分たちではどうして差し上げるのが最良かまだ手探りなので、俺に頼むと言われた」
「…………いや。なぜそこで貴殿に」
「よく出来た侍女だろう?」
 カヤは額を押さえる。
 なんと答えればよいのだろう。
 まあ、レオの侍女たちだから、レオの君に絶対的信頼があるのは承知だが。
「それは、そう見えるからだろう。おまえが」
「は?」
 顔を上げる。
 どういう意味か。
「其方が俺といるときくらいしか、本当のおまえ自身の顔をしていないからだろ」
 さらり、と告げられた。
「本当の……?」
「無論、姉上方と一緒のときは、緊張もするだろう。礼儀も必要だ。俺だって姉上の前では多少緊張する」
「は?」
 レオの発言にカヤは驚く。
 そんなことがあるのか。
 だが、星主言えども、姉は姉、やはり目上の人物なのだろうか。
「だが侍女の前ならば、其方はもっと傲慢に振舞っても構わないはずだ」
「そんなことは……」
「ああ、其方はそんなことしないだろうな。だがそれでもいい、ということだ。なにしろおまえは客人であり、星主であるのだから。もしそうした振る舞いであったとしても、誰も咎めはせぬさ」
「それで? 貴様はわたしにどうしろというのだ?」
 どうやら目的の塔に着いたらしく、レオの君はカヤの手を引いて階段に向かう。
 ここは住まいのための塔ではないらしく、舞の座があった塔と同じく、螺旋階段が上へと伸びていた。
「別に。おまえがしたいようにすればいいさ」
 投げやりにも聞こえる調子で、レオはあっさりと答えた。
「虚勢をはって、意地を張って、無理をしなければ壊れてしまうというのなら、俺はそれでも構わんと思うからな。それがおまえなら、それでいい」
 ……まるで、そのとおりの自分を言い当てられて、カヤは言葉を失くす。
 けれどレオはそんなカヤのことはあまり気にしていないように見える。
「だから。なおさら、な。其方が少しでも心を開いている相手が、自分であるなら良いと思うのさ」
 辿り着いた場所は、塔の頂上。
 そこはまるで舞の座のような場所だった。
 引かれていた手が離される。
 床に目を走らせるが、とくに紋などはなく、ここはどこだろうと思う。
「なに。おまえが嫌がるから今日は特別な場所ではないところへ連れてきた。ここは、宮の者たちがあそこの舞の座を見るための場所だ」
 そして示された先に目を凝らせば、暗闇ながらも高い塔が、わずかに見上げるだけで見て取れる。
「……あそこで其方が舞うのを、宮の者はここで拝むのか」
「ま、そういうことだ」
 灯りが欲しいか、というレオの君の言葉に振り返りもせず、カヤはただ、いらないと言葉を返す。
 灯りなど点けては、折角の夜空が堪能できない。
 見上げれば所狭しと星が輝いている。
 キャンサーから眺める夜空と、同じ空とは思えなかった。
「カヤ。こちらにきて座れ」
 離れたところから声をかけられ振り返ると、扇状に広がる階段のごとき段差に、レオの君は無造作に座っていた。
 暗闇のなかでそれを見渡し、カヤはレオに近づいていく。
「ここは……観覧席か」
「そんなもんかな。
 一応建前では、星主に同調して祈るための、祈りの場と呼ばれている」
「なるほど」
 カヤも、適当に座りながら、ちら、とレオの君を見た。
「……先ほどの話だが。わたしは別段其方に心を開いているつもりではないのだが?」
「おや、これは。自惚れだったか?」
 くすくすと笑うレオは、何が可笑しいのやらと思いつつ、カヤは無視して空を見上げる。
 土地が豊かだと、夜空まで美しいのか。
 そんなはずはあるまいに、なぜ、と。
 思っていた、ら。
「カヤ」
 耳元で名を囁かれた。
 そしてふわりとまわされる、腕。
「な……っ、なにをするか!」
 いつの間に近寄っていたのか、レオの君が後ろから腕をまわしてきた。
「そう暴れるな。バランスが悪い」
「貴様っ! 勝手なことを!」
 レオの言うとおり、昨夜と違うのはその立ち居地。
 階段状の場所に座っているカヤを後ろから抱きすくめているレオの君は、つまり一段高いところに座っている。
 振り払おうとした手首を掴まれ、腕ごと抱きしめられる。
「まあ少し我慢してろ」
「……今日は、罰を受ける心当たりがないのだが?」
「そうだな。では今日は褒美ということにしてくれ」
「何が、何に対する褒美だっ!」
 バランスが悪いとのたまったレオは、抵抗するカヤにはお構いなしで、座る場所など調整している。
 立ち上がって逃げようにも、レオの君は掴んだ腕を一瞬でも緩めやしない。
「俺に対する褒美だ。今日もよく頑張った」
「な……っ! 貴様が! よく働いているのは良いが! それでどうして!」
 自分がこんな目に遭う理由になるのだ?
「折角こんな近くに其方がいるんだ。ならおまえに癒して欲しいだろ」
「わからん。わたしは貴様を癒してやるつもりなど毛頭ない」
「そうだろうな。だからこうなる」
「だから、こう……? 強引に、という意味か!」
「正解」
 まるで言葉遊びだ。
 そしてレオが、きゅうっとカヤを抱きしめた。
「な……離せ!」
「俺では癒されんか?」
「はっ?」
 耳元でぼそりと言われたことの意味がわからず、カヤはわずかに振り返って聞き返す。
 抵抗の一瞬止まったカヤの肩に、レオの君が頭を乗せる。
「や……っ」
 金の髪が頬に触れ、薄着越しに伝わってくる体温にカヤは身をすくめる。
 けれどそれもすべて、レオの君はかまわないらしい。
「俺はおまえといると手を出したくなるんだが」
「な……変な表現をするなっ!」
「いや、事実なんだが」
「もっと悪いわ!」
 カヤの肩に顔を埋めたまま、レオの君はくつくつと笑う。
「まあ、手を出すのは我慢するから、其方も少しくらいは我慢してはくれぬか」
「……それに付き合ってやる理由がわからぬのだが」
 けれど。
 レオの君はなにも返事をしない。
 じっとカヤを抱きすくめたまま、緩めることもなく、ただじっとしている。
 しばらく、眠ったのではないか、というくらい身動きしないので、
 カヤは見えないレオの顔を覗いた。
 昼間と同様、穏やかな呼吸のみが返ってきて、やはり眠っているのだろうか、と思う。
「……ジュエ?」
 名を呼んでみる。
 果たして効果は覿面で、レオの君は、うん? と顔を上げた。
 至近距離で目が合う。
「なんだ、カヤ」
「……いや、其方、眠ってしまったのかと思って」
「まあ、眠りの淵を綱渡りしていた感じだがな」
 レオの君はそのままふたたび傾いて、けれど今度は肩ではなく、カヤの顔のほうに額を寄せてきた。
「な、なんだ」
「カヤ」
 名を呼んで、少し引き寄せるように力を込められる。
「もう一度、俺の名を呼んでみろ」
 そして、命令された。
「は?」
「名だ。おまえはなかなか俺の名を呼んでくれぬ」
「……そう気安く呼ぶものではなかろう?」
 言い返すと。
「カヤ」
 耳元でゆっくりと名を紡がれる。
「呼べ」
 命令。
 それはまるで、カヤがそれを聞くのが当然かのように。
 そして。
「ジュエ」
 カヤはさらりとその名を呼んだ。
 そして……にやり、と笑って見せた。
「名を呼べば、離してくれるのだろう?」
「……なかなか、俺のことを理解してきたようで、なによりだ」
 婉然と微笑むカヤに、レオの君が満足そうな苦笑を浮かべる。
 レオの君は腕をほどき、カヤから離れる、その前に。
 ふわり、と唇でカヤの頬を掠めた。
「これはついでだ。礼だと思って受け取ってくれ」
「は……? な、なにが礼だ」
 慌てて身を引くカヤを、レオの君はやはり気にした様子もなく、立ち上がると歩き出した。
「そろそろ部屋に戻ろう。眠れぬからと言って眠らぬわけにはゆくまい?」
 立ち止まって、振り返る。
 慌ててカヤが立ち上がり、追いかける。
 追いつく一歩手前で、レオの君は再び歩き出す。
 けれど螺旋階段の前ではカヤを待ち、その手をとって歩き出す。
 この男はなにがしたいのだろう。
 カヤがいらないと言ったがために灯りを持たないふたりは、ほぼ真っ暗な獅子宮の中を歩きながら、この男は何を考えているのだろう、と、カヤは思わずにはいられなかった。

2007/02/12