獅子宮 4

 黄金の獅子宮。
 その姿は、美しかった。
 初めて巨蟹宮を見たときも、銀色に聳え立つ繊細な宮を美しいと思ったが、獅子宮はまったく異なる姿をしていた。
「カヤ」
 名を呼ばれて、振り返る。
 当たり前のようにカヤの呼名を口にするレオの君は、いつの間にかカヤから離れて、星見の丘をさらに登っていた。
「宮は逃げんから、ちょっと目を離してこちらへ来い」
 言われて、後を付いていく。
 レオの君の目的地はすぐにわかった。
 そこに、植樹したのだろうか、あまり背の高くない木が一本だけあった。
 引いていた馬を結ぶ、というか、引っ掛けるように軽く繋ぐと、続いてカヤに手を伸べてくる。
 エスコートとしては正しいのだろうが、ほかに誰も見ていないところで、いちいち行儀良くそれらを受けるつもりはなくて、カヤはつんとそっぽを向いた。
 するとレオの君は可笑しそうにくつくつと笑う。
 と、思ったら、腕をつかまれて引き寄せられた。
「な……っ! 貴様、なにをする!」
「先に無視したのはそっちだろ。俺も貴様の意向を無視してみただけのことだ」
 当たり前のように言われて憤然とする。
 けれどレオは面白そうだ。
 それがますます、面白くない。
「姫はこんな木の下で休むのは、反対か?」
 わざとらしく丁寧にたずねてくるレオの君に、カヤはつんとしたまま返事をする。
「この美しいドレスが汚れても、叱られるのが貴殿だけだというのなら喜んで」
「おやおや」
 笑いながらレオの腕はカヤを誘導する。
 木の根元に、幹に背を預けるように座らされる。
 そしてレオの君も隣にすとんと腰を下ろした。
「其方、その衣装が気に入らぬのか?」
 いきなり言われて、カヤはびくりとした。
 レオはリラックスした様子で、遠くの獅子宮を眺めているのか、あるいはもっと遠くの空を眺めているのか、視線を飛ばしていた。
「そ、そのようなことは、ない」
 カヤの表情など見ていないのに、カヤはレオの君から顔を背ける。
 けれどレオの君は、その返事に振り向いた。
 そしてカヤの耳に囁く。
「姉上には黙っておいてやるから、言ってみろ」
「だから、そのようなことはないと言っている!」
 レオに背を向ける。
 背後でレオがくつくつと笑う。
 そして、背中に流したままの髪に、レオが触れた。
 なんだ、と少し振り返る。
「このドレスはな。姉上方が其方のために作ったものなんだ」
「……」
「輝くような銀の髪の、紅い瞳の、そこそこ美しい星主だと伝えた」
「……悪かったな、大変美しい星主ではなくて」
「なに、俺は構わんさ。するとこうなった」
「ということは、似合わないのはわたしが姉姫方の予想より不細工だったということか」
「そうではない」
 レオはカヤの髪を撫でる。
「やはりおまえ、そのドレス、気に入らぬのではないか」
「そうではない。ただ……」
「ただ?」
 カヤはまた、レオに背を向ける。
「華やか過ぎて、わたしには似合わぬだろう?」
「そうか?」
 心外とでも言いたそうな声でレオが返す。
 別に、レオの君がなんと言おうとかまわなかった。
 自分のことくらい、カヤはよく、わかっている。
「充分似合っていると思うが、まあ、其方が気に入らぬのなら仕方がないな」
「そんなことは言ってない!」
 カヤは振り返って強く言った。
 気に入らないのではない。
 似合わない自分が、情けないのだ。
 キャンサーの星主にふさわしかろうと用意されたものが、似合わない自分が。
 レオの君は、ふっ、と微笑んで、振り向いたカヤの頬に口付けた。
「そうだな。なら俺が言っておこう。姫にはもう少し淑やかな色味が似合うのではないかと思うとな」
 カヤは、呆然とレオの君を見上げた。
 この男、いま、何をした?
「どうした? 目が点になっているぞ?」
 言って面白そうに笑う。
 その顔には、一瞬見せた優しそうな表情などどこにもない。
「……貴様」
「なんだ?」
 一転、にらみつけたカヤを、けれどレオの君はどこ吹く風で、手を伸ばしカヤの銀の髪を一房救い上げ、口付ける。
「そう気にするな。姉上方にはちょっとしたルールがあってな。まあ、明日以降は別の衣装を着させられるとは思うが、付き合ってやってくれ」
「は?」
 どういうことだろうか。
 確かに、レオが要らないと言ってキャンサーからの荷物を拒否してしまったから、カヤは全面的にレオの周囲に甘えている形になっている。
 だから、文句もなにも言える立場ではないのだが。
「ま、とりあえず問題はひとつ解決したな」
「解決したのか?」
「しただろ。其方が思っているほどそれは似合わなくはないし、どうせ着ていなければならないのは今日だけだということがわかった」
「……」
「明日は明日で、また悩むかどうか考えてくれ」
 そしてレオの君は自分の言ったことが可笑しかったのか、ひとりでくつくつ笑った。
 笑いながら、レオの君は座っていた場所を少しずらして、横になろうとする。
「レオの君?」
「ジュエだ。俺がカヤと呼んでいるときくらい、呼名で呼べ」
「……で、其方、なにをしようとしている?」
 木陰の下草に肘を付いた状態でレオの君はカヤを見上げてくる。
「俺は執務の時間を詰めて休息に出てきているわけだ」
「あ、ああ」
「縛りは小一刻」
「……姉姫は半刻と言っておられなかったか?」
「そんなもの仕事を早くこなせば生まれる時間だろ」
「……貴殿は優秀だそうだな」
「当然だ。だが、やはりその半刻は貴重だ。俺には折角連れてきた其方とゆっくりしている時間はそうない」
「……だか、ら?」
「だから其方、俺の時間に付き合え」
 言うと、カヤの膝に頭を乗せた。
「な……なにをする!」
「だから付き合えと言っている」
 休息に付き合えと。
 それは、レオの君に膝枕してやることなのか?
「わ、わたしは、貴様と蜜刻を過ごすためにここに来たのではないっ!」
「それはそうだが、折角だから貴様も息抜きしてろ」
「別にわたしは息抜きしなければならないようなことはない!」
「そうか。なら……俺に、付き合え……」
 すう、と。
 レオの声がすぼんだ。
 え、と思って、膝の上に乗っているレオの君の顔を覗く。
 けれどあの強烈な蒼の瞳は見つけられなかった。
「レオの君?」
 呼んでみるが反応はない。
「もう、眠ったのか? 本当に?」
 驚いてまじまじと見下ろす。
 けれどその美しい顔は穏やかなまま反応しない。
 わずかな風に、わずかに揺れる金糸の髪に触れてみるが、レオの君は無反応だ。
「…………ジュエ?」
 そっと、呼んでみる。
「ん……」
 すると少し反応したものの、それ以上はなく、やはりレオの君は本当に眠っているのだとわかった。
 理解せざるを得なかった。
 呆然としつつ、けれど美しく穏やかな寝顔をしばらく見下ろして、それからカヤはふう、と息を吐いた。
 幹に背を預ける。
 こんなにすぐに寝付けるなんて、うらやましい、と内心思った。
 いつも寝付けないでいる自分が、空しかった。
「悩みがないのか? そういうわけではなかろうな。疲れているのか? それは……そうだろうな」
 もともと自身の仕事がある上に、何を思ったかカヤを自領に連れ帰って、カヤの知らないところで手を回しているらしいことくらい、無知な自分にもわかった。
 レオの君が勝手にやっていることではあるが、疲れていないはずは、なかった。
「まこと其方はおかしな男だ。なにを考えているのかさっぱりわからぬ」
 美しくて、何でも出来て、一、二の実力者である、レオの君。
 やはり美しく賢い姉を三人も持ち、その上で嫡子たる地位を持っている、レオの君。
 侍女や護衛らとも親しく会話を交わし、彼らに親しまれ信頼されている、レオの君。
 見ていて、そばにいて、カヤは空しくなるばかりだ。
 どうして彼は、自分をここに連れてきたのだろうか。
 自分の何が気に入らず、あるいは、なにが……気に入ったというのだろう。


 星主とは、象徴なのだ。


 午前中に一姫が言った言葉を思い出す。
 祈りの強さ、舞の技量、大切なのはもちろんだが、ではなぜ、星主に容姿が必要なのか。
 星主とは、象徴なのだ。
 星主のもとで、ひとつになるのだ。
 一目であれが我が星主わからねばならぬ。
 そしてその姿が民の心に残らねばならぬ。
 民の前で美しく舞い、そして民がそれに同調できねば、領土の平穏は有り得ぬのだ。
 では、自分は?
 宮家の容姿を引き継ぎ、星主に選ばれた自分。
 レオの君が言ったとおり、そこそこは美しくとも、大変な美人であるかといえば、残念ながらそうではない。
 それでも、自分が星主になったからには、その役目はこなさねばならない。
「其方は良いの。なんでも持っていて」
 人の気も知らないで、人の膝枕で心地よさ気に眠っている頭を、カヤは小さく小突いた。
 それでもレオは起きやしない。
 レオの君が聞いたらなんというだろうか。
 当然だと笑うだろうか。
 それとも、努力したのだと言い返されるだろうか。
 どちらにしても。
「わたしでは到底、及びもしないな」
 近くて遠い場所にその姿を輝かせる獅子宮を見つめる。
 わかってはいたけれど。
 こうして見せ付けられたら、涙が滲んだ。
 悔しかった。
 せめてなにか、なにかひとつ、胸を張れるものがあれば……。
「なにを、泣いている?」
 急に、声がした。
 一瞬なんだかわからず、自らの膝を見下ろす。
 下を向いたら、溜まっていた涙が、零れ落ちた。
 さっきまで確かに眠っていたと思ったレオの君が、その蒼の双眸でカヤを見上げている。
 そして手を伸ばしてきた。
 指先が、カヤの頬に触れる。
 びくり、と身体が震え、慌ててカヤは顔を上げた。
「泣いてなどおらぬ」
 レオの君がむくりと身体を起こす。
 そしてそのままカヤの顔を覗きこんできた。
「なにを、泣いている?」
 同じことを、たずねてくる。
「泣いてなどおらぬと言っている」
 だから同じように答えた。
 けれどレオの君には届いていないように見えた。
 レオの君は、カヤが背にしている木の幹に両手を突いて、覆いかぶさり。
 カヤの目尻から溜まった涙を吸い取った。
「……は?」
 驚くカヤには目もくれず、レオの君はもう一方の目元に唇を押し当てる。
「な……なにをする!」
 カヤはレオの肩をぐいっと押し返すが、レオの君はあまり気にした風もなく、カヤの顔を覗きこんだ。
「なにをしているだと? 泣いている女が目の前にいるのに、慰めない男があるか」
 真剣なのか、冗談なのかわからない口調で言い放つ。
「結構だ! わたしは泣いてなどいない!」
「泣くのはかまわん」
 睨み返せば、さらりと言い返された。
「泣いて済むならそれでいい。泣いても変わらぬことなら、泣いた後変えようとすることだ」
 思わず、レオの君を見つめ返した。
 そこにはやや冷めた眸が、じっとカヤを見つめている。
「それができない貴様ではないと、俺は思ったんだが?」
 カヤはその眸から逃げるように、目を逸らした。
「それは……少し、買いかぶり過ぎだな」
 つい、弱音を吐く。
「そうか? できるだろう、貴様なら。俺の手をはねのけることの出来る、貴様なら」
「はねのけているわけではない。その手をとるだけの技量も資格もないだけだ」
 レオの君が、ふっ、と息を吐いた。
 それが感じられるほど近くで、少し距離を取ろうとするが。
「資格ならあるさ。貴様は宮家に選ばれた正当なる星主だ。そして技量はというとな」
 言うや否や、レオの顔が急速に迫ってきた。
 なに、と思ったが考える余裕はなく、
 唇が触れそうになる直前に、咄嗟にレオの肩を押し返した。
「……やっ……!」
 押せばすんなり離れていき、逆に自分がレオにしがみついているような格好になる。
 それが、レオに踊らされているのだと気づいたのは、レオの君の腕が背中を包み込んだときだった。
「おまえが何を気にしているのかは知らんが」
 抱きしめられて、頭が混乱する。
 耳元で囁かれるレオの声が、やたらと鮮明に脳に響く。
「案ずるな。其方はさほど悪い星主ではない」
 そしてわずかに腕に力が込められる。
「俺が言うのだから、間違いない」
 呆然としたのは束の間、やがて腕が緩められ、再びレオの君の顔に覗きこまれる。
 その顔が、知っているあの、にやり、という笑みを浮かべる。
 それでカヤは、はっと我に返った。
「おまえは充分いい女だと思うのだが」
 ぐい、と。
 レオの君が親指で、カヤの唇を拭った。
「な……っ!」
 カヤは、レオの君を、突き飛ばした。
「ふざけるのも大概にしろっ!」
 思わず立ち上がって怒鳴りつける。
 顔が上気しているのは、たぶん、怒りのせいだろう。
 なのにレオの君は面白そうにくつくつと笑う。
「元気が出たようでなによりだ」
「貴様っ!」
 レオの君は立ち上がると、怒らせたカヤの肩をぽんぽんと叩く。
 そしてそのままカヤを通り過ぎ、愛馬の元へと近寄る。
「なかなか面白い休息だった」
「ふざけるな!」
 振り返って怒鳴ったカヤに、けれどレオの君は涼しい顔で、馬の用意を始める。
 愛馬の手綱を引いて、歩き出したレオの君を、カヤは睨みつけた。
 数歩丘を下ったレオの君が、振り返る。
「どうした。付いて来い」
「……」
「まだ言い足りぬか? 聞いてやる。言ってみろ」
 カヤは、その美しい馬を連れた、美しい星主をきっ、と見据えた。
「貴様にこの身を委ねねば、宮にも帰れぬ自分の身が、心底口惜しいと思っているだけだ!」
 レオの君は、ふっ、と笑った。
 そして、それからかっかと高らかに笑った。
「上等だ」
 そしてレオの君は歩き出す。
 もう、振り向かない。
 それでも。
 カヤは付いて行くしかないのだから。
 本当に、心底口惜しいと思った。

2007/01/30