ジュエは、予告どおりのところまで仕事を済ませると、よし、と立ち上がった。
「では少し留守にする」
執務用の簡易礼服の上に、外出用の外套を羽織る。
「いってらっしゃいませ。でも、できればお早くお戻りくださいますように」
老使いが背中に声をかけるのに、手を振って応える。
「わかっておるよ」
そして颯爽と歩き出す。
扉を開ければ、すぐに親衛隊が控えの間から現れて随行する。
「ちゃんと距離をとれよ、おまえたち」
「心得ております」
からかうように言えば、少し年上と思われる親衛隊の一人が、生真面目に答えた。
ジュエは、にやり、と笑う。
「では、其方らは先に行っておれ」
「御意」
護衛たちの返事を聞くと、ジュエは走り出した。
己の宮の、一室を目指して。
辿り着いた扉の前で一呼吸。
それだけでは上がった息を整えられはしなかったが、ジュエはかまわず扉を開けた。
「おや。早う来たの」
ちょうどこちらを向いていた、一番下の姉が、その瞳をくりくりさせてジュエを見た。
そしてつられて振り返る、ふたりの姉と、客人。
「ええ。もう、大急ぎですよ」
三姫に答えながら、大股に姫君たちの座る長椅子へと近寄る。
「……レオの君」
客人の姫が立ち上がった。
「お迎えにあがりましたよ、銀の姫」
「迎え?」
長椅子越しに対面したキャンサーの姫君は、朝と変わらぬ鮮やかな赤のドレスを身に纏っていた。銀の髪はかわらず下ろしている。
「ああ。約束しただろう、獅子宮は昼間に見せてやると」
ジュエは椅子を回り込むように歩き、キャンサーの銀の姫、カヤに手を伸べた。
なんのことかわかっていないカヤはその手とジュエの顔を見比べる。
「獅子宮を……。あ、ああ、言ったが、あれは本気なのか?」
そして首を傾げる。
なかなか手をとらないカヤに、ジュエは自ら手を伸ばし、カヤの手首を掴んだ。
ぎょっとする顔のカヤにはお構いなしで、その手を引き寄せる。
「悪いが俺は時間が惜しいのでな。説明は道々してやるから、とりあえず、来い」
強引に。
歩き出せば、カヤは一応ついてくる。
「いや、あの……?」
「姉上方、それでは一刻ほど借りていきますよ」
「おや、半刻ではなかったのか?」
「ほほほ、真にジュエは銀の姫がお気に入りじゃの」
「無理はせぬようにな」
なにか言おうとしたカヤを誰も気にせず、三人の姉姫はふたりを見送る。
姉たちのほうを気にしていたカヤも、ジュエが部屋を出ると、急ぎ足で並んできた。
「本当に貴殿は何を考えているのかさっぱりだな」
愚痴を言う。
ジュエは苦笑した。
「そうか? 俺はおまえに約束したから、それを果たそうとしているだけなんだが?」
けれどカヤは思いっきり疑わしそうな顔をする。
「忙しいのだろう? そんな約束、反故にしてしまえばよいのに」
「それではおまえの中で俺が、口約束を守らない男になってしまう」
「……」
どう思ったのか、カヤはそれに返事を寄越さなかった。
ついでに歩調も遅くなる。
「そら。俺が忙しいのは事実なんだ。今だって、おまえを抱えて走って行きたい気分だぞ」
「な……」
ジュエは別に冗談ではなくて、本当にそう思ったのだが、カヤは……カヤもあるいはそう思ったのか、すぐに歩調を早めた。
「走ってもよいぞ。別に其方の前で、淑やかに振舞う必要もないからな」
「それは結構」
強気なカヤにジュエはくつくつ笑いながら、カヤの手を握り直して駆け出した。
馬舎に入ると愛馬の用意は整っていた。
深窓の姫君なら足を踏み入れたこともないだろう場所だが、カヤはこの独特のにおいに眉ひとつひそめず、ただ、物珍しそうにわずかに視線を廻らしただけだった。
「姫は乗馬はしたことがあるか?」
「乗馬は、ない。御者台なら座ったことがあるんだが」
「ほほう」
カヤの手を離し、愛馬の顔を覗きこむ。
挨拶のように身体を撫でて、それからカヤを手招きした。
「俺の馬だ」
カヤは怯まず馬に近寄り、手を伸ばしてみている。
訓練されているとはいえ、馬のほうもじっとしていた。
それをちらと見つつ、ジュエはひらり、と馬に飛び乗った。
カヤが見上げてくる。
「快適とは言えんが、慣れればなかなか気分の良いものだ。……来い」
ジュエは馬上から手を伸べた。
驚いたように見上げたカヤだが、次の瞬間む、と眉をひそめる。
「来いといわれても。すまぬが、乗ったことがないのだが?」
急いで踏み台を持ってこようとする馬番を制す。
「よい。それがなくては乗れないようでは、帰りが困るのでな」
言ってジュエは手招きする。
カヤは素直に近寄ってくる。
「其方はただ、俺に身を委ねればよい。へんに力むなよ」
カヤに後ろを向かせ、ジュエは馬上からぐっと身を乗り出した。
腕でその身体を抱えると、一気に引き上げる。
すとん、とジュエの前に、横座りの状態で納まったカヤが、目を丸くしている。
「そら。乗れた」
「……其方に出来ぬことなど、ないみたいだな」
「お褒めの言葉ととってよろしいかな?」
ふたりの星主が馬上の人となると、すぐに目の前の柵が開かれた。
ジュエは手綱を引いた。
「其方、護衛なしでよいのか?」
馬を駆けさせていると、腕の中からカヤが訊ねてきた。
「姫のことはわたくしがお守りしますよ」
「……わたしが言っているのは、其方の護衛だ」
からかえば、冷めた目をして言い返す。
ジュエは口許を吊り上げて笑う。
「俺の護衛なら周囲にいるはずだが?」
「ああ、そうなのか」
「周囲にも、それから目的地にも先に行っているはずさ。俺の親衛隊は優秀で、仕事熱心だからな」
「……それは失礼したな」
ぷいとそっぽを向く。
ドレスの裾を気にしているようだが、大丈夫だろうか。
昨夜のうちに姉には遠乗りに出ることを伝えておいたので、配慮した衣装だと思ってそのまま連れ出したのだが。
「おい、気になることがあるのか?」
少しして、やはりなにか気にしているので訊ねれば、カヤはふるふると首を振る。
「いや、別に。たいしたことではない」
「乗り心地はどうだ? つらいか?」
重ねて訊ねれば、カヤは顔を上げた。
「そんなことはない。さて、馬が良いのか、騎手が良いのか?」
カヤが冗談ぽく言うので、ジュエもにやりと笑う。
「どちらもだ」
「少しは謙遜しろ」
「事実なのでな」
ジュエは、片手でカヤを自分の方に抱き寄せた。
「な、なんだ?」
「俺に掴まれ。ペースを上げたい」
言えば、カヤは少しおろおろする。
「……どうしたら良い?」
「俺の背中に手を回せ」
つまり、抱きつけと。そういうことだ。
カヤは少し額を曇らせて、考える様子を見せた。
それは嫌がるだろうか。
「それは貴様に抱き……しがみつけと、いうことか」
確認するように、言う。
なるほど、しがみつくか。
「そうだな。振り落とされては無様だからな」
「……」
挑発する。
そのほうが、カヤには良いのだろう。
それならなんとでも言ってやる。
けれどそれ以上の言葉は必要なく、カヤはおそるおそる腕をまわしてきた。
「……これで、良いか」
そっと寄り添ってきた身体を、手綱を持つ腕で挟む。
「ふむ。なかなか良い絵になっていると思うぞ」
「言ってろ」
照れる様子はなく、レオの君が知っているキャンサーの姫のそのままの様子で、カヤは切り返してくる。
にやりと笑みを浮かべて返事のかわりにし、ジュエは馬を飛ばし始めた。
目的地は、獅子宮から最も近い、星見の丘だ。
視察も兼ねて、約束を果たす場所に選んだ。
ここからなら、昼間の黄金に輝く獅子宮の全貌を望むことができる。
なだらかな丘陵に差し掛かり、馬足が遅くなると、ジュエに抱きついて、いや、彼女の言葉で言うとしがみついていたカヤが、そっと身を起こした。
「ここは?」
「この上が、星見の丘になっている」
「……またわたしを、入れてはいけないところへ連れて行くのだな?」
怒ったような、どこか呆れたような顔をする。
「そう言うな。だいたいだな、どうして星主以外は入ってはならぬのだ。神聖な場所だから? では星主は神聖な存在なのか? それ以外の者は不浄なのか?」
言ってはキリがないことだが、ジュエはそう思わずにはいられない。
どうして自分は入れるのに、姉姫は入ってはいけないのか、子どもの頃はわからなかったものだ。
やがて地面に結紋が見え、その神聖な場所、にふたりは踏み入れる。
「星主が神聖かどうかは別として、この場所が神聖なのは確かだから、降りるぞ」
「ああ」
ジュエはするりと馬から降りて、続いてカヤを抱き降ろす。
するとカヤはまた、ちら、と自身のなにかを気にした。
「なんだ? 衣装が汚れたら、俺がかわりに叱られてやるから気にするな」
声をかけると驚いたように顔を上げる。
そしてにやりと笑う。
「そうか。では任せよう」
手を差し伸べれば素直に近寄ってくる。
けれど。
「ほかにもまだ気になることがあるのか? 遠乗りに出ることは姉上がたには伝えてあったから、おまえにとっては急な退席で無礼に感じたかもしれぬが、心配はないぞ」
「ああ……そうなのか。それは良かった。できればわたしにも事前に教えてくれたらもっと良かったのにな」
ほっとした表情をするが、落ち着かない様子は相変わらずだ。
「なにをそんなにそわそわしている?」
「え? いや。……当然、見張られているよな、わたしは」
「おまえ一人じゃないさ。俺とその客人が見守られているんだろ」
「ああ、まあ、そうだな」
おかしなことを言う。
言ってはなんだが、キャンサーの巨蟹宮にいるときは、四六時中見張られているようなカヤが、どうして今更こんなところで緊張するのか?
「なんと言われようと、なんと思われようと、おまえはおまえだ。そんなことより」
ジュエは、カヤの両肩を後ろから掴んで、くるりと身体の向きを変えさせた。
回転させられて少し慌てた様子のカヤだが、すぐにその意図を理解したらしい。
当然だ。
目の前に。
晴天のレオの地に、黄金に輝く獅子宮が聳え立っているのが見えたはずだから。
「これを見せにここに来た。この時間が一番美しいと、俺は思っているので、其方にこれを見せたかった」
カヤは、返事をしなかった。
じっと前方を見ているようだが、何も言わなかった。
しばらくその肩に両手を置いたまま見守っていたジュエだが、あまりに反応がないので肩越しに横顔を覗き込む。
「カヤ?」
「……えっ?」
すると驚いたように顔を向け、そして後ろから生え出したジュエの顔が目の前にあったことに驚いた顔をした。
「どうした?」
「あ、いや」
慌てて顔を背け、一歩離れる。
「美しいな。金の獅子宮か。あれが其方の自慢の宮か」
すっとひとりで立ち、獅子宮を見つめる。
カヤには、獅子宮はどんな姿に見えるのだろう。
そして、自身の巨蟹宮は、どんな姿に、見えるのだろう。
「自慢、というよりは、誇りに思っているというほうが正しいな」
「……そうか」
カヤが離れた一歩をジュエは詰める。
隣に並んでその肩を抱き寄せる。
なんだ、といわんばかりの目で見上げてくるカヤの前で、もう一方の手でカヤの手をとり甲に口付ける。
「気に入っていただけましたか、我が獅子宮を」
わざとらしくたずねれば。
「……まこと美しい宮であられる」
真面目に返事を寄越した。
そして。
「美しく、其方に相応しい宮であられる」
呟くように、独りごちるように。
口にしたままじっとカヤは獅子宮を見つめていた。
ジュエはそんなカヤをじっと見つめていた。