1. Blank or White ? 

 日中はホワイトカラーが護衛を引きつれ、腹の下で探りあいを繰り広げる行政府。
 けれど夜には、この点対称の奇妙な四角い敷地はひっそりとしていた。

 否、昼夜を問わず、静まり返っている場所がある。
 けれど、そこは昼夜を問わず、明かりが灯っている。
 「ロス・クライム」
 そう呼ばれている、対内外独立派遣諜報部。
 その実態を正確に知っているものは、ほんのごくわずかだ。
 そこにいる彼らが、どういう経緯で、どんな訓練を受け、そして、何をしているか。
 個人データは例外なく非公開。
 そのトップの顔さえ、国家官僚たちは知らなかった。
 同じ、敷地にありながら、すべてが知られざる存在であり、そして、すべてが、彼らの調査対象だったから……。



「ビックニュース、ビックニュース!」
 その部屋で、待機していたアニエスとサンドラは、聞き慣れた騒々しい声と、開け放たれるドアの音に、ぴくりとも反応しなかった。
「なんかさー! めっちゃ冷たくねぇか、お二人さん」
「それで、ビックニュースはなんだったんだ?」
 資料に目を通しながら振り返りもせずに、金髪の美女が言った。
 部屋に飛び込んできた男はぶちぶちと文句を言いつつ、そんな相棒の隣にどさりと座る。
「聞いて驚けよ! なーんと、俺のデビューが秒読みになったんだ!」
「……は?」
 サンドラは手を止めた。
 そして初めて顔を上げて、隣の男の顔を見る。
 すると男は、少し緑がかったはしばみ色の眸をにーっと細めて、笑った。
「お、やっと美人が顔を上げた。今日もキレイだぜ、サンドラ」
「どうでもいい。けど、なんだい、そのデビューってのは」
 本気か社交辞令かわからない言葉をあっさり切り捨て、本題だけを繰り返す。
「だっからー。対外的な仕事をなんかやれって言われて、何がいいかっていうから、そんじゃアーティストって答えたら、シャローのやつが本当に押さえてきたんだよ」
 なんでもないことのようにさらりと答えて、ふふんふんふんといつもの鼻歌を歌う。
 さすがにどうやら本当の話らしいと察したアニエスが、コンピュータ端末から目を上げて、年上の同僚を無言で見た。
「突っ込みどころがいろいろありすぎるな」
「いいよ、全部答えちゃう」
「馬鹿。まずなんであんたはアーティストなんて言うんだよ」
 ご機嫌の同僚……それはいつものことだが、に、サンドラが斜めに睨みつけて問い質す。
「だってホラ、俺ってば才能あるし」
「言ってな。だいたい諜報員がカモフラージュのためにする仕事が、なんでそんなカオを売るような仕事になるんだい」
「いやー、アーティストって顔も重要だよね?」
 話にならないとばかりにサンドラは溜息を吐き捨てた。
「シャローもシャローだよ、なんでそれを受けるかね!」
「ホラ、俺たち同期だし、あいつもわかってんじゃん、俺の魅力ってやつを」
「自分で言ってて気持ち悪くないの、あんた」
 内容はさておき、どうやら話は現実の方向らしい。
 だいたいシャローという、同期ではあるが特別優秀で、さっさと上層部に滑り込んでいった仲間の名前が出てくる辺り、信憑性が増す。
 そして上が決めたことなら、下が少々騒いでも、変わるものではないのだ。
 二人のやりとりを無言で眺めていたアニエスは、そのまま何も言わずにまた、キーボードに指を走らせ始めた。
 カタカタと無機質な音が響き始めても、仲間は別に頓着しない。
「しっかもさー。さすがシャロー? なにをどうやったらそうなるのか、押さえたってのがさ」
「もったいぶらずにさっさと言って終わらせな」
「はいはい。押さえたのがさ、ダニエル・クラウンなのさ」
 規則的だったアニエスの指が、再び止まった。
 ダニエル・クラウン……それはいかにもありふれた名前のようではあるが、音楽業界においては、有名どころだ。
「お、アニエスが反応した。なに、アニーってダニエル・クラウン、好きなの?」
 話を振られて、アニエスは機械のように首を廻らす。
「いや、好き、というわけではない。ただ、わたしが知っている名前、というのは、多くない」
 だから、驚いた。
 皆まで言わずとも、仲間はそのすべてを汲み取ってくれる。
 驚いたと告げつつも、その表情には何の変化もない。
 そんなことを気にもしない同僚たちは、だよね、とかいいながら話を続ける。
 ……だからここは、アニエスにとって、居心地が良かった。
「そんな作曲家押さえてどうするんだ」
「多分ね」
 それまでにこにこしていた顔から一瞬笑みが消える。
 なんだ、とサンドラが無言で先を促す。
「資金調達にしたいんだと思うぜ」
 それは冗談ではなく。
「……言えてるね」
 うんざりと答えるサンドラに、いや、三人に、ちらりと掠める別の同僚の顔。
 彼らの仲間であり、別のチームである男が、去年似たようなパターンで突然デビューして、いまやトップアイドルなやつがいる。
「俺はさ、クリスティンよりはイイ線いってると思うんだけど!」
「知るかい。でも、ま、あいつは顔で売ってるようなモンだからね」
「お? あれ? なによ、サンドラってばクリスの顔がイイって、認めちゃうワケ?」
「はあ? あの女ったらしはカオだけが取り柄だろ」
「ええー!? サンドラ、ああいうのが好み!?」
「言ってないだろ。ていうか、勝手に言ってな」
「うわー、カーリー、ショック〜」
「うっさいな!」
 仲の良い二人の会話に耳を傾けていたアニエスだが、すぐ側の通信機が音を立てると、一秒も置かずしてスイッチを押した。
「……第十八班」
 短くそれだけ告げる。
 後ろで笑い声が上がっても、アニエスは気にしない。
 通信機が用件を告げる。
「了解……カルロス」
 最小限の動きでアニエスは振り返り、仲間を呼んだ。
「おう、俺?」
「本部から」
 それ以上の説明はなく、また同僚も求めない。
 緑の瞳でお礼であろうウインクをアニエスに寄越すと、手近な通信機に手を伸ばす。
「おまたせ、カルロス・フォードストックでっす」
 まったく必要ないのにフルネームで答える。
 それを見てサンドラはわざとらしく溜息をつき、仕事に戻る。
 アニエスもまたコンピュータに向き直っている。
「ああ、オーケー。おう……いいんじゃない?」
 安請け合いのようにも聞こえる同僚の通信は、ほんの数秒で終わった。
 けれど情報についての訓練を受けてきた彼らは、短いからといって不審に思うことなどありはしない。
 そして。
「ってことで、俺、ちょっと出向いてくる」
 突然その出動要請があったとしても、驚くことなどない。
 ちら、と目線を向けたアニエスに、ひらり、と手を振って、
 見向きもしないサンドラには、わざわざ屈んで……その頬に口付けた。
「……さっさと行ったら」
「冷たいなー」
 飄々と、軽い足取りで、カルロスは部屋を後にする。
 部屋は静かになる。
 ただ紙をめくる音と、キーボードを打つ音だけが、響いていた。



 立ち止まるとか、焦るとか迷うとか、そんなのは似合わない。
 全力で走る。
 いつでも、どこへでも。



「バッドニュース、バッドニュース!」
 非番になるまであと数分。
 そんな時間に訪れた、聞き慣れた騒々しい声と、開け放たれるドアの音に、アニエスとサンドラはぴくりとも反応しなかった。
「なんかさー! めっちゃ冷たくねぇか、お二人さん」
「……あんたってホント、うるさいねえ」
 まとめ終わった資料をファイリングしていたサンドラが冷たく振り返った。
「なんだい、一日いなかったヤツが。あんたがいなかったから、あたしは一人で全部片付けちまったじゃないか」
「ああ、ごめんよ、サンドラ。俺がいなくて寂しかったんだねー?」
「そんなことは言ってないよ」
 そして指定席のような自分の椅子に、どかりと身を投げ出す。
「デビューの話、一進一退だぜ?」
「……別にあたしたちには関係ないよ」
 なにも言わなかったけれど、突然呼び出されて姿を消していたカルロスが、こうして帰ってきてこの話題に触れるということは、呼び出された内容がしれる、というものだ。
「そう言うと思った。けどさー、どうもね」
 珍しく、はっきりしない。
 その態度に、サンドラが手を止めずに、視線で怪訝がる。
「なんだい。まだ、なにかウラがありそうなのかい?」
「ウラもオモテもねえよ。だいたい俺たちは全部裏の仕事じゃん」
 そういうカルロスは、あれで少々機嫌が悪いのかもしれない。
「どうしたさ。はっきりしないね。……なにを言われた?」
 そんなこと。
 普段は誰も聞かない。
 誰も言わない。
 誰も、答えない。
 でも今、サンドラは聞いたし、カルロスは、答えようとしている。
 アニエスも二人の同僚を見た。
 何かを察してしまったらしい女二人の仲間を見て、カルロスは忌々しげに舌打ちした。
 不機嫌をそんなふうにありありと表現するのは、彼にしては珍しい。
 それも、この部屋で仲間しかいないからできることではあるが。
「俺は!」
 どこか軽い印象の普段とは違って、カルロスは吐き捨てた。
 それが、多分本当の彼なのだ。
「俺一人でやるから、なんでもやるって言ったんだぜ」
 誰に向かっていっているのか。
 少なくとも、目の前の二人に向けてではない。
「そうじゃなきゃ、言うわけないだろうっての!」
 データに保護をかけて、アニエスは端末の電源を落とす。
 そして静かに立ち上がる。
「畜生めっ!」
 サンドラは腕を組んで、椅子の同僚を斜めに見下ろす。
 そのうっすら赤い瞳が仲間を観察するように。
 アニエスは保冷庫からドリンクを出して、仲間の元に持っていく。
 ちらりとこちらを見たカルロスがそれを黙って受け取った。
「……連中、俺一人じゃクリスと一緒だからダメらしい」
「一緒?」
 確かにクリスティンは、ダニエル・クラウンのような大物の起用ではないが、売っている路線としては似たようなところだ。
「そんなこと言って、そりゃ、クリスとカルロスは根本的に人間の路線が一緒じゃないか。違うデータが欲しいなら、別のヤツを使えって話だろ」
 サンドラがばっさり言い切った。
 データ。
 彼らが何をして、どうなるか、それらはすべてデータなのだ。
 上にとっては……所詮。
「それで、クリスティンとカルロスの、何を変えると、言っているんだ?」
 アニエスがぽつ、と尋ねた。
 カルロスは、手の中のボトルを握りつぶしそうな様子で、……やっと、吐き出した。
「俺は……俺たち三人にやらせようとしている」
 告げられた言葉に。
「はあ?」
 サンドラが、片方の眉をぴくりと動かした。
「三人って、もちろんあたしたち、だよな?」
「そうだよ! でなきゃ俺だってこんなに怒っちゃいないさ!」
 アニエスは、彼女にしては珍しいくらいに、目を丸くして同僚を見た。
 けれど、それでも、彼女に言葉はない。
「ちょい、待ちなよ。百歩譲ってあたしはまだいいよ。でもなに、アニーまで巻き込むのかい、あんたは!」
「だから俺は! ……くそっ! そういうこった!」
「ふざけんじゃないよ。アイツは? シャローのヤツはなにやってんだい」
 上官である同期の名前を引っ張り出す。
 けれどカルロスは首を振った。
「一緒にいたさ。あいつにしちゃ渋いカオしてたけど、あいつ一人で、上に対抗できるワケもねえ」
 そんなことは、わかっている。
 カルロスも、サンドラも、わかってはいるのだ。
 どうせ自分たちは上に言われたことしかできない。
 何をするも、何をしないも、そもそも、生きていることすらも。
「……そういうことだから。なんか、あるかもしれねえよ、アニー」
 名を言われてアニエスは、はっと仲間を見返す。
 明るい茶色い前髪の間から、緑の眼光がアニエスを見ていた。
「あ、ああ。驚いたけど、それでカルロスや、ましてやシャローを責めたりはしないから」



 突然降って湧いたような出来事なら、いいか悪いか、それさえも不透明。
 それなら、走るだけ。
 いつもと変わらない。



「大丈夫だ。やっても無駄なことは、上はさせない」
 ぽつりと呟く。
 それにサンドラが溜息を返した。
「そうだね。割り切ればそのとおりさ」



 立ち止まるとか、焦るとか迷うとか、そんなのは似合わない。
 前を見て走れ。
 こだわることがあるなら、いっそほかは見るな。



「あんたはいつも正しいね」
 サンドラは手を伸ばして、途中でふと思いついて、動きを止めた。
 アニエスはそんな手の動きを目で追って、何事もなかったように目を伏せる。
「……わかったよ」
 カルロスの手の中で、ボトルがくるり、と回った。
 そして仲間を斜めに見かえす。
 そこにはいつもの軽い男はいなかった。
「センキュ。なるようにしかならねえな。ま、俺がいるから安心しろよ」
「あんたは最後の一言が余分だね」
「そうかぁ?」
 あっという間にいつもの彼に戻る。
 チチチ、と音がして、三人の勤務時間が終わりを告げた。