真っ暗な自室に灯りを灯す。
朝、どたばたと出て行った部屋は、けれど当然のように整然とした様子に戻っていた。
まあ、あるいは。
掃除というのは部屋の主がいないほうがやりやすい、と考えられなくもないが。
身体は疲れている。
このまま寝台に倒れてしまえばどれだけ楽かと思うが、けれどそれでは明日の自分にツケがまわってくる。
そのとき。
ことり、と音がした。
「主さま」
扉の向こうから声がする。
「……今日はさがってよいと言ったはずだが?」
その声は、自分の世話をしてくれる者の中でも最も年長の者と声からわかる。
「若い娘たちはちゃんと下がっておりますよ」
扉の向こうから続ける。
「それではまるで、俺が喰ってしまいそうだと言っているようだな」
「お戯れを。主さまがどんな方か、知らぬわたくしではございませんのよ?」
「それで? それでも噂にならないように、其方が待っていたのか。ご苦労なことだな」
「滅相もございません」
真剣なのだが、どうもからかわれているような気分になるのはなぜだろう。
レオの君は窓の外を窺う。
日が沈んで空は夜になろうとしていた。
「せっかくだから頼もうか。湯浴みの用意を」
軽く振り返って声をかければ、ドアの外に控えていた女官が動く音がした。
隣接する部屋でわずかに音がする。
腰紐を解いて、飾り帯を外す。
それらを無造作にほおって、テラスに出れば薄い月が昇っていた。
雲は少ないが満天の星空とはいかないようだ。
姫は……もう部屋に戻っただろうか。
いや正確には、部屋に連れて行かれただろうか。
彼女のために用意したのだが、果たして気に入ってくれたか。
レオの君の私室からでは、その部屋は見えない。
「主さま。お湯の用意ができましてございます」
背後から声がかけられ、レオの君は何も言わずに踵を返した。
しかし、なんだ。
げっそりする量だな、とレオの君は思った。
誰もいない執務室に、明々と火を灯して、書類の束を右から左へと移動させる。
ちら、と見て、すぐ済みそうなものは目を通す。
そうでないものは即座に移動だ。
こんな面倒なものは今読んだら頭が痛い。
明日、調子が乗った頃にまとめてやるのが効率的だ。
そうして処理済と、まだ手をつけていないもの、それから明日に持ち越されることが決定したものの三つの山が、均等な高さになった頃、さきの女官がこそりと入ってきた。
「なんだ、其方まだおったのか?」
「これで下がらせていただきますよ。お茶です、主さま」
「……ありがとう」
彼女たちの、仕事好きにも力がいる。
下がれといったら出直してくる。
来なくていいと言ったら文句を言う。
まったくどうしてそんな体制になっているんだか。
「銀の姫さまはお休みになられたようです」
下がるといった女官がぽつり、と言ったので、レオの君は手を止めた。
「ん? ああ、そうか」
返事をして、また手を動かす。
これは……明日だな。
「湯浴みを手伝わせてくれないと、あの子達が言ってました」
レオの君は、また、手を止める。
「あのな。そんなこといちいち報告してくれなくても……」
「あら、主さまはお気になりませんの?」
「気になる方向性が違わないか。キャンサーの姫は深窓の姫君ではないと言っただろう」
だからそういう侍女を選んだのだから。
この女官、わかっているのかと思ったが。
「ええ、そうですわね。でもお気になるかと思いまして」
そしてころころと笑う。
その仕草は上品で、噂好きの侍女たちよりは少し年上のせいか、それとも立場のせいか、悪い印象はまったくないのだが……どうもレオでは歯が立たない。
「そんなもんかね?」
女官が持ってきてくれた茶に手を伸ばす。
湯気は上がっていないから、冷まして持ってきたらしい。
口に運べばほんのすこし酸味のある味が口に広がる。
「そのうちもっと気になるように、おなりです」
「はあ?」
女官は退室することにしたらしく、扉に向かう。
「わたくしも早くお目にかかりたいですわ」
戸の前で振り向き、礼のために裾を少しつまんで、
「主さまのお目にかなった姫さまに」
にっこり笑って、お辞儀した。
「……そんなもんか?」
「失礼致します」
答えず女官は出て行った。
「気になる、ねえ?」
そんなこと。
充分気にしている。
もう、姫は眠っただろうか。
長旅をさせた。
キャンサーの馬車よりは居心地のいい仕立てだったとは思うが、それでも慣れぬ旅は疲れよう。
あるいは緊張して眠れないだろうか。
積星宮では不安の色を垣間見せたあの瞳は、ここへ来てときに不安だけでなく怯えも映した。
それで、ここは彼女にとって敵地でしかないのだと気づいた。
自身の宮の侍女たちは、姫にとっては味方ではないのだろう。
レオの君と楽しく面白く会話する侍女たちを、さも不思議そうに眺めていた。
それをどう思っただろう。
うらやましいと? 自分もそうなりたいと?
あるいは……ただ、信じられないと?
信じないと。
まるでそう言っているような眸をしていた。
だから、無理やりでもこじ開けてやりたくなった。
なのに。
あのとき……確かに自分も疲れていたし、明日の予定を頭の中で考えていたものだから、ついいつもの調子でやってしまった。
あんなふうに放ってしまうものではなかったのに。
姫をひとり置いて、出て行こうとしてしまった。
そのことに、呼び止められるまで気づかなかった。
馬鹿だな、と思う。
なんのために彼女をここへ連れてきたのか。
どうして、彼女はここに来たのか。
あんなに警戒して、おしゃべり好きの同世代の侍女にまで、その殻を解かないのに。
あのとき、キャンサーの姫は自分を呼んだ。
たった一言だったけれど、自分を引き戻すには充分すぎた。
思い出して溜息をつく。
それすら自分らしくはないが。
「ま、ここで悔やんでも仕方がない。とりあえずは、明日だな」
もう姫は眠っただろうか。
それとも……眠れないだろうか。
「俺も眠れんな。この仕事の山では」
そしてレオの君は再び机に向かう。
この仕事を片付けないと、明日も仕事に追われていては、姫にも会えぬというものだ。
レオの君は書類に手を伸ばした。
仕事が速いのも、集中力が凄まじいのも、なにも今に始まったことではないが、いい加減疲れた身体をうんっと伸ばせば、刻は真夜中を過ぎていた。
「我ながら働きすぎだな」
軽口を叩いて立ち上がる。
明日も朝議は行われる。
当然自分も出席する。
そろそろ床につこうかとぼんやり考え、書類に重石を乗せる。
立ち上がり窓の外から空を見れば、もうこの位置から月は見えなくなっていた。
そのとき、ドアの外に気配を感じた。
ことり、と音がするのは、跪く音。
いくらなんでも女官はこんな時間にはいない。
「……なんだ?」
レオは扉の向こうに鋭く問いかける。
「はっ。お知らせしたいことが」
帰ってくるのは男の声。
親衛隊だ。
「天の座に、人影が見えたとの報告」
「……なに?」
レオが振り返る。
天の座。
それはこの獅子宮の星の座のひとつだ。
星主が舞を奉納するための場所で、星主以外は何人も立ち入ることは許可されていない。
レオは大股で部屋を横切りつつ、問いかける。
「人数は」
「は……それが、ちらと一瞬見えたような、というだけで。おそらくひとりではないかと」
「見えたのがひとりということだな」
「さようでございます」
壁に飾りのように吊るされている金の柄の剣をとり、腰に佩く。
マントも同様に、金の刺繍の豪奢なものなが、これらは決して飾りではない。
星主の戦装束で扉を開ければ、親衛隊の若い男が道を譲る。
「見に行く」
「はっ」
急ぎ足で天の座に向かう。
その塔は、この奥宮の中にあった。
獅子宮でも奥まった一角だ。
周辺の塔より高く、そしてその天辺に舞の座……星の座は設けられている。
ゆえに、天の座、と宮のものは呼ぶ。
まずは天の座が見える隣の塔に登る。
ここでは親衛隊が定期的に見回りを行っているので、こんな時間でもすぐに侵入者を
見つけてきた。
無論、天の座があるのはここより高いので、そのすべてを見渡すことはできないのだが。
そこへ着けば見張りの者が闇に目を凝らしているところだった。
「様子は」
現れるなり詰問を発するレオの星主に、見張りが振り返る。
「はっ。それが……動きがまったくありません」
「もうそこにはいない、というのではなく?」
「わかりません。ただ、三つの塔のどこからも、人が出て行った様子は捕らえておりません」
「あそこにじっと人がいると?」
「……わかりません」
申し訳なさそうに言うが、仕方がない。
彼らはここより近くには寄れないのだから。
「人は、確かにいたのか?」
「それは三つの塔でそれぞれ確認されているようです。あまり大柄ではなかったという意見も一致しています。今は迷い子になる子どもも宮内にはおりませんが、念のため傍家に確認をしましたが、皆様お部屋でそれぞれお休みと……」
そこまで確認したらしい。
それでも仕方ないのでこんな時間にもかかわらず、星主に報告がきたということだ。
レオの君も幼い頃は、誰も入ってはならないといわれたあの場所が気になって、夜中に忍び込んでみたことがある。
で、さっさと当時の親衛隊に掴まった。
宮家の子どもは一度や二度、あの場所に入ったことがあるものなのだ。
それは入るなという注意を促すことで、あの場所の神聖さを教える方法となっていたからだ。
ただ、侵入するのが宮家の者なら、よい。
実際何人たりとも入ってはならぬとはいえ、星主の許可さえあれば、入ることはできるのだ。
「なるほど。迷い子になる子はいまいない、か」
迷ったわけではないのだが、そういう子どもは迷い子と呼んでいる。
迷って入った子どもには、罪がないからだ。
まあ……確信犯は後を絶たないのだけれど。
「いや、まてよ?」
そこで、レオの君はふと思った。
確信犯になる子どもは確かに今、宮家にはいない。
けれど……奥宮にはいる、かもしれない。
ふと、思った。
本当の迷い子、というのも、ある。
「ああ……わかったぞ」
レオは、妙に晴れ晴れとした顔でそこから天の座を振り仰いだ。
「はっ?」
親衛隊は怪訝な顔をする。
レオの君はそれに微笑んで振り返った。
夜闇のなかでもレオの君の金の髪は光を放つように美しく、そしてその顔も美しかった。
「たぶん、そういうことだ。念のためこれから行ってみるが。俺の予想通りで問題なければ、合図を送る。警戒を解け。その場合俺はまっすぐ部屋に戻らせてもらうぞ」
「は、はいっ」
驚いた様子の見張りたちに微笑を残して、レオの君は塔を降りる。
そして宮家でなければ入れない塔に、そして星主でなければ入れない星の座に向かう。
「しかし、あやつ。どうやって入ったのだ?」
ほんの少し疑問には思うものの、まあいいか、と歩みを速める。
塔に入ると、天辺まで続く螺旋階段を、レオの君は駆け上がっていた。
おそらくその先にいるであろう、人物を目指して。