招待状 4

 初めて見るのか、あるいは別に意味があるのか、キャンサーの姫は睨むように窓の外を見ていた。
 馬車は東に向かって走っているから、傾きかけた日の光は、姫の目には入らず良いのだろう。
 レオは斜向かいに座ったまま、そんな姫を眺めていた。
 だからその変化にはすぐに気づく。
 何かを見つけたらしい。
 じっと進行方向の先を見つめていた姫が、そっとレオを伺うように振り返った。
 目を合わせて、レオは微笑む。
「どうした。何が見えた?」
 キャンサーの姫は、まるでおもしろくない、とでも言いたげな態度で目を逸らす。
 さて、なんだろうか、と思ったところで、従者の一人が近づいてくる音がした。
「主さま。境界門です」
「そうか。だが気を抜くなよ」
「御意」
 窓越しに会話をする。
 そしてレオはキャンサーの姫を振り返る。
「さては境界壁が見えたのか?」
「……境界壁は知っている。境界門、というのだな」
「ああ。おまえ、キャンサーから出たことは?」
「ない」
 そしてキャンサーがじっと見つめるまま、レオの一向は……と、いってもなんと馬車二台の軽部隊なのだが、は、キャンサーからレオの領地へと入った。
 馬車の揺れ具合が変わるので、外を見ていなくともわかる。
 もちろん、今のレオは、目の前の姫の様子でそれもわかるのだが。
「もうすぐ休憩で止まる。今暫く辛抱してろよ」
「休憩……そうか」
 窓の外からちら、とレオの方に視線を寄越し、ひとつ頷く。
 そしてレオの言ったとおり、からからと快調に進んだ馬車は間もなく速度を落とした。
「主さま、問題ありません。どうぞ」
「よし。休息にしよう」
 声がかかり、にわかに外が騒がしくなる。
 窓に齧り付いて外を窺っているキャンサーの姫に、レオの君は声をかけた。
「そうせずとも降りて見ればよい」
 レオの君は自ら戸を開け、ひらりと飛び降りる。
「おかえりなさいませ」
 すると一斉に声がかかる。
「ああ。皆の者ご苦労だ。しばし休息せられよ」
 そこにいるのは、同行していた者たちだけではない。
 この場所で待機していたレオの者もいくらかいた。
 彼らは。
「いらせられませ」
 レオの背後に向かって一斉に声をかける。
 振り返ればキャンサーの姫が顔を覗かせたようだが、驚いて引っ込んだところだった。
「姫、出て参られよ」
 呼べばキャンサーがこそりと顔を出す。
 その表情に戸惑いがあって、レオはくつくつと笑った。
「驚かせてすまなかったな。我が領土に入ったので、供の者が合流したのだ」
「そ、そうか」
 今までが少なかったのだな、そうだな、と消え入るような声で呟く。
 自らの土地を出て、やっと実感したのかも知れない。
 ひとりでやって来たことへの、不安を。
「さあ」
 レオが両手を広げると、……キャンサーの姫はきょとんとした。
「其方はわざわざ俺の侍女の手を煩わせたいのか。
 それともひとりで飛び降りるか」
 わざと意地悪く言えば、キャンサーはむっとした顔をして、腹を括ったように手を伸ばしてきた。
 レオはにやりと笑うと、手を伸ばして、ひょいっとキャンサーの身体を抱き降ろす。
「……っ!」
 地面に着地させると、驚いたような、怒ったような、まあいつもの顔に戻った。
「俺は其方が、嘘でもいいから少しは笑ってくれることを期待するぞ」
 そっと耳打つ。
 キャンサーがはっと顔を上げたとき、レオのことをよく見知っている女官が近寄ってきた。
「まあ、お綺麗な姫さまですこと」
 明るい声がして、けれど、レオは隣に立つキャンサーがびくり、と身構えるのを確かに感じた。
「ああ、其方か。当たり前だ。そう言っただろう」
 返事をしながらキャンサーの身体に手回す。
 緊張しているのか、いや、警戒しているのか、レオの手を振り払う余裕はないようだ。
「もちろん覚えておりますよ。ささ、姫さま、どうぞこちらへ。
 主さまのお車は広いとはいえ、閉じ込められてさぞ窮屈でいらっしゃったでしょう?」
「……俺が悪者に聞こえるのだが」
「お茶の用意をしておりますからおくつろぎくださいませ」
 言うや、キャンサーの姫の手を取り、レオの元から奪い取る。
 ついでにレオの君の言葉には無視だ。
 驚いたようなキャンサーがちら、とレオを振り返ったので、レオの君はひょいと肩をすくめて見せた。
 そして自分は踵を返す。
 女のことは女にまかせておけばよい。
 レオは従者の一向に近づく。
「どうだった」
「はっ。特にそれらしきものは、なにも」
 一言で、的確な返事が返ってくる。
「ふむ。そこまでは荒れていないということか。まあ、姫の奉納の舞はなかなかだったしな。皆、ご苦労だった」
 そこにいるのは比較的若い者たちで構成されている、レオの君の親衛隊だ。
 今回の一行の護衛をすべて担っている。
 レオはひとり離れて歩いて行こうとしたところ。
「主さまー!」
 誰とは知らぬが侍女のひとりが呼んだ。
 振り返れば、倒れそうな勢いでその場に跪く。
「なんだ?」
「あの、僭越ながら、ご一緒にお茶しませんか」
 侍女の言葉に、レオはぷっと吹き出した。
 それだけで、すべて理解する。
 笑いながらつま先の方向を変える。
「どうした。キャンサーの姫君は相当扱いにくかったか」
 ざくざくと歩いて、侍女の横をすり抜ける。
 すればすぐに侍女は後ろをついてくる。
「そのようなことはありません! お綺麗だし、控えめで繊細でいらっしゃいます!」
「わかったわかった」
 なんとなくそれで想像がついて、レオは女たちの茶会の輪を目指す。
 遠目にも、キャンサーの銀の髪は美しい、と思った。
「まあ主さま」
「ほんと、飛んでこられましたわ」
「……おまえたち、どんな噂をしてたんだ」
 近寄れば、すぐに侍女らが軽口を叩く。
 キャンサーに手を焼いて困っているわけではないらしい。
「主さまは、銀の姫君のような慎み深い女性がお好みだったですね、というお話ですのよ」
「それではレオの娘はお好みでいらっしゃらなかったのですのね」
「お妃選びに苦労なさいますわよ」
「あら、それは話が飛びすぎよ」
 きゃらきゃら。
 女はそういう話が好きだ。
 やれやれ、と苦笑いしながら座に座る。
 おしゃべりしつつもレオの君に茶が差し出され、扇を持った者がすぐに仕事にかかる。
 仕事に抜かりはないから文句はない。
 だが、楽しそうなのは侍女たちばかりで、肝心のキャンサーの姫は、ときに話を振られても、ええ、とかさあ、とか相槌を打つのみだ。
 おそらく侍女たちはそれを緊張しているからと気遣い、レオを呼んだのだろう。
 ひとりでも、知っている者がいれば、それは心強い。
 キャンサーもわかっているのか、なんどか笑おうと試みている様子が……残念ながら見ていて逆に痛ましい。
「姫さま、お茶のお加減はどうですか? やはり、お国とはお茶も異なるのですか?」
「え、ええ……違う、と思います」
「どちらがお好みですか?」
「まあ、何言ってるのよ、お国のもののほうが馴染みがあられるのだから、比べられるわけないでしょ」
「でも、これは自慢の茶葉ですよ、レオの。ね、主さま」
「自慢の、かどうかは知らんが、俺は気に入っている。茶なぞ美味ければなんでもよかろう」
「そうですけど! でも美味しいにはそれなりに理由がありますのよ!」
「わかったわかった。其方らの自慢の茶でよい」
「それに! 淹れる者の愛情も不可欠ですわ!」
「そうよね、そうですわよね」
 きゃらきゃら。
 まあ、いつものことだが、この者たちは楽しそうだ。
 レオは手の中でもてあそんでいた茶器から、残りの茶を一口に喉に流し込んで、すっと立ち上がった。
 すかさず脇の者が手の茶器を受け取る。
 そしてレオを見上げたキャンサーに手を伸べた。
 驚いたように目を瞠る。
 その眸の色は、紅い。
「ずっと座っていては疲れよう? 少し歩いては如何か」
 レオの言葉にキャンサーの姫の色が少し変化する。
 侍女らは、おしゃべり好きだろうとなんだろうと、宮仕えの侍女だ。
 そんな変化を見逃さない。
「まあ、よろしゅうございますわね」
 さっさと手の茶器を取り上げる。
「主さま、ここはもう片付ければよろしゅうございますか?」
「ああ、もうすぐ出発する」
「かしこまりました」
 キャンサーは慌てたように立ち上がった。
 そして見送りに跪く侍女たちに、ちょい、と衣装をつまんで簡易の礼をした。
「あの、お茶をご馳走になり、ました」
 レオは手を伸ばしてキャンサーの腕を掴むと、かまわずぐいっと引っ張った。
「な……、ちょっ……!」
 気にしない。
「おまえ、高いところは苦手か」
 突然の問いに、いい加減慣れてきたのか少しの間の後、キャンサーは憮然と返事した。
「星主がそれでは舞の奉納など出来ぬな」
「上等だ」
 その返事の口調がレオの知っているもので、満足する。
 ぐいぐい歩く。
 途中で従者に、自分が戻ったらすぐに出発だと告げる。
「あ、あのな、レオ」
「うん? なんだ」
「自分でちゃんと歩くから、その腕の掴み方はなんとかしてもらえぬか」
「なんだ不満か。仕方ないな」
 レオは掴んでいた腕を放し、代わりにキャンサーの腰を引き寄せた。
「で、どうしてそうなる」
「姫君をエスコートするのに、間違っていないと思うが?」
「……」
 言い返さず、キャンサーの姫は唇を引き結ぶ。
「どうした、舌のすべりがいまひとつだな。緊張しているのか。それともさすがに疲れたか」
 軽く促して歩き出す。
「いや……そうでもないが」
「反論しないんだな。それとも、意地を張らなくていいとそんなに素直なのか」
「……そういう其方は棘だらけだな」
 レオは笑って、キャンサーの身体を抱え上げた。
「なっ、なんだ? なにをする!」
「ちょっと大人しくしてろ」
 レオはそのまま岩場をよじ登り始める。
 じたばたしていたキャンサーは、レオの行動に、自分が動いては危ないと察したらしく、仕方なく動きを止めた。
 そんな姫を抱えているとは思えない身軽さで、レオは幾分高いところへ辿り着いた。
「足元に気をつけろ。それからあまり俺から離れるな」
「あ、ああ。……ここは?」
 きょろ、と周囲を見回して、何かを見つけて、確認する。
「そうだ。星見の丘の一つだ」
 ここは、領地を見下ろせる場所。
 星主しか入れない、祈りの場所。
「星見の丘? そんなところへ、わたしを入れて良いのか?」
「構わないだろ、おまえも星主だ」
「別の領地のな!」
「そう怒るな。見てみろ」
 怒ったような、でも焦ったような顔の姫を促す。
 指し示す先に視線を転じたキャンサーは、じっとそれを見つめた。
「おまえが興味を示すかと思ったので、連れてきた」
「……あの、向こうは、キャンサーか?」
 眼下に見えるのは境界壁だ。
 あの壁の、こちらがレオ、向こうがキャンサー。
 キャンサーの姫はじっとそれを見詰める。
 いや。
 彼女が何を見ているのか、本当のところ、レオにはわからない。
 あの壁か。
 その向こうの己が領地か。
 それとも……もっと別のものか。
「其方は、こういうところにもよく来るのか」
「こういうところ、というのは?」
「宮から離れた場所にある星見の丘に、だ」
 レオはここから見下ろせる場所にある集落を眺める。
 キャンサーに続く街道の、最後の旅籠の場所だ。
「よく、ではないが、ときどき見回っている。
 見ただけでわかることもそうないが、見なければわからないことはたくさんある」
「そう……だな」
 じっと見つめている。
 何を思っているのか、レオにはわからない。
「レオは」
 キャンサーがその名を呟く。
 この土地の名であり、この土地に住むすべての人をさす言葉であり、そして、星主たったひとり示す言葉でもある。
「美しい場所だな」
 キャンサーが呟いたその名は、今ここから見える土地を指したようだ。
 陽が傾き、西の昊(そら)は夕焼けに染まり始めている。
 黄昏を迎えても、この土地が豊かであることは、目に明らかだった。
 レオの君は、キャンサーの姫の隣に立つ。
「ああ、そうだ」
 そしてキャンサーの姫の肩を抱き寄せた。
「ここは俺の領地だからな」
 自信を持って答える。
 この土地は、この領地は、自分が守っていると、自負がある。
 手の中で小さな肩が少し強張る。
「大丈夫だ」
 手に力を込めて、その耳に囁く。
 困惑した表情のキャンサーが見上げて、そして視線を逸らした。
「其方の力になるといっただろう」
 逸らされていた視線が戻ってくる。
 けれど困惑の表情は消えていない。
「そろそろ戻るか。ここから獅子宮までは一走りだ」
 ぽんぽんと肩を叩けば、キャンサーの姫は俯くように頷いた。
 オレンジ色の光を浴びてなお、その髪は銀色に輝いていた。

2006/10/30