五章 青き星の宮

 神殿から、王宮のほうへと戻る。
 正しくは東の離宮、歳星宮というらしい。
 歳星宮の正面玄関にあたるエントランスホールへと足を踏み入れると、アルスはなんとなく、ほっとした。
 なにがちがうのか具体的に表現するのは難しいが、神殿のような場所は慣れていないからか、少し息苦しい。
「あら、そうだ、アルス。あそこにアルスラーン卿の肖像画があるわよ」
 キャロルが大階段の左側の絵を振り仰いで言った。
「ああ。さっきスピカさまに聞いたよ」
「そう。絶対王制を廃し、共和政へと変革させた王。夜明けの王とか暁の王とか言われるわね。共和政で王っていうのもおかしいけど」
「でもそれが、現在のこの国の仕組みそのものだよな?」
「そうよ。そして最も有名な<水の器>よ」
 キャロルはさらりと告げたが、スピカさまがちらっと軽く、でも確かに、睨みつけた。
「それは口外してはいけない単語だ」
「わかっていますわ。でも気づいておられたのでしょう、スピカどの?」
 キャロルがちらっと見返した。
 口外してはいけない単語。
「龍のうろこと彼の名前が揃えば、普通は気づくさ。魔術師なら」
「一級魔術師なら、ですわよ」
 そういうとキャロルは、アルスに向かって、しー、と内緒のポーズをした。
 なんだろうか、ちゃんと約束は守る、と思ったところで、足音が聞こえた。
 駆け足だ。
 音のほう、宮殿の奥のほうに目をやると、白ローブの人物がひとり走ってきている。
 そのうしろに紺色の制服の少年もいる。アルサフィナだ。
 こちらを見つけたらしく、アルサフィナが大きく手を振ると、胸の大きなリボンも揺れた。
「スピカさま、キャロラインさま」
 走ってきた男性には、見覚えがあった。
 以前、スピカさまの助手のようなことをしていた人だ。
 アルスのマントよりは長いが、スピカさまのローブよりは短い、このマントやローブの長さはそのまま地位の高さを示している。
「デネボラ? 急いでどうした?」
 スピカさまが思いっきり眉をしかめて訊ねられた。
「はい。東都周辺より、一斉におかしな報告が。急に馬が暴れだす騒ぎが起きていると」
「馬?」
 思いがけない単語に、スピカさまとキャロルが顔を見合わせた。
「そんな報告がここまでくるというのは、つまりなにかしらの魔法が絡んでいる、ということですわねー」
 まるで他人事のようにキャロルが呟いた。
 なるほど、馬が暴れるなんて、そこまで珍しい事件ではないだろうに、魔術師のスピカさまに報告が上がってくる、というのは。
「なんだか嫌なタイミングね」
 キャロルがぽそりと言った。
 少し視線を落として考えているようだ。
「東都周辺、とおっしゃいました?」
「はい。街の中での事例はありません。周辺街道の馬車が多いようです」
「どういう罠だ?」
 書類に目を落とすデネボラさま、首をかしげるスピカさま。
 でもキャロルは軽く叩くように身に纏っている青いドレスを撫で、小さな青い石のペンダントを、二度三度撫でた。
「探しているのだわ。見失ったから」
「……おまえをか?」
 スピカさまが静かに言った。
 アルスは驚いた。どういうことだ?
「わたくしが街から消えたのに気付いたのですわ。でもここ歳星宮の場所はわからない、ということですわね。朗報です」
 ふむ、とスピカさまも頷いた。
「危険はないか」
「わたくしが難なくここから離れられたら」
「もちろん歳星宮は最優先で守るべき場所だが、わたしがいま言ったのはおまえの身の安全だ」
 スピカさまが少し怒ったように言うのに、キャロルはあら、と顔を上げた。
 そして、微笑んだ。
「危険なことはすべてわたくしが引き受けますから、結界のことはすべてお願いしますわ」
 その笑顔に、スピカさまは大きな溜め息をついた。
 付き合いの短いアルスでもわから。
 こういうキャロルには、絶対勝てそうにない。
「アルス」
「は、はい!」
 突然名を呼ばれて、アルスはぴんと背筋を伸ばした。
 スピカさまがにらむようにこちらを見据えている。
「敵はインニルディアだ」
「えっ?」
「やつらの中に優れた魔術師はいないと思われる。いるのはせいぜい手品師だ」
 吐き出すように告げる。
 スピカさまは何に怒っているんだ?
「魔法もどき程度ならキャロルの敵じゃない」
 あ、まただ。
 無意識なんだろうけれど、スピカさまはときどきキャロルの名前を口にする。
「そんなことはむこうもわかっているはずだ。だからおまえは、絶対に彼女を守れ。剣やナイフの相手なら、魔術師より騎士だ。そのために今回おまえは同行を許可されているのだから」
「ちょっとスピカどの、アルスを脅さないでくださいませ」
 キャロルが割って入った。
 スピカさまは、文句のような主張を続けているが、アルスは少し安心した。
 自分が呼ばれたのは、ちゃんと騎士としての護衛の役割があったのだ。
「わたくしがちゃんと派手に囮になりますから」
「それが危険だと言っている。……そうだ、おまえ、わたしの石にも触れていけ」
「あ、そうですわね」
 軽く言い合いをしていたふたりが、ぴたりと口を閉じた。
 スピカさまがお辞儀をするように頭をキャロルのほうに傾け、キャロルは少し背伸びをするようにしてスピカさまの顔のほうに手を伸ばした。
 いや、ちがう。
 耳飾りに触れたのだ。
 スピカさまの左耳だけにぶら下がっている銀と青い石の耳飾り。
 キャロルはそれを少しの間、包むように触れ、そして離した。
「まるで月のような波長ですわね」
 ぽそりとキャロルが感想のようなことを呟いたけれど、アルスにはまったく意味がわからなかった。
 が、スピカさまがふと、いや突然、思い出したように一歩踏み出した。
「そうだ、月だ!」
「なんですの」
「占ったと言っただろう。それでわたしがわざわざ行ったのだ!」
「言っていることはわかりますが、言いたいことがわかりませんわよ」
 キャロルの落ち着いた切り返しに、スピカさまは片手でわしゃわしゃと前髪をかき混ぜた。
「だから占いだ。『戦車』『死神』『月』だ」
「あら、見事に月ですわね。もう一枚は?」
「『運命の輪』」
 スピカさまがその単語を呟くと、キャロルはちら、とアルスを見た。
 そして、二、三歩さがってアルスの隣に立った。
「アルサフィナ、一緒に来なさい」
「はい、姉さま!」
 駆け寄ってくるアルサフィナ、そしてアルスを従えるようにして、キャロルはここに残る魔術師に向かって挨拶をした。
 姫君のように青いドレスをつまんで腰を落とす。
「それではスピカどの、デネボラどの、行ってまいりますわ」
 応えるように深くお辞儀をするデネボラさま。
 でもスピカさまは何も言わず、動きもせず、じっとキャロルを見ていた。
 キャロルはそんな様子を気に留めることなく、踵を返して歩き出す。
 アルサフィナがそのあとをついていく。
 アルスは、スピカさまに向かって敬礼してから、キャロルを追いかけた。

 ちょっと、話が見えない。

 スピカさまがいくつか疑問を解決してくれたはずなのに、全体像が相変わらずぼやけている。
 青いドレスの魔術師の姫は、カツカツと足音も高らかに進んでいるが、来たときとは別のところへ向かっているようだ。
 街に戻るのかと思ったが、ちがうのか?
「アルサフィナ、この先はどこに出るんだ?」
「えっと、すみません、わかりません」
 時々小走りになりながらキャロルを追いかけている隣の少年にたずねてみたが、空振りだった。
 アルスとちがってここまでの道程の意味をちゃんと理解している様子だったのに、いまは違うらしい。
「裏口みたいなところですわ」
 アルスたちの会話が聞こえたのか、キャロルが前を向いたまま答えてくれた。
「ここ歳星宮は東都の守りの要。一番大事なところね。そして敵は、わたくしの動きを追うことで、この場所を探しているのだと思うの。だから絶対に気取られないようにここを離れます」
「ああ」
 アルスは頷いた。
 それはわかる。
 魔法という見えないものを武器とする人たちの戦場である、ということはわかる、のだが。
 キャロルが裏口と称する出口についた。
 表にあった大きくて美しい湖とはちがう、沼のような湿原が広がっていた。
「さ、舟に乗って、この布をかぶってくださる?」
 キャロルが、その沼地の隅につながれてすらいない小さな小舟に身軽に飛び乗る。
 アルサフィナと続いてアルスも乗り込むと、小舟は泥の上でぐらぐら揺れた。
 これは魔術師の舟ではなく、ごく普通の舟のようだ。
 でもそれでは前に進まないのでは?
 ここは湖でも川でもない。
 辺りを見回しているとお構いなしにシーツのような布を頭からかぶせられた。
 アルサフィナとふたり、小さくなって息をひそめる。
 まるで荷物に偽装して逃げ出すような……いや、そういうことなのか。
 そう思ったところで、体がふわりと浮いた。
 いや、舟ごと浮いたのだ。
 と思ったら、びゅんっと前に進みだした。
 布をかぶっていて周囲のことはまったく見えないのだが、それでも水路どころか地形も無視で、真っ直ぐ進んでいるように思われる。
 しかも結構な速さで。
 だから、あっという間なのか、時間がかかったのか、よくわからなかった。
 やがて舟はゆっくり止まり、そして布がまくられると、眩しい、と思った。
 そこは……なんでもない場所だった。
 王都周辺では見ないような大きな岩が転がってはいたが、郊外の街道のそばだと思われた。
 ふたりが舟から降りると、キャロルは無人の小舟にさきほどの布をかけた。
 すると舟がなんだか岩のようになった。
 そもそもこれは、舟と呼べばよかったのか、ここまで陸路を飛んできたのではないか。
「魔法っていうとね」
 キャロルがゆっくり歩き出したので、追いかける。
「手品みたいなのを想像するかしら。出したり、消したり、光らせたり」
 いままで目にしてきた魔法は、松明が勝手についたり、照明の球を生み出したり。
 確かにそういうのを魔法と呼んでいた。
 魔法が使えないアルスには真似できないことだ。
「でも魔法というのは本当は、道具に込めることが多いのよね」
「道具に、込める?」
「そう。会話ができる水晶球とか、陸を走る舟とか」
 確かにそれも魔法だ。
 込める、ということは、あらかじめ仕掛けられていて、それを発動させている、ということだろうか。
「あとは魔法防御の服とかね」
「服?」
 アルスはキャロルを見た。青いドレス。
 これはアルサフィナにどこかに取りに行かせたものだ。
「君のドレスは、やっぱり特殊なものだったんだな」
「そうよ。やっぱり、なの?」
「ああ。ほかの魔術師の方とはちがうだろう?」
「あの白のローブと機能はほぼ一緒なんだけど、まあ、立場が違うからね」
「立場? どう違うんだ?」
 特殊で、ちょっと目立つドレス。
「わたくしは身代わりで、囮のようなものだからね」
 キャロルはどこか、他人事のようにそう言った。