獅子宮 1

 あまり熟睡することもなく、窓の外は明るくなっていった。
 侍女に起こされる前に、自らベッドに身を起こす。
 身体は重いが、もう一度眠る時間などなかろうとふかふかのベッドから抜け出した。
 たしか顔が洗えるような場所があったはずと思って寝室を出る。
 居間の隅には水を張った器と、鏡があって、いかにもそれらしかったので、カヤはそっと片手を浸してみた。
 すると、水は冷たかった。
 今朝早くにここに用意されたものかもしれない。
 遠慮なく顔を洗う。
 顔と髪に水を散らしながら溜息のような深呼吸をする。
 顔を上げれば丸い鏡に見慣れた自分の顔が映っていた。
 真紅の眸が自分を見ている。
 そして。
(……少々、軽率だったか)
 鏡の中の自分が纏っている夜着を見て、カヤはちょっと……反省した。
 この格好で部屋から抜け出したのは、自分に落ち度があった。
 が。
 もう昨日のことだ。
 今日は今日で……別の失敗をしないように、顔を上げていなくては。
「まあ、姫さま。おはようございます」
 突然声をかけられてカヤは驚いた。
 振り返れば、昨日の侍女の一人が真っ赤な布を持って入ってきたところだった。
「お早いお目覚めでいらっしゃいますのね。よくお休みになれまして?」
 そういう彼女は昨日同様真っ白の服に青い帯を締めている。
「え……ああ。そう、だな」
 しどろもどろに答える。
 巨蟹宮の自分の侍女とは、もっと機械的にしか会話を交わさないので、なんだかおかしな感じだ。
「すぐにお着替えになりますか?」
「え……うむ、それで問題なければ」
 カヤが答えると侍女はひとつ頷き、自らが入ってきた扉の外に向かって、
「ケレス! ユノー!」
 名、らしきものを呼んだ。
「あ……あの」
 それでカヤは、目の前の侍女に声をかける。
「はい?」
 振り向いた少女は、多分自分より少し年下だと思う。
「わたしは、其方たちをなんと呼べばよいのだ?」
 すると少女はにこりと笑った。
「なんとでも。ですが、わたくしはパラス、と呼ばれております」
「わかった。ではパラス。その……わたしの、服は?」
 けれど青の帯の侍女が返事をする前に、扉からあとの二人の侍女が現れた。
「あ、姫さま! おはようございます!」
 小柄で、緑の帯の娘がぱっと笑って挨拶する。
「おはようございます、姫さま」
 三人の中で一番年長と思われる侍女は紫の帯だ。
「ああ、おはよう、三人とも」
 階級か何かだろうか、とぼんやり思いながら挨拶を返す。
 するとパラス、と名乗った最初の侍女が、腕に抱えていた赤い布をカヤのほうに掲げた。
「それでは姫さま、お召し替えさせていただきます」


 その真っ赤なドレスは、とても簡素な作りで、動きやすさに問題なかったのだが、ただ華やか過ぎるその色に、カヤはどうしても気後れしてしまった。
 けれどそれを侍女に告げると。
「そうですか? 白い肌と銀の髪が映えて、とてもお綺麗ですわよ?」
「ええ、お似合いだと思います」
 真面目に返された。
「姫さまの眸は赤いと聞いておりましたけど、本当に赤いんでいらっしゃいますのね。キャンサーの方は皆さまそうでいらっしゃるのですか?」
 一番年下と思われる娘が興味深そうにたずねてくる。
 カヤは苦笑して、いや、と答えた。
「銀の髪と紅の瞳は宮家の特徴だ」
「まあ……レオの宮家と正反対でいらっしゃるのね」
 驚いたような感心したような反応。
 レオの宮家の嫡子であるレオの君を思い出す。
 金の髪と蒼の瞳の美貌の星主を。
「そうだな」
 だからだろうか。余計に自分が浮いて見えるのは。
 侍女の一人が髪を梳いてくれている。
「其方は名はなんと言う?」
 年長らしき紫の帯の侍女に、カヤは鏡越しにたずねた。
「わたくしはケレスと申します。あとの二人はパラスとユノーです」
「パラスは聞いた。ではあの小柄な子がユノーだな」
「そうですわ。姫さま、御髪はいつもどうなさってらっしゃいますの? 結われます?」
 鏡の中でカヤの頭の後ろから、ケレスがたずねてくる。
「いや特に……。其方に任せるよ」
「では下ろしたままに致しましょう。主さまはそのほうがお好きなようですから」
 カヤはほんの少し、脱力する。
「……レオの君の好みの問題か」
「もちろんですわ。これから主さまにお目にかかるのですから。あ、でもわたくしは一日お側におりますので、言ってくださればいつでもすぐにお結いいたしますから、ご安心を」
「……わかった」
 まあ仕方ないか、と思う。
 ここは獅子宮で、あの男はレオの星主だ。
「それで、このあとレオの君と顔をあわせるのか」
 今日の予定をまったく知らされていないカヤがきく。
「はい。朝食を一緒にと伺っています」
「……そう」
 そして食事が済んだら、あの男は仕事が待っているわけだな、と思う。
 では、自分は?
 そのとき廊下からぱたぱたと走ってくる音が聞こえた。
 そして予想通りな感じで扉が開く。
「姫さまっ」
 侍女の一人、ユノー、だったっけ、とカヤはひとり復習する。
「ユノー。もう少し静かに走りなさい」
「あっ! 申し訳ありません」
 侍女たちの会話に少し頬が緩む。
 走ってはいけないのではないんだ、と思う。
 カヤの頭に簪を挿していたケレスが、一歩下がってカヤの頭を眺めた。
 出来上がりということらしい。
「それで。走ってきたようだけれど、どうかしたのか?」
 カヤも鏡の中の自分を眺めるともなく眺めつつ、侍女にたずねる。
「はいっ。ご用意が出来次第、食堂にお越しくださいとのことです!」
 食堂に使いに行っていたのだろうか。
 伝言を言付かってきたらしい。
「それでは姫さま、参りましょうか」
 頷いて立ち上がれば、三人の侍女が取り囲む。
 ケレスが自らの衣装を少しつまんでお辞儀をし、先導を始める。
 カヤがついて歩き出すと、パラスが後ろに控えてカヤのドレスの裾を整えた。
 これから一日が始まる。
 カヤはそう思った。
 負けるものか、と、そう思った。



 案内されたのは昨夜レオと別れた食堂だった。
 上座にはすでにレオの君が座っており、
 そして。
 レオの君は、カヤが通されるのを見るや、腹が立つほど優雅に立ち上がってカヤの前まで歩いてきた。
 すっと腰を落とすとカヤの手をとって口付ける。
 それから立ち上がって、見下ろすようにカヤの顔を覗いた。
「おはよう」
「……おはよう」
 互いにだけ聞こえるような、そんな挨拶。
 でもカヤは、レオの君を見てはいなかった。
「そう緊張するな」
「いや……だが」
「言っただろう? おまえの席はあそこだと。決めたのは……あの三人だ」
 レオが苦笑のような吐息を吐き、カヤの手をとって導く。
 仕方がないので歩みを進める。
 テーブルには、三人がすでに席についていた。
 レオは自身の家族は三人だと言っていたから、これですべて、ということになるのか。
「さあ、おまちかねのキャンサーの姫ですよ」
 レオの君がおどけたように言う。
 ここで上手く挨拶しなければならない。
 カヤはそう思ったが、予想していなかった相手に、咄嗟に言葉が出てこなかった。
 が。
 一斉に振り向いた宮家の三人は。
「ほほう。まこと、キャンサーの姫であるな」
「まるで見本のような容姿じゃな」
「ほほ、銀の姫の名にふさわしいの」
 カヤを見るなり一斉にそう言った。
 カヤは一瞬ぽかんとする。
 これは……褒められた、のとは、違うのだろうな、たぶん。
「第一声がそれですか、姉上方」
 レオが呆れたように口を挟んだ。
「姫が驚いていらっしゃいますよ」
 レオに手を引かれ、カヤは自分の席だという場所へと導かれる。
「あ、あの……」
 まずい、とカヤは焦った。
 頭が真っ白で、なんと挨拶すればよいのか出てこない。
 だが焦っても、ますますなにも浮かばない。
「おはよう、銀の姫。昨夜はよくお休みになられたかの?」
 カヤの席の向かいに座るのは、髪を高いところに結い上げた、紫色の衣装に身を包んだ貴婦人。
「は、おはようございます。はい、すばらしいお部屋をお貸しくださいまして……感謝しております」
 慌てて挨拶すれば、レオがすいっとその貴婦人を示した。
「これはわたしの一番上の姉だ。一姫と呼んだらいい」
 それから今度は隣の席の女性を示す。
「そっちが二番目の姉。二姫だ」
「ようこそ、銀の姫。お会いできて光栄じゃよ」
 こちらは短めの髪に、青い衣装を纏った女性。
「わたくしこそ、お招き頂き光栄です」
「で、あれが三姫」
 挨拶もそこそこに、レオが斜め向かいの女性を示す。
「おぬし、姉を紹介するのに、その態度はどうかの」
「わたしがいろいろ言うこともないでしょう。すぐにどんな方々かわかりますからね」
「われらのことを言っているのではない。おぬしの態度の問題だ」
「これは失礼、姉上」
 レオは飄々とかわし、カヤのために椅子を引いた。
 レオのやってくれていることの意味はわかったが、カヤは座っていいものか躊躇った。
「なに、姉上のことならきにしなくていい。普通のおまえでいいぞ」
 そういうレオも普通の話し方に戻ってカヤに椅子を勧める。
 なおも躊躇うカヤに、三姫がほほほ、と笑った。
「では銀の姫。わたしにも挨拶しておくれ。其方に会えるのを楽しみにしておっての。遠慮なく其方のまま過ごされよ」
「……ありがとうございます。お世話になります」
 どういう意味だろう、と少し疑問に思いつつも、それでやっとカヤは椅子に腰を下ろした。



 緊張して味がわからない、というのは、こういうことだろうと思った。
 料理人には悪いが、パンの香りもスープの香りも、カヤにはわからなかった。
 思ったほど質問攻めにされることもなかったが、カヤは全身を耳にしている気分だった。
「なに、われらはな、銀の姫。其方に感謝しておるのだよ」
 カヤの正面に座る一姫が言った。
「は?」
 なにがだろう、と困惑の表情で見返せば、彼女は自分の弟である星主を指した。
「これがな、一緒に食事をすると言うた」
「はあ」
 ということは、普段は彼らは一緒に食事はしないのだろうか。
「姉上、それでは我らが仲の悪い姉弟に聞こえますよ」
「それは其方がつれないのがいかんのじゃ」
 カヤの隣の二姫がつっけんどんに言い放つ。
「そうよの。我らは仲良しよの。我らが主さまだけがつめたいの」
 便乗するように三姫もからからと笑う。
「やれやれ。なぜ俺が責められるんだ」
「あの……?」
 話がよく見えなくてこの場で唯一の部外者は少し額を曇らせる。
「我らは別に仲は悪くないのだ、銀の姫」
 二姫が隣からそっと言う。
 慌てて振り返るが、青い衣装の姫はカヤのほうを見てもいない。
「ただ我らが弟は、最近とんと朝食を一緒にとろうとせんのでな」
「それは姉上」
 淡々とした二姫の言葉に、レオの君が口を挟む。
 が、二姫はやはり顔を上げず、スープを口に運んで、それからまた口を開いた。
「わかっておるぞ。其方は朝議に出ねばならぬ。用意も必要。わかっておる。まこと、其方は立派な星主じゃ。姉はそんなこと責めてはおらぬ」
 言って、またもくもくと食事を続ける。
「じゃがの! 無理をすればこうして一緒に食事もできるのじゃ。銀の姫がいらして、こうして皆が揃って、それを姉は喜んでおるの!」
 三姫がにこにこと続けた。
 カヤはレオの君を振り返った。
「貴殿……わたしのために、無理をしているのか?」
 けれどレオは銀の姫の言葉に、ふん、と鼻で笑った。
「では其方、俺がいなくて姉上たちばかりの朝食でも良かったか?」
 レオの反撃に、カヤは手を止めて見返した。
「明日にはそうなるやもしれんが、今日はそういうわけにはいかぬだろう?
 それとも俺に合わせてもっと早い時間に呼び出したほうが良かったか?」
 カヤは……もし、そうしろと言われたらそうしただろうが、
 多分問題はそこではない。
「もしそうしたなら、では其方が姉上方と対面するのは、俺が朝議に行った後ということになるな」
 む、とカヤは考えた。
 どちらにしても……今以上に緊張することは間違いない。
「俺が多少無理してでも、こうするのが一番良いと思ったから、こうしている。
 おまえが気をもむことはない」
「そうじゃそうじゃ。これはの、少々無理させても大丈夫なのじゃ。
 ちゃーんと休み方も手の抜き方も心得た星主じゃからの!」
 また三姫がおもしろそうにからからと笑った。
「姉上……俺が不真面目に聞こえるのですが、それでは」
「ロクはそんなこと言っておらぬー」
 確かに、仲は悪いどころか、良さそうだ。
 ほとんど食事に手をつけていない一姫と、淡々と食事をこなした二姫が、食後のお茶に手を伸ばしている。
 三姫はサラダを新たにとりわけながら、姫はもう良いのか、と勧めてくれた。
 慌ててまだ残っていた自分の皿のものを口に運ぶ。
「まあ、おまえは、俺が言うとおりしていればいいということだ」
 レオの君が自信あり気に言い切った。
 カヤは思わず手を止める。
 それはそうなのかもしれないが……それにしても。
「ほほう。ジュエは相当銀の姫がお気に入りとみえる」
「まことじゃな。せいぜい嫌われぬようにな」
「これは楽しいの!」
 三人の姉姫たちは、……本当に楽しそうだ。
 だがしかし。
 なんなんだ、この状況は。
「姉上方、からかわないでください」
「おお、其方が真面目なのはようわかった」
「……まったく」
 頬杖をついてレオがぶすっとしている。
 そんな表情はきっと姉姫たち相手でなければ見られないのだろう。
「まあともかく。こいつを頼みますよ、姉上方」
 そう言って、レオは立ち上がる。
 カヤは思わず目で追った。
 応えるようにレオがカヤを見下ろす。
「そういうわけだ。俺は仕事があるからこれで行くが、今日は姉上に相手してもらってくれ」
 そしてぽん、と頭に手を置かれる。
「な……子ども扱いするな」
「おっと失礼」
 くくっと笑ってレオは身を翻す。
「主さまが参られるぞ」
 三姫が少し大きな声でどこぞに呼ばわると、扉が開いて侍女と従者がレオの君に付き従う。
 そうしてレオの君がいなくなると、そこには不思議な空間が残された。
「まあ、緊張するなといっても無理であろうが、硬いことはなしでよいぞ、銀の姫」
 一姫が立ち上がって、カヤの食器を覗く。
 そしてぱん、とひとつ手を打てば、奥から侍女たちが現れた。
「今日の予定はお聞きになっておいでかの、銀の姫?」
 くーっと一気にお茶を流し込んだような三姫が、カヤにたずねる。
「あ、いえ、なにも……」
「其方には、なんの偏見もなく一からすべてを教えなおしてやって欲しいと、弟から頼まれた。姫はそれに異存はないか?」
 立ち上がりながら二姫が静かに告げる。
「は、はい……!」
 慌ててカヤも立ち上がれば、あの三人の侍女たちが後ろに控えていた。
「それでは我らは其方を歓迎する」
 一姫が宣言する。
 カヤはその年上の貴婦人を見上げた。
 その神々しさといったら、跪きたい心境だ。
「ようこそ、獅子宮へ」

2006/12/06