急いでホールの自らの室へと戻ったが、見上げても、まだ友人の舞は始まっていなかった。
これから、星集会の長い二幕が始まる。
レオが椅子に座ると、待っていたかのように最上室で最初の舞が始まった。
あるいは。
待っていたのかもしれない。
思って、レオはにやりと笑う。
あまり褒めることなどない自分が、やつには言ったことがあるから。
アリエスの舞は、好きだった。
普段の斜に構えた態度とは違って、まるで洗練された、そして色気さえも感じる優美な舞だ。
どうしてそんな舞がやつに舞えるのか、不思議といえば不思議だが、
ときに女を誘う仕草も色っぽいから、まあ、やつの本性かもしれない。
椅子に座ったまま、じっと堪能する。
やがて、舞が終わって、アリエスの姿が引っ込んでいく。
けれどレオは動かなかった。
星主たちは、ただほかの星主の舞を見て、自分の番には舞うだけだ。
そうして世界は保たれる。
レオは頬杖をついて、ふと目をやった。
自分の席室から、ほかの星主の席室は見えない。
それが隣であってもだ。
だが、レオはまるでそこにいる誰かを見るように、ある方向へと視線を向けた。
いやあるいは、そうすれば見えるようになるかのごとく。
ここは第五室。
視線の先は、第四室。
この程代替わりして、一族では傍流の娘が星主になった、第四室、キャンサー。
一幕でアリエスが声をかけて、見事に突っぱねた女だ。
声だけはよく響くこの積星宮だから、その凛とした声ははっきり聞こえた。
興味を、抱いた。
どんな娘が星主になったのだろう、と。
無論、女がいけないというわけではない。
第十一室のアクエリアスなど、おそろしくカリスマな女もいる。
傍流がいけないというわけでもない。
第九室のサジタリウスは傍流どころか、だ。
考え事をしている間に、最上室にはいつのまにかタウラスのガキが姿を見せていた。
女どもには可愛いと人気のある、けれどレオから見ればガキっぽい、舞だ。
アリエスのあとだから余計にそう見える。
そんな舞を横目でちらと見たあと、レオは再び視線を転じた。
「……ふうん?」
レオはひとり、頬杖をついたまま、……にやりと笑った。
相変わらずお家騒動でごたごたしているジェミニは星主が不在で、
代理の舞手が最上室で舞った。
そんなものには興味がなくて、レオはふいっと立ち上がる。
二幕の儀式の間は、側近たちも側にはいないから、なにをしようと咎められることはない。
無論、大事な儀式の最中に、咎められるようなことをする星主というのも、いはしないのだが。
レオは自分の順番より早く、星の階へと続く廊下に現れた。
そこにはもちろん誰もいない。
数刻前に悪友を待ち構えていたように、半透明の柱にもたれてそのときを待つ。
……目当ての、女が現れるのを。
第三室ジェミニの代理の舞が終われば、
第四室キャンサーの舞だ。
今日が初登門の誰もが注目している新しい星主。
それはレオも例外ではない。
けれどレオは、ただ黙って舞を眺めるだけで、終わらせるつもりはなかった。
女は、時間通りに現れた。
キャンサーには多い、銀の髪を、長く伸ばしている。
アリエスが言っていたとおり、見た目はそんなには悪くない。
ただ、キャンサーは宮家の本家もさほど力のある家ではないし、領地も豊かなほうではない。
その傍流となると、身に纏っている衣一つとっても、多少輝きが損なわれる。
……レオと比べては。
だが、磨けば光りそうな原石だ、とレオは思った。
そして……そんなことを思う自分を、滑稽だと、思った。
レオが隠れて盗み見ている前で、キャンサーの女はぴた、と足を止めた。
視線が周囲を薙ぎ、こちらを窺う。
「……誰か、いるのか?」
そして、そういった。
正直、少し驚いた。
レオはにやり、と口許を綻ばせ、そして躊躇いなくその柱の陰から姿を現した。
キャンサーは、一瞬驚いた表情を過ぎらせたが、すぐにぎり、と睨んできた。
「…………」
相手が誰だかはわかるだろう。
わからなくとも、少なくとも星主のうちの一人だということはわかるだろう。
そして、自分より力がある存在だ、ということも。
何も言わないキャンサーに、レオはまっすぐ近づいた。
近づいて、その全身を不躾に眺め回した。
見られることに不快感を示したキャンサーは、一歩、いや半歩下がってレオを睨んだ。
「……いくらなんでも、礼儀のなってない星主だな」
もっともだ。
無論、レオはわかっていてやっているのだが。
レオはにやり、と笑うと大仰な身振りで淑女に対する礼をした。
「これは失礼。キャンサーの姫」
そう言って女の手を取ろうとすると、キャンサーは咄嗟に手を引っ込めた。
「ほう? これは礼儀にかなっていると思うが?」
わざと言えば、キャンサーは睨みつけたまま、悔しいのかきっ、と口を一文字に引き締めている。
「……それで、こんなところで何をしている。
この時間にほかの星主が、ここにいるのはおかしいと、思うが」
言っていることは正しい。
だがどこか自信なさそうに言うのは、その知識が付け焼刃だからか。
なんでも彼女が星主に選ばれたのは、キャンサーの領土内でも驚かれたというくらいだ。
そんな女が……まあ、選ばれたのだからそれなりなんだろうが、そんなに積星宮のことに精通しているとは考えにくい。
ここは特別な場所だ。
「そうだな。ちょっと早く来すぎたかな?」
おどけたふうに言う。
それで、キャンサーはこちらが誰だかわかったらしい。
「悪ふざけだな。レオともあろう者が」
吐き捨てるように言って、レオをかわして歩いて行こうとする。
けれどレオは、そんなに簡単に逃すつもりはなかった。
さきほど掴み損ねた手を捕まえる。
今度はあっさり手に入って、驚いた顔のキャンサーをにやりと見下ろした。
「まだ話は終わっていない」
「話? わたしは貴殿と話すことなどなにもない」
「貴様になくとも俺にはある」
睨むことをやめないキャンサーの瞳は、紅い。
それはこの一族によくある特徴だった。
外見的特徴は、レオとは正反対だが。
……だが。
「今すぐ聞かねばならぬことか? わたしは今、時間がない」
相手の出方を窺うキャンサーに、レオは口許を吊り上げる。
捕まえていた腕を引っ張って、すぐ側の柱に、その身体を押し付けた。
「……なっ!」
キャンサーが抵抗する力など、たいしたことはない。
レオはやすやすと女の身体を追い詰めた。
「なんのつもりだ、貴様っ」
キャンサーが喚いた。
なるほど、アリエスがレオに似ていると言っていたけれど、そうかもしれない。
くつくつとレオが笑う。
キャンサーはますます怒りの形相を顕す。
「ふ……これは失礼。そう怒るな。せっかくの美しい顔が台無しだ」
けれど、笑ったままの言葉はキャンサーにそのまま届くはずがない。
「だったら貴様の態度を改めたらどうだ」
「それは貴様も同様だ」
言葉と身体で覆いかぶさる。
「……離せ」
「無論だ。だが話があると言っただろう?」
「こんなことをせずとも、話はできる」
顔を近づければ、女はぐっと逸らす。
その仕草が楽しくて、またレオは笑った。
キャンサーが、顔を背けたまま、横目で睨みつける。
レオは少し二人の身体の間に空間を作って、けれど腕の檻から女を逃さないようにして、その顔をもう一度覗いた。
キャンサーは睨み上げてきて、憤然と口を開いた。
「それで。話というのはあるのか。それとも口先か」
「話ならあるぞ。姫はお急ぎのようだから、用件のみ言おうか?」
時間がないのは確かだ。
星主が舞いの時間に遅れるわけにはいかない。
それはレオとしてもよろしくない話だ。
だから……あえて、この時間を選んだ。
「この後の星集会の三幕で、ダンスを所望する」
先に言ったように、用件のみを告げた。
それはわかりやすく言ったつもりだが、キャンサーは一瞬きょとんとした。
ほんの一瞬現れたその表情は歳相応の娘の顔で、あっという間にそれが消えようと、レオは見逃しはしなかった。
「なぜ貴様と踊らねばならない!」
「では誰と踊るつもりだ?」
すぐさま切り返すレオの言葉に、キャンサーは睨み続けることが困難になってきたようだ。
やや不安そうに眸が揺れる。
けれどそれを相手に悟らせまいと、睨み続ける。
「誰と、だと……?」
「そうだ。星主たるもの、まさか一度も踊らないわけにはいかないだろう?
それとも、声をかけてほしい相手がほかにいたか?」
「……そんな相手は、おらぬ」
キャンサーが視線を逸らした。
不安を表に出すまいとしていることくらい、手に取るようにわかる。
レオはキャンサーの耳元に唇を寄せる。
「宮殿の者たちは、そうは教えてくれなかったのか」
びくり、と女の身体が反応したが、それ以外はない。
「では、試されているのかもしれんぞ」
「……試されている?」
キャンサーは決して目を合わさず、それでも恐る恐るたずね返す。
「そうだ。其方が、誰を選ぶか、な」
「……それが」
しばらくの間の後、キャンサーは顔を上げた。
レオを見た。
「積星宮というところか」
にやり、とレオは笑う。
思ったとおりだ。
この女、頭は悪くない。
「飲み込めたか。では、俺を選べ。さすれば、其方の宮での扱いは格段によくなるぞ」
「……なぜ?」
「俺だからだ」
けれど、キャンサーにはわからないらしい。
今日が初登門なのだから、無理もないのかもしれない。
ここは、中心でありながら、とても閉ざされた世界だ。
「俺は、あまりほかの星主とは踊らん」
「……それは、先の発言に矛盾しはしないか」
「あまり、と言ったろうが。アリエスのやつなどは、女の星主全員と踊るが、俺はそんなことはしない。相手を選ぶ権利が俺にだってあるからな」
「……其方、アリエスと友人か」
「まあ、悪友だな」
レオは、キャンサーを解放した。
半透明の柱には、彼女の真っ直ぐな髪が映っている。
レオはすっと手を伸べて、キャンサーの手を取って跪く。
不覚を取ったのか、先ほどは逃げたキャンサーも、今度は逃げる間がなかった。
「キャンサーの姫、わたくしと踊っていただけませんか?」
正しい作法で申し込む。
これを断るのが、どういう意味か、キャンサーもわかっているだろう。
けれど返事の返ってこない相手に、レオは顔をあげた。
「返事の仕方を知らぬか?」
「……聞いている。だが、なぜ……?」
困惑の表情で、キャンサーはレオを見下ろす。
レオは……にやり、と笑った。
「おまえはただ、頷けばいいんだ」
答えになってない答えを返す。
キャンサーは相変わらずだが、ふと、時間のことを思い出したらしく、視線を廊下の先に彷徨わせた。
「わかった。……お受けする。……謹んで」
型どおりの了承の返事に、レオはキャンサーの手の甲に軽く口付ける。
手を離すと、キャンサーは、きりっとレオを睨みつけて、それから背を向け走り出した。
レオはかすかに、肩を揺らして、笑った。