「ギュールズさま」
呼びかけてくる声は慣れないような、懐かしいような。
「ギュールズさま、起きてください」
手が肩に触れ揺さぶられると。
「……痛っ」
腕に突き刺すような痛みが走り、ギュールズは思わず呻いた。
「も、申し訳ありません……!」
慌てて離れていく手。それを追いかけるようにギュールズは目を開けた。
そこにいた彼女には、オレンジ色の光が斜めに縞模様が落とされていた。
「ああ……大丈夫。驚かせてすまないね」
ギュールズは笑みを浮かべて見せたつもりだけれど、こちらを見返すニーナの顔はゆるまなかった。
「ごめん、俺、だいぶ寝ていた?」
「そう……ですね。わたくしもずっとはここにいなかったのですが、途中で起きたりはしなかったのですか?」
ニーナがちらりと向けた視線を追うと、そこには水袋とパンとチーズがおいてあった。
「もしかして、あれは俺の昼食?」
「……はい」
「けど、外はもう夕暮だね」
「そうです」
「朝から夕暮れ時まで寝てたってこと?」
「そうなりますね」
ギュールズは息を吐いた。苦笑だった。
「お疲れだったんです、身体も心も……」
ニーナが気配りを見せたが、ギュールズはいいよ、と笑った。
「まあ、そうなのは否定しないけれど、ちょっと気を抜きすぎだよね」
よいしょ、と座り直す。
今朝ほどは傷も痛くない。薬草が効いたのだろう。
置きっぱなしで硬くなったパンに手を伸ばし、食べていい? とニーナに聞いた。
はいと頷くのを待ってからパンを口に運んだのだが、咀嚼していると、ずいぶんと空腹であることに気付いた。
決して美味しいパンではないはずなのに、あっという間に平らげてしまった。
パンかすまで舐めとって、ふと顔を上げると、ニーナと目があった。
まん丸に見開かれた彼女の双眸は、けれど一瞬くすっと微笑んだ。
「……ごめん。意外とおなかぺこぺこだったみたいだ、俺」
「みたいですね」
少し穏やかになったニーナの表情に、嬉しいやら恥ずかしいやらで頭をかく。
ふいっと顔をそむけたギュールズは……それに気付いた。
「え?」
「はい?」
ニーナがすぐに振り返る。
そこには黒馬が静かに佇んでいたのだが、その脇に、荷物が置いてあったのだ。それは、旅支度だろう。
「ニーナ、これ」
「はい。用意しました。準備できたのはこれだけですが、これ以上はここでは無理です」
そしてニーナは彼女の手元にあった大振りの袋に手を添えた。
「ギュールズさま、これはどうされます?」
「うん? それは?」
「あの……ギュールズさまのマントと」
皆まで聞かずともわかって、ギュールズはびくっと身体をすくませた。
ずきっと傷が熱を持つ。
「法衣、だね」
「ほうい……はい、そうです。処分されますか? 見つからないようにするには、燃やすのが一番良いかと……」
「駄目だ!」
ギュールズは耐えられず、大きな声で遮った。
手を伸ばしてその袋を奪うように引き寄せる。
ニーナはびっくりした顔で口をつぐみ、小さくなる。
「申し訳ございません」
「駄目だ……これは、手放せない……」
「大変失礼しました。お許しください」
額を下げてニーナが謝る。
ギュールズはぎゅっと袋を握ったまま、彼女の床につきそうな黒髪を見下ろした。
「これは、大事なものなんだ」
「はい」
「これだけは手放さない」
「はい、もう二度と言いません」
「これだけは……これだけは……」
ギュールズは何度も何度も口にした。
深紅の法衣に憧れ、一生懸命勉強し、法衣と国紋と杖を受け取ったあのときの、言葉にしようのない気持ちを、ギュールズは忘れられない。
これだけは、捨てられない。
全身の傷から、血が流れ出しそうなほど痛かった。
「い……っ」
法衣の入った袋を抱き抱えて、痛みにうずくまる。
「ギュールズさま……っ」
頭を下げていたニーナが手を伸ばして支えようとするが、起こすときに触れたら痛がったのを思い出したのか、手をとめた。
「ギュールズさま? 痛みますか? まだ……動くのは無理でしょうか」
寄りそうように、でも決して触れないところで気遣ってくる。
痛みは……確かにある。
けれど、それを意識の外へ追い出す術は持ち合わせている。
ギュールズはファーンの魔法使いだ。
生半可なことでは務まらない。
「……ニーナ」
「はい」
「君はどこまで知っているの?」
話しながら呼吸を整える。
大気を読むのが上手い魔法使いが近くにいたら、いまの自分はすぐにすべて読まれてしまう。
「……すべて、存じ上げています」
確か、はじめに会った時も、そう言っていた。
けれど、すべてとはなんだ? ギュールズの知らないことも、すべて、か?
「ニーナ」
「はい」
「俺を探している追っ手はいるの」
「います」
ギュールズは少し、頭を上げた。
彼女の膝が目の前にあった。
「近くに?」
「村にはやってきました。あなたさまの生まれ故郷と知って探しに来たようです。あなたの名を言いふらして、村には戻ってこれないようにしたのだと思います」
「俺は……すでに反逆罪の罪人ってわけだ」
「そういうことに、なっています」
ニーナは冷静に喋っているように見えるが、言葉の端が震えてた。
「俺のせいで、君は怖い思いをした?」
「いいえ」
やたらとはっきりと答えが返ってくる。
ギュールズはもう少し頭を上げた。
胸の前で組まれた彼女の手が見えた。
「俺はここから逃げてどこへ行くんだろう」
「ウィンダリアを目指すのがよいかと思いますが、お怪我がひどければ、ひとまずアンデルシアに身を寄せるのも良いかもしれません」
彼女は……どうして自分をかばうのだ。
幼友だちだから、では絶対になさそうだ。
誰の、どこの機関の意志が働いているのだろう。
考えられる候補は多くはないはずだが、思い当たるものはひとつもない。
「じゃ、もうひとつ」
ギュールズは頭を上げた。
もう呼吸は乱れてなどいない。ギュールズ・ルビオットは、一流の魔法使いなのだ。
「はい」
顔の右半分に大きな痣がある娘が頷いた。
その瞳は、黒。
「月は、出ている?」
魔力の源の力。
夜空に浮かぶそれは、薄い赤色をしている。
ファーンの基調色は、黒と赤。夜と月を表している。
「いいえ」
ニーナはためらわず答えた。
当然のように知っていることを答えたかに見えた。
月の運行は魔法使いにとっては重要だが、それ以外の人間には、言ってしまえばどうでもいいことのはずだ。
豊かでもない村の娘が、月がきれいだったというのならまだしも、今宵は月がないということを、問われてすぐに答えられるのは、少し奇妙だ。
彼女は、何を知っているのか。すべてとは?
「月はないんだね」
「はい」
「闇夜、なのか」
「はい」
何度も確認する。
月のない夜……だから彼女はギュールズを起こしたのか。
「それじゃ、出発しようか」
ギュールズは顔を上げた。
夕暮れのオレンジ色はとうに消え去り、隙間からの光は夜の闇へと取って替わろうとしていた。
だから、時間なのだ。
魔法使いたちが魔法を使えない夜。
ギュールズは、逃げなければならない。
「はい」
ほんの少しなにか言いかけたニーナだったが、結局なにも言わずに頷いた。
ギュールズも、一瞬考えてしまいそうになった思考に急いで蓋をして、ふたりは黙って立ち上がった。