ガルシアは太守館から出ると、辻馬車があると聞いたほうへと急いだ。太守館から歩いてすぐのところだ。
「あ!」
片眼鏡を押し上げて、ばたばたと走り出す。
その気配に気付いたのだろう、ガルシアの視線の先で、少女が振り向いた。
「またお会いしましたね!」
声をかける相手は黒い制服の娘。ガルシアを見返す黒い瞳には、なんの感情も浮かんでいないように見える。
「あなたも王都へ?」
駆け寄って並ぶと、大人と子どもにしか見えないが、ガルシアは少女を子ども扱いなどしなかった。
黒の少女はちらりと馬車に目をやったが、首肯することなく黙ってガルシアを見返した。
御者の男が顔を出した。
「出発するよ、そこの兄ちゃん、乗るのかい?」
「えっ? あ、はい、王都へ行くんですよね、これ?」
「そうだよ、乗んな!」
「はいはい乗ります」
ガルシアはへらへら答えると、黒の少女に向かっておかしな手招きをした。
「ほら乗りましょう。ご挨拶は馬車の中でゆっくり……」
今にも彼女の背中を押して乗り込もうとするガルシアの前で、少女はゆっくりと、でもきっぱりと首を振った。
「へっ?」
きょとんとしたガルシアに、再び御者が顔を出す。
「ほら兄ちゃん、時間だよ!」
「えっ! あ、わ、すすす、すみません! 大変です、忘れてることがありました!」
「はあ? なんだよ、乗らないのか。じゃあ行くぜ」
ガルシアがすみませんとぺこぺこするのを見もせずに、御者は馬に鞭を入れた。
ふたりの横を人が数名乗った荷台がのろりと動き出し、がたがたと音を立てつつ遠ざかって行った。
「……はあ」
それを見送ってガルシアは肩を落とした。が、自ら気合いを入れ直して顔を上げ、傍らの少女を見下ろした。身長差があるので、ガルシアは少し腰をかがめて覗きこんだ。
「どうしました? 馬車、行ってしまいましたよ? なにかお忘れ物ですか? は、もしかしてお金が足りなかったとか! えっと……わたしのフトコロでふたりぶんは……。いえ! 銀行に行けばありますよ! まかせてください!」
勢いよく顔を上げ、きょろきょろと周囲を見回す。そこらへんに銀行が……。
「あるわけないですよねぇ。えっと、どこへ行けばお金はおろせますかねぇ?」
再び肩を落とし少女を覗きこむ。
黒髪の小柄な少女はじっと無表情にガルシアを見返していたが、しばらくして小さく、でも大きくため息をついた。
「そうではありません」
少女が小さな声で言った。
「え? ではなぜですか?」
「なぜでもいいでしょう。あなたこそなぜ馬車に乗らなかったのですか。次の便は夕方ですよ」
黒の少女が……まるで無理をして喋っているのを、ガルシアはちっとも気にしたふうでもなく胸を張った。
「女性が困っているのに助けないのを、紳士とは言いません」
えっへん、と自分に酔ったようなガルシアの鼻の上で、片眼鏡がずるりとずれた。いつものようにそれを手で押し上げて、ガルシアは元の笑顔に戻る。
「お金がないのでなければなんですか、忘れ物? もしかして待ち人来たらず?」
思いつくままにたずねるが少女は黙ったまま、背を向けた。
「ひえっ? あ、あの、無視ですかっ? 待ってくださいよぅ」
ガルシアがあわてて追いかける。もちろんすぐに追いつき、すぐ後ろを歩く。
「どこにいくんですか? エスコートはいりませんか? いえいえ、へんな下心はありませんよ、本当ですっ」
ひとりで勝手にわめいてひとりで勝手に焦っているガルシアを、少女はしばらく歩いてやっと……立ち止まり、振り返った。その幼い顔は、少し眉がひそめられている。ガルシアは意味もなく両手をあわあわと動かした。
「ご、ごめんなさい。うっとうしがらないでくださいっ! 女性は繊細で困るなあ……あ! いえいえなんでもないです!」
それでも、少女は何も言わない。
「あの……」
ガルシアが肩を落として少女を見つめる。まるで捨て犬かなにかのようだ。
ひょろりとのっぽの男が、小柄な少女を前にして。
ぐーきゅるるる。
妙に音が響いた。
「……あ」
しぱしぱとガルシアが目を瞬かせる。
「あのー」
ぼりぼりと薄い色の金髪を掻く。それからへらり、と照れたように微笑んだ。
「よろしければお食事をご一緒しませんか」
ずっと無表情のままだったけれど、黒い瞳の少女は困ったように少し、首をかしげた。
風の王国ウィンダリアの最大の商業都市、港町トスカは、明るくて活気のある町だ。
ものが多い町には人も多く集まる。
国柄でもあるのだが、店も人々も開放的な雰囲気であることが多い。
そんな中でこの黒い制服は不思議なくらい目立たなかった。
何でも受け入れるのも国民性だろうか。
目の前の料理をかきこみつつ、ガルシアは頭の隅で考える。考えていると。
「……ぅわちっ!」
口の中に入れたものがものすごく熱くて、悲鳴を上げた。
「あちっあちっ」
ひーひー言っていると、すいっと水の入ったコップが差し出され、ひったくるように水を口の中に流し込んだ。ごくごくあおってやっと一息。
「た、助かりました……」
涙目でテーブルの向こうに礼を言う。それからあらためて料理を指差す。
「これ、チーズですよね」
こくんと目の前の少女が頷く。
「ご飯の上にチーズをのせて焼くなんて、初めて見ました。とんでもない組み合わせだと思いましたが、なかなかイケますね」
こくん、と目の前の少女がもういちど頷く。
ただ、とガルシアは涙目でもう一口水を飲んだ。
「こんなに熱いものとは知りませんでした」
無表情な少女が、わずかに呆れたような色を目の奥にちらつかせたが、一瞬だった。
彼女は食事も頼まず、グラスを前にしているが、それも口をつけたかどうかわからない。
ガルシアはというと只今三人前を完食目前にしている。
「すみません、わたしひとりで食べて。あの、それ、お好きじゃなかったですか、ココナッツミルク」
注文を取りに来た女性が、今だけのおすすめだと言って示した飲み物が甘そうだったので、彼女のために注文したのだけれど。
「……」
ガルシアが覗きこんで返事を待つ。
少女はしばし沈黙のままだったが、やがてためらいがちに口を開いた。
「嫌いじゃないのですが……ちょっと、いまは、理由があって飲めないんです」
「ええっ? そうなんですか? そ、それはかえって悪いことをしましたかね?」
あたふたするガルシアに、彼女はほんの少し、微笑んだ……ような気がした。
ガルシアは最後の皿をきれいにたいらげると、ふーと息を吐いた。
「さぁて、腹ごしらえもしましあし、次こそ王都行きの馬車に乗りますよ!
拳を突き上げるガルシアを、黒髪の少女はじっと見ているだけだった。