体中から香りが立ち上っているようだ。
カヤは、部屋からこっそり抜け出して、人の気配のない、静かな塔を登った。
屋上は開けていて、風が全身をくすぐった。
見上げると星が無数に輝き、夜空とはこんなに明るかっただろうか、と思った。
静かだった。
きっと皆もう寝静まっているのだろう。
湯浴みを手伝うと言った三人の侍女たちを断ると、それならと、湯上りにたっぷり手入れをされてしまった。
全身に香油を塗られて、おかげで肌はつるつるだが、付きまとう香りに慣れなくて、部屋にじっとしていられなかった。
夜風はやや冷たいが、身体を冷ますにはちょうど良い。
ここから見える星空は、綺麗だし。
静かだった。
ときにどこかの塔で手燭が揺れるような光が見えるので、見回りがいるのだろう。
けれど、それだけだ。
ここには、誰も来ない。
ここは、どこだろう。
どうして自分は、ここにいるのだろう。
自分の家ではなく、
そして本家の崩壊した巨蟹宮でもなく、
……獅子宮に。
暗闇をそっと見回す。
全貌は見えないが、獅子宮は巨蟹宮より大きいと思う。
その中で、ここは宮家が生活する奥宮だろうか。
レオは……どこにいるのだろう。
やはりこの奥宮のどこかにある、私室でもう休んでいるのだろうか。
仕事をする、と言っていたが、こんな時間に施政宮にはいないと思うが。
だが、わからない。
自分はレオのことなど、何も知らないのだから。
あの男、何を考えているのか、まったくわからない。
なぜ自分をここに連れてきたのか。
そんなに、星主として頼りなかったのだろうか。
それが気に触った、とか?
では、ときどきとても……優しいのは、なんだ?
気まぐれか。
あの美しい出で立ちなら、女に困ることもなかろうに。
あるいは、だからこそなんでも手に入ると?
……いや、ではなおさら、自分に目をつける理由がないか。
カヤは空を見上げた。
真夜中を過ぎて、見上げる者などほかにいないのに、夜空は美しく嬌演している。
静かだった。
静かな、闇の中を。
だから鋭く響いた声に、カヤは……強張った。
「貴様、ここがどういう場所か、わかって足を踏み入れているのか」
冷たい声色。
でも、わかった。
この口調は……レオの君、そのひとだ、と。
カヤは振り返る。
唯一の入り口である螺旋階段から、灯りが登ってくる。
現れた男は、顔こそ見えなかったが、手燭のわずかな光に照らされた髪が、闇の中でも美しく輝いていた。
なにやら細かい模様の入ったマントを纏っているようだ。
手燭の動きにときどききらりと光る。
手には……剣を抜いているらしい。
「……え?」
言われたことの意味がわからず、カヤはとろりと答えた。
手燭の光が近寄ってくる。
見つめる前で、光の足元に、なにか模様が描かれているのが浮かび上がる。
「…………?」
それに。
見覚えがあって凝視する。
これは。
この紋様は……きっと、大きく円を描いた、星の紋様ではないのか?
「ここは舞の座であるぞ」
目の前まで来たレオが、やっと顔が見えるようになったと同時に、鋭い視線で自分を見ていることにカヤは気づいた。
「舞の……座」
呟いて、青ざめる。
冷汗が噴出す。
身体が緊張する。
舞の座。
それは、星主以外、何人たりとも立ち入ってはならぬ場所である。
目を見張り、唇をかすかに震わせるカヤの前で、レオは抜き身の剣を鞘に収めた。
そしてカヤの横をすり抜ける。
視線で追いかけるように振り向けば、この高い塔より下方に向かって手燭を掲げ、振った。
どこかに合図を送ったようだ。
けれどすぐにレオは振り返って、またカヤの方に歩いてくる。
が、また、通り過ぎる。
目で追えば、そこにあったことにカヤは気づかなかったが、燭台があるようだ。
レオが手燭の元で手招きする。
カヤは、素直に従った。
動かない足を懸命に動かして、レオの元へと歩み寄る。
レオは、じっとカヤを見ていたが、手を伸ばせば届くかどうか、という辺りまで来たところで、灯りを……消した。
周囲が闇に戻る。
それでもレオの姿は浮かび上がって見えるようだった。
かちゃり、と音がする。
手燭を燭台に置いているらしい。
「無論、其方、知らずに入ったのだろう」
先ほどの冷たい声色とは変わって、カヤの知っている普段どおりのレオの声がした。
「あ……ああ」
カヤの声は、強張っていた。
自分でもわかる。
「ならば、よい」
けれど。
なのに。
レオの声はあっさりそれを終わらせた。
簡単なその言葉の意味が、カヤにはまたわからなくて、少し、呆然とする。
「は?」
「なに、星主の許可さえあれば、入れる場所だからな」
「そんな……大雑把な」
呆れる。
そんな言い訳でよいのか、と。
「だから俺が許可すればよいのだ」
「そんなことでは罪人がこの世からいなくなりそうだな」
「おまえは罪人になりたいのか?」
闇の中でレオが振り向く。
やはりやや大きめな厚手のマントですっぽりと身を包んでいる。
防護用なのかもしれない。
「そういうことではないが……」
「では、なにか罰が必要か? うん?」
「……」
ぬ、と顔を寄せられる。
暗いのでそのくらいしないと顔が見えないのは事実だ。
……ではなぜ灯りを消したのだろう?
「しかし、なぜおまえここにいる?」
「なぜ……といわれても。誰もいなくて、その……空が近くて、気持ち良さそうだな、と」
カヤはしどろもどろに答える。
が、レオは別に呆れもしなかったようだ。
「まあそれは事実だな。ここは奥宮で、いや、獅子宮でもたぶん一番高くて空に近い」
「……そうか」
「だからこそ、舞の座なんだがな」
「……」
「宮の者は、ここを天の座と呼んでいる」
「天の座……」
「まあ、その理由は良い。もう一つ聞きたいのは、なぜこんな時間にここにいるか、だ」
互いに立っている立ち位置はそんなに遠くないが、互いの表情はよく見えない。
少なくともカヤからは、レオの顔など見えなかった。
「……眠れぬか?」
カヤが答えられないでいると、レオが……そっと窺うようにたずねてきた。
「えっ? いや……」
慌てる。
レオと、彼が用意してくれた侍女も、部屋も、すべて、とても良いものだった。
だから。
ぬ、とまた、レオの顔が寄せられる。
思わず視線を逸らす。
「その……そういうわけではないが」
「慣れぬ旅に疲れたであろう?」
「そう……だが」
「まあ、眠ろうとしたのではあろうがな」
そう言われてカヤがレオに視線を戻せば、レオはカヤの全身を眺めているところだった。
「そういう格好でうろつくのは、いくら奥宮の中でも控えたほうがよいかと思うが?」
言われて。
かっ、と頬に熱が集まった。
闇の中、そんな表情はレオには見えなかったとは思うが、カヤは二三歩離れて背を向ける。
「お目汚しですまないな」
なんだか急に、自分がとても薄着でいるような気がした。
「俺は構わぬが。だが、おまえが辿り着いた場所がもしここでなく、誰何したのが俺でなかったらと思うと、少々面白くない」
足音がする。
カヤが距離を取った二三歩を、レオは埋める。
「そうだな。誰もおまえに接触できなかったという点では、おまえが侵入した場所がここで良かったのかもしれん」
そこで、ふとカヤは気づいた。
顔を上げる。
少しだけ振り返る。
「もしかして……貴殿がここに来たのは、ここに誰かいると聞いて、なのか?」
「当然だろうが」
レオは、カヤのすぐ後ろまで来ていた。
後ろから、肩越しに覗き込むようにして。
「しかし其方、その格好では寒かろう」
言うと、レオは手を広げ、カヤを後ろから抱きすくめた。
「なっ……! なにをする!」
カヤは驚いてもがいたが、レオの腕はびくともしなかった。
「おとなしくしろ。これは防護マントだから厚いのだ。二人入るにも充分だしな」
言葉どおりカヤまで包み込んだマントの中は暖かくて、思わず心が緩みそうになった。
静かだった。
音はなく、ただ時折かすかな風が、二人の髪を少しだけ揺らした。
カヤは自分の頬に、自分のものではない髪が触れるのを感じて、わずかに顔を上げる。
「あの……レオ?」
自分を……抱きしめたまま、動かなくなってしまった金の星主を促す。
「なんだ?」
けれどレオはまるでこうしているのが自然かのように問い返す。
「なんだ、ではなくて。いつまでそうしているつもりだ。離せ」
「まあ待て。今考えているところなのだ」
レオの声は耳の少し上辺りから響いてくる。
顔は、見えない。
「……なに、を?」
「おまえに与える罰を何にしようかと思ってな」
「……!」
びくり、と身体が強張った。
星主の領域には入ってはならないと、この世界に生まれた者なら、子どもの頃から言われ続けている。
傍家の娘とてそれは同じで、むしろその点はきちんと躾けられてきたと言ってよい。
だから、どんな星のめぐり合わせか、自分が星主になってしまった今でも、舞の座のような星主の領域に入るときは緊張するというのに。
「そう恐れずともよい」
レオが囁き、カヤの腕を夜着の上からわずかに撫でた。
ぎょっとして別の意味で強張る。
「そうだな……おまえの」
レオの声が近づく。
「おまえの名を、教えてくれ」
「……は?」
言われたことに、思わず間抜けな返事をした。
名とは、宮家の者なら普通、二つ持っている。
まことの名、真名と、親しき者が呼び合うための名、呼名だ。
けれど、普通はそれ以外の、地位や外見から代名をつけて呼ぶものだ。
「名、だと?」
「俺の宮の者たちは、おまえを気に入ったらしい。もう随分と噂が飛び交っているぞ、銀の姫」
銀の姫、と侍女たちは呼んだ。
この髪の色がレオでは珍しいからだろう。
だがそれとこれと、なにが関係あるのか。
「噂? 噂とはどんな?」
陰口は……それなりに慣れているつもりではあるが、数刻前に着いたばかりのこの場所で、どうしてそんなに噂になるのか?
カヤは眉をひそめるが、もちろんレオには見えないだろう。
くく、とレオが笑った。
カヤがむっとしたところで。
「おまえ、今宵はよい香りがするな」
関係のないことを言った。
しかもその内容ときたら。
「な……っ! 貴様、離せっ!」
からかわれている、と思う。
カヤはレオの腕を解こうともがいたが、レオは構わずカヤを抱きしめた。
「離せと言っている!」
「駄目だ。まだ罰が終わっていない」
「はっ?」
「名を教えてくれるまで離してやらぬ」
レオは……どこか楽しそうに告げた。
いや、カヤの反応が面白かったのかもしれない。
「……これも、罰のうちなのか」
カヤが悔しげに言うと、レオはふうむ、と軽く唸った。
「罰というのは言い方がよくないか。よし、お仕置きということにしよう」
「違わないではないか」
「よいのだ。お仕置きのほうが俺が楽しい」
「貴様……」
完全に楽しんでいる様子のレオに、けれどカヤはなにも言い返せない。
罰を受けるようなことをしたのは、自分なのだ。
が、それにしても。
「そら。言えよ」
楽しむために、他人の名を弄ぶとは、星主らしからぬと思う。
「言うのは嫌か?」
「貴様、名というものの意味、わかっているのか」
「当然だ。俺の呼名は家族しか知らん」
それが、普通だ。
当然のように、宮の者が皆知っているほうが、異常だ。
レオが、カヤを抱きすくめたまま、耳元に唇を寄せてきた。
「其方の名を、教えてくださいませんか、銀の姫?」
そして、わざとらしく願い請うた。
カヤは……怒るより、哀しくなってしまった。
「わたしの名には、さして価値がないぞ」
「ほう? なぜそう思う?」
「わたしの名は、カヤという」
さらり、と、自らの呼名を唇に乗せる。
レオの君がほんの少し、息を呑んだ。
「だがこの名は、我が宮の者は皆知っている」
「は?」
今度はレオが驚いたように声を上げた。
「なぜだ?」
「知らぬさ。わたしが巨蟹宮に呼ばれたときには、すでに皆知っていたのだ」
カヤは少し振り仰いで、レオの顔を見ようとしたが、見えなかった。
「だから、わたしの名にはあまり価値がない」
「……確かにそれは少々異常だな」
レオが驚いたように呟く。
「だろう」
カヤは自嘲的に笑った。
そんなカヤを、レオの君がぎゅっと抱きしめた。
「な、何をする!」
「……カヤ」
名を、呼ばれた。
それは、父や母が自分を呼ぶときの響きに似ていた。
「カヤ……」
居心地がいいような、悪いような。
カヤは身じろぎした。
「……なんだ」
「俺の名は、ジュエという」
ぎょっとした。
いま、レオの君はなんと言った?
「俺の名は、両親と兄弟しか知らぬ。家族以外に言ったのは、其方が初めてだ」
「な……っ!」
「カヤ」
レオはカヤの名を繰り返す。
「たとえおまえの名を知っている者が多かろうと、やはりおまえの名にはそれなりの価値がある。軽々しく扱うな?」
「……わかっている」
カヤは少し沈んだ気持ちで答える。
「カヤ」
レオは……カヤの名を繰り返す。
「この宮では、おまえの名を聞く者はいないだろうとは思うが。もし、聞かれたらどうする?」
「は?」
カヤは驚いてレオの顔を振り返ろうとしたが、後ろから抱きすくめられている姿勢では、振り返れなかった。
「その相手が、俺のことを名で呼ぶ者ならば、それは俺の兄弟だ。
おまえが良いと思えば……名を教えても良い。
だが、それ以外のやつには絶対に駄目だ。この先、ほかの宮のやつでもだ。いいな?」
念を押されて、カヤは困った。
何を言っているのだろうか、レオは?
「レオ……それは、どういうことだ?」
「別に。今のを聞いて少し不安になっただけだ」
「は? ……いや、やはりよくわからない」
するり、と。
レオの腕が解かれた。
途端に身が軽くなったような、けれどもの寒いような感覚に襲われる。
「それより、カヤ。俺の名を呼んでみろ」
「は?」
カヤを離したレオはカヤの正面に回ると、ぐいっと顔を寄せて言った。
「俺の呼名だ。おまえに呼んでもらいたい」
「な、何故だ。わたしは……聞いていないぞ」
名を呼ぶ、というのは、本来、特別な意味がある。
相手が、特別であるという意味が。
「呼んでくれんのか」
「なぜ呼ばねばならぬか」
カヤの返答に、レオはふうむ、と考えて、そして腕を伸ばしてきた。
「どうやら離すのが早すぎたようだ」
再び、いや、今度は正面から抱き寄せられて、カヤは慌てた。
「やっ! なにをする!」
「名を呼んでくれるまで、離さん」
「ちょっ……待て!」
手でレオの胸を押して身体を離す。
案外すんなり腕は緩められ、かわりにレオが顔を覗きこんできた。
「……」
「うん? 聞こえんぞ」
覗き込まれて、どうして自分がこんなふうにからかわれているのか、カヤはいまひとつ釈然としないまま、レオを軽く睨みつける。
レオは、面白そうにこちらを見下ろしている。
「…………ジュエ」
仕方ないので、その名を、唇に乗せる。
これが、レオの名。
家族しか呼ばない、彼の呼名。
カヤがそれを口にすると、レオは……ジュエは、ふっと笑った。
「よく出来た」
微笑んで、さらり、とカヤの頬に触れる。
そして、背を向けた。
「それではそろそろ部屋に戻ろうか」
レオが手を差し出してくるのを、カヤはじっと見つめ返す。
「そら、来いよ。送っていくから」
カヤは、手を取らずに歩き出した。
レオは手燭を手に取ったが明かりを灯すつもりはないらしい。
もっとも、夜着一枚のカヤは、灯りに照らされたくはないのだが。
精一杯つんとした姿勢のカヤに、レオはくつくつと笑う。
螺旋階段を降り、宮の中を移動する。
歩きながら、カヤは自分の部屋の位置が、実はあやふやだったことに気づいた。
内心の焦りを表に出さないように、レオの後をついていく。
やがて一つの扉に辿りつく。
確かにこの廊下には見覚えがある。
「今度こそ眠ってしまえよ」
レオが囁くように言った。
側に侍女の部屋があるのだろう、静かに振舞う。
「あ、ああ」
「明日から予定が立て込んでいるからな」
「……そうなのか?」
「まあな。お楽しみだ」
「貴殿が言うと楽しくなさそうだ」
カヤの口答えに、レオが小声で笑う。
それからレオは、カヤの肩をぽんぽんと叩いた。
「おやすみ」
そっと言い残すと、カヤを置いて歩き出す。
「……おやすみ」
その背中にカヤが小声で言うと、レオは少し振り返って軽く手を挙げ、けれど立ち止まらずに歩み去った。
カヤは、自分に与えられた部屋に、身を滑り込ませた。