招待状 2

 馬車の中で、レオは何度目かの笑いをかみ殺した。
 レオの領地を抜け、キャンサーの領地に入った途端に道が悪くなり、ごとごとと揺れが大きくなった。
 最初はやや顔をしかめたが、仕方がないことなので、そのあとは気に留めていない。
 返事が来るまでに要した日は三日。
 うち一日はこちらの手紙が届けられるのに費やされ、うち一日はあちらの手紙が届けられるのに費やされているはずだから、キャンサーの巨蟹宮で協議に費やされたのは、一日、ということになる。
 まさか一つ返事で決定したはずもなかろうから、キャンサーの宮の者は、どんな思惑を交錯させているのだろうな、とレオの星主は思った。
 その協議に、あのキャンサーの姫は、参加したのだろうか、とも。
 彼女自身のことでありながら、彼女は蚊帳の外なのだろうか。
 ほんのひと時ともに過ごしただけだが、読み取れることはたくさんあった。
 彼女は、孤立している。
 だから虚勢を張っている。
「主さま、巨蟹宮が見えてまいりました」
 外から声をかけられ、どれ、とレオの君は窓から顔を出した。
 気づいた従者が側による。
「ご覧になれますか?」
「ああ、見える。銀の城だな」
「はい」
 巨蟹宮。
 あそこにあの女はいるのだ。
 しばし眺めて、レオの君は再び顔を引っ込める。
 もうすぐ会える。
 そう思うと思わず口許がほころんだ。
 あの女に。
 早く会いたい、と思った。


 銀の城では、それなりに盛大に出迎えられた。
 午を過ぎた頃で、果たしてこの時間が、この宮にとって忙しかったかとか、都合がよかったかとか、そんなことはわからないし、どうでもよかった。
 宮家でありながら星主を軽視する家の都合など、レオの星主にはどうでもよかったのだ。
 こちらの老使いが口上を述べ、キャンサーの老使いが返答する。
 そのやりとりは形式に則った正しいもので、どうでもいいとは思いつつ、けれどそれらすべてを必要なことと割り切っているレオの君は、おとなしく進行を見守っていた。
「レオの君におかれましては、遠路、ようこそいらっしゃいました」
 自分に向かって挨拶するキャンサーの老使いに、レオの星主は一歩踏み出す。
 たったそれだけで、相手が怯む。
 レオの星主という、強烈な存在の前に。
「気遣い、痛み入る」
 レオの声が響く。
 一瞬反応の遅れたキャンサーの老使いが、慌てて頭を垂れて、続ける。
「しばし休息してゆかれますか。あるいは今宵はこちらにてお休みいただきますか」
 言うからには、こちらに泊まると言ってもいいように、用意をしているのだろうが、そんな気分ではなかった。
 もちろんこの計画は自分の中ではとうに決定済みだし、自分の従者たちには伝えて、そして承諾されている。
 レオの君は丁寧にお辞儀をした。
「お申し出、ありがたく思う。が、我らがここにおっては、其方らの気苦労が増えよう?」
 わざと嫌味っぽく言えば、キャンサーの重鎮どもはとんでもないと首を振りながら青い顔をしている。
「其方らが姫君を送り出すのを不安と思われるのも無理ないが、姫さえよければ、すぐにとって返したい所存だ」
 伝えると、キャンサーの間から驚きと安堵の空気が立ち上る。
 かまわずレオの君は続ける。
「返答はぜひとも姫からお伺いしたい」
 ごくん、と、音がしたかのように、空気が揺れた。
 己らが中途半端に育てた星主に、今更なにを恐れようぞというものだが。
 それでもなお姫を出さず、かといって上手いことも言えず、老使いが凍っていた、そのとき。
「老。よいぞ、ご苦労であった」
 凛と女の声が響いた。
 見上げれば、奥の間から侍女を引き連れたあの女が現れた。
 真っ白の裾の長い衣装。
 銀の髪は結われず下ろされていて、赤い花がいくつも挿されている。
 こころなしか怒っているような顔だが、あれはあれで普通なのかもしれない。
 冷汗をかかんばかりの老使いを追いやり、キャンサーの姫が進み出た。
 レオの君を始めて間近でみた侍女たちが思わず足を止めてぽかんと口を開けているのに比べ、姫は相変わらずの不機嫌顔だった。
 レオの君の目の前まで、動揺など欠片もない様子で進み出ると、表情はさておき、それは優雅に一礼した。
 思わずレオは微笑む。
 どこかで溜息が漏れる。
 が、肝心の姫はちっとも心を動かされた様子はないようだ。
「遠路ようこそおいでになられた、レオの君。此度のかようなお誘い、我の至らぬところがお目を汚した故と心しておるが、貴殿のお言葉に甘えて、お従いしようと存ずる」
 口上を述べる。
 用意していたものにしては棘があるから、あるいは、この女が一人でいっているのかもしれない。
 レオの君はふむ、と腕を組んだ。
「そういう時は、お受けする、でいいんじゃないのか」
 普通の口調で言ってやれば、
「それは心の持ちようだ」
 キャンサーは表情をちらとも動かさず言って返した。
 レオはくすくすと笑う。
「それで? 俺の先の口上は聞いていたのか?」
 レオの従者は慣れているので平気だが、キャンサーのほうは突然親しげに話し出したレオの星主の態度に呆然としていた。
 が、レオは気にも留めない。
 なによりキャンサーの姫が動じていないのだ、ほかに何を気にする必要があるだろう。
「無論、聞いていた。すぐに経ちたいと? わたし個人としては一向に構わぬが、我が宮の者はささやかながら其方らを歓迎する宴の用意をしておるのだがな?」
 堂々と口にするべきではない裏方を、さらりと暴露した姫に、慌てたのは彼女の後ろの連中。
 が、レオの星主もその従者もどこ吹く風。
「まあ、そうであろうな。重々承知だ。けれど俺の都合でな」
「其方の? ……ああ、レオの星主殿はお忙しくあられるのだな」
 かすかにキャンサーの姫が視線を落とす。
 けれどレオの君は気づかないふりをしつつ、そうだな、と頷いた。
「今からとって返せば、日没は過ぎるが今日中に我が獅子宮に姫をお迎えできる。それでは駄目か?」
「わたしに異存などあろうか」
 言って自分の臣下たる老使いたちをふりかえる。
「どうかな、其方ら」
 突然話題を振られて、使いたちははっと我に返ったようだ。
 年配の老使いが進み出て頭を垂れた。
「レオの君ご自身が多忙な中お時間を割いてお越しくださったことに感謝いたします。ならば我らに、レオの君をお引止めする所存はございませぬ」
 いかにも緊張した声色で返答するのを聞いて、レオはよし、と少し大きな声で言った。
「ならば早速……」
「ああ、レオ、思い出した」
 その声を、キャンサーの姫が遮った。
 ぎょっとするのはやはりキャンサーの重鎮たち。
 レオの一行は平気な顔だ。
「うん? なんだ?」
 振り返ったキャンサーに、レオは問いかける。
「先日花を頂いた。お礼を申し上げる。大変たくさんだったので皆が置き場に困るくらいだったぞ」
 飛び上がらんばかりのキャンサーの面々の前で、レオは一瞬目を丸くしたが、次には盛大に笑い声を上げた。
「ははは! それはいい! 驚かせるほどだったなら本望だ! それで、其方は? 気に入ってくれたか?」
「うむ。わたしの部屋も一杯になった。今でこそ減ったが、まだ目を和ませてくれるものがいくつも残っている」
 生真面目に答えるキャンサーの姫を、レオの君は少し屈むようにして覗いた。
「俺は気に入ったかと聞いている」
 姫は見返して……そして、かすかに、微笑んだ。
「そうだな。花に罪はない」
「一言多い」
 レオは口許を吊り上げて、それからさっと跪いた。
 キャンサーの手を取って甲に軽く口付ける。
「では姫、参りましょうか」
 立ち上がって手を引くと、キャンサーの姫はきょとんとした。
「其方、本当にこのまま帰るつもりなのか」
 さっさと動き始めた従者たちを見て驚いたらしい。
「無論、さっきからそう言っている。……ところで」
 戸惑っているような、感心しているような、そんな姫に、レオは顔を寄せた。
 なんだ、と睨んでくるキャンサーに囁きかける。
「おまえ、どうしても連れて行きたい侍女がいるか?」
「は?」
「さっさと答えろよ。どうなんだ」
「……荷馬車に侍女が五人ほど同行すると聞いているが」
「俺の言うこと聞いてるか。おまえが連れて行きたいやつがいるのかと聞いている」
 念を押すように問えば、キャンサーはぐっと唇をひきしめて、
 そして、ぽつり、と答えた。
「この宮に、わたしの味方などおらぬよ」
 聞き取れないくらいの小さな声で。
 それだけ答えた。
 レオはぐいっと手を引いた。
 慌ててキャンサーが顔を上げる。
「それでは巨蟹宮の皆の者。姫はお預かりする。なにかと支度されたかとは思うが、そちらの荷は不要だ」
 高らかに宣言すれば、キャンサーの姫が驚いたようにレオの君を見上げた。
 誰もが注目しているのを承知で、レオはキャンサーに微笑みかけた。
「其方は文字通り、身一つでくればよい」
 極上の微笑。
 その場に居合わせたキャンサーの侍女ばかりか、老使いたちまでもが息を呑むその黄金の微笑に、けれどキャンサーの姫は、ただ困惑を浮かべた。
「……何を、言っている……?」
「知りたければすぐに教えてやる」
 レオの君は不遜に言い放つと、もうキャンサーの姫の意向など無視して歩き出した。
 手を引かれて、引きずられるようについてくる姫を、レオが連れてきた侍女たちが取り囲む。
 ……まるで、キャンサーの者たちから、隠すように。
「おい、レオ! 貴様、返事をしろ!」
 姫とは思えない口調できゃんきゃん言い出したが、レオの君で慣れている侍女たちは一向に気に触った様子もなく、そしてレオの君自身も気にしなかった。
 握ったままの手を離すつもりも、毛頭なかった。
 キャンサーの宮の者が呆然とする中、レオの君はキャンサーの姫を手に入れることに、成功した。

2006/10/12